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 いつだって思い出すのは母の後ろ姿だ。決して入ってはならないと言われていた部屋、その入り口に立つ幼い自分。当時、名前すら知らなかった器具の並んだテーブル。一人でうまく寝付けない夜、ナマエは廊下に蹲りただひたすら待ち続けた。真夜中、幼い娘を一人にしてでも没頭していた研究を終えた母が部屋から出てきて、驚いた顔をして抱き上げてくれるのを。母の柔らかな温もりとツンとした薬品の匂いが寂しさを薄れさせてくれる瞬間を、膝を抱える手に力を込めて。
 ナマエの母はワイミーズハウスの料理人としての顔の他に科学者としての顔も持っていた。彼女曰く、科学者として活躍していた全盛期にワイミーと知り合い、一線を退いてからは彼の孤児院開設に助力したらしい。
 ナマエは父親の顔を知らない。母も夫のことを語ろうとはしなかったし、ナマエは母一人でも寂しい思いをしたことがないので、そもそも聞く必要がなかった。けれど、それを後悔する日が来るなんて思ってもみなかった。だって、まさかこんなにも早く最愛の母との別れが訪れるなんて思うはずもない。

「ナマエ、今日からここがあなたの家です。なにかあれば今まで以上に私やロジャーを頼ってください」

 十歳の誕生日を迎えた翌月、母はハウスへの通勤途中に、交通事故に巻き込まれて他界した。その日、ナマエは熱を出して自宅で寝ていたので事故を回避することができた。
 目が覚めたとき、ナマエの額に乗せられたタオルを変えてくれていたのが母でなくワイミーだと気がついた。ワイミーはいつもの柔和な笑みとはまた違う、どこか寂しげな表情をして母を探すナマエの額を撫でた。その掌の冷たさを、彼女はよく覚えている。
 そして熱が下がり、また一人で歩けるようになった日の午後、ナマエの母の葬儀は執り行われた。場所はワイミーズハウス近くの教会。参列者はワイミーを始め、ロジャー、施設のスタッフ、子供達。その中にはエルの姿もあった。
 エルはいつもの白い長袖シャツと擦り切れたジーンズ姿で一番後方に立ち、ワイミーの横で俯くナマエの後ろ姿をじっと見ていた。ナマエは、その視線をなんとなく感じていたように思う。
 個室を与えられて以来、梃子として部屋を出てこなかったあのエルが参列してくれるなんて、ママは随分慕われていたんだな……そう思うとまた涙が止まらなくなった。



 二◯◯三年十月。
 冬の気配を感じるこの時期になるとナマエは浮き足立つようである。指摘してきたのはハウスで暮らす天才児達だ。十歳も年下の子供達にバレたことはあまりに恥ずかしく、彼女は一日常よりも大人しく生活した。逆にそれがまた怪しく、頭の回転の素早い彼らの格好の玩具となったのは言うまでもない。
 夜、ナマエは一人暮らしのアパートで木苺のタルトを作っていた。所々建て付けの悪くなった古いアパートは母が生きていた頃、二人で住んでいた物件である。十五歳でハウスを出てから入居し直したので今年で九年目になった。
 もうすっかり一人暮らしは染みついて、朝目が覚めた時の孤独感に涙することはなくなった。エルと交わした年に一度の約束は、日々を生きるナマエの支えになってくれていた。
 世界の切り札様は捜査のため忙しく世界を渡り歩いているようで、明日は朝から電車を乗り継いでフランスへ入らなければならない。パリまでのチケットは既に手配されており、場所は相変わらず誰でも知っているような高級ホテルのスイートルームだ。
 しかし、今年は比較的近距離でよかった。昨年はオーストラリアまで飛んで往復で疲れ果ててしまった。

 パリのシンボル――エッフェル塔を臨むガラス張りのエレベーターに乗り込み最上階を目指す。慣れないフランス語にドギマギしつつも、なんとか無事辿り着いたスイートルームに見知った後ろ姿を見つけた。

「最近、あまりやる気が出ないんですよね」

 そうボヤくのは年に一度、自身の誕生日だけは休暇を取る世界的名探偵である。昨年の誕生日に会ってから体格、髪の長さに至るまで何一つ変化のない痩身の青年は、ナマエの持ってきたタルトにフォークを突き刺しながら深々とため息を吐いた。

「起きるのは私でなくとも解決できる事件ばかりです……」
「あなたみたいな探偵が暇をするほど世界が平和でなによりじゃない」
「ええ、そうですね。そうなんでしょうけど……このままだと私退屈で退屈で、それが原因で早死にしそうです」

 何を大袈裟な、と笑い飛ばせないのはナマエがこのエルという男の生態を知っているからだ。
 無類の甘党である彼は、日々大量に摂取する糖分を、脳を働かせることでのみ消費している。曰く、頭を使えば太らない。全世界の女性を敵に回す問題発言だが、エルが言うのならそうなのだろうと思ったし、事実彼は大して運動してもいないのに太ることはなかった。
 もしもの姿を考えてみる。エルが推理するに値する事件が一切起きなくなり、彼が暇を持て余すようになったなら。今のまま糖分を補給し続けた場合の彼は生活習慣病まっしぐらだろう。ぷくぷくどころかぶくぶく太って糖尿病になって……本当に早死にしそうだ。ナマエは恐ろしくなって考えるのをやめた。
 そんなナマエを、タルトの最後の一口を嚥下したばかりのエルが胡乱気な目つきで見つめている。

「今、とても失礼な想像をしていたでしょう。分かりますからね、私」
「……エルは少しくらい太った方が健康的でいいって思っただけよ」
「これでもしっかりと健康体ですので余計なお世話です」

 たった今ワンホールのタルトを平らげた上、投入された大量の砂糖のせいでゲル状になった紅茶を流し込んでいる人間に健康体だと言われてもなんの信憑性もない。まあ、その点はワタリがしっかり管理しているのだろうと思い直し、ナマエはテーブルに置かれたワイングラスを手に取った。

「それにしてもさっきの発言、ハウスの子供達が聞いたら卒倒しそう。皆、理想のあなたに憧れて日々頑張ってるから、実際のLが面白い事件がないと退屈して死にかけてるなんて夢にも思わないでしょうね」

 ワイミーズハウスがただの慈善を目的とした孤児院から、将来のL――現在のLにもしものことがあった場合の後継者を育てる場として機能し始めたのは、彼がハウスを出て直ぐのことだった。
 各分野に秀でたハウスの子供達は世界で一番Lに身近な人間と言っていい。彼らは伸び伸びと育つ一方で、Lという絶対的な目標に近づくため日夜研鑽を積んでいる。そんな子供達がLという存在に、それぞれの理想を詰め込むのは自然なことだった。
 無論エルもそれはしっかりと理解していて、彼は特に不満を口にすることなく――ただ唇だけは不満気に歪めたまま――ティーポットから紅茶のおかわりを注いだ。

「ナマエも紅茶いります?」
「遠慮しとく。この通り、ワタリがワインも用意してくれたし」
「葡萄とは名ばかりで大して甘くもないそれをよくそんなにグビグビと飲めますね。理解できません」

 ナマエとしては、茶葉の風味も何もかもを損った砂糖水を美味として飲むエルの方が理解不能である。
 けれど、対抗する真似はしない。この二十四歳は不貞腐れるに決まっているのだ。

「そうだ、エルにお願いがあったの」
「お願い? あなたが私に?」
「うん。探偵業がすごく忙しいことは分かってるんだけど、今度どこか空いた時間でハウスの子供達に講話してもらえないかな」
「……」
「やっぱりダメ?」
「いえ、考えておきます。直ぐとはいきませんが年末くらいに少し時間を取ることは可能でしょう。ワタリに調整を頼んでおきます」
「! ありがとう。あの子達、喜ぶわ」

 思わず両手を叩いて感謝するのがそんなに珍しかったのか、エルは大きな目を瞬いた。「なに」問いかけると「いえ」と短く返事がある。

「良い先生をしているのだな、と感心しただけです」
「ふふ、そうでしょう。エルがハウスを出て行ってから私とても頑張ったんだから。あの中にあなたの後継者がいるかもしれないと思うと、疲れたとかもう嫌だなんて絶対に言えなかった」

 十五歳の時、エルはワタリと共にハウスを出て行った。母を亡くしたナマエは、今度は一番心を許せる友人を失ってしまった。あまりに悲しく、やるせなくて、もう何も出来ず死んでしまいたいとさえ思っていた彼女を人間へ戻したのは、ロジャーとハウスの子供達だ。ロジャーはハウスを出たナマエを呼び戻し、子供達は愛情を求めることで彼女に存在意義を与えた。

「また夜、眠れるようになったのはあの子達のおかげ。ハウスを出るまで私がちゃんと育ててみせる。それが私の恩返しよ」

 酒の力だろうか。ナマエは感傷的になっている自覚があった。十月三十一日、エルに会うこの夜は、こうして少なからず過去を思い出す。

「ナマエは、」

 静かに傾聴していたエルが口を開きかけたタイミングでナマエは席を立った。
 先程、先に休むと退室したワタリが最後に入浴の準備を整えてくれていたことを思い出した。
 ワイングラスはちょうど空になり、ナマエは頭を冷やす目的も兼ねて浴室を目指す。エルは「溺れないでくださいよ」と忠告して、椅子に座り直したようだった。

 時間をかけてゆっくりと入浴を終えたナマエは、用意されていたバスローブに身を包み、リビングへと戻ってきた。濡れた髪をタオルで拭きながらソファの上、揺れる黒いツンツン頭を見る。
 寝ている。あのエルが、寝ているらしい。
 話し相手を失ってすぐ寝入ったのか、エルは舟を漕いだまま起きる気配はない。項垂れていることにより長い襟足が前へ垂れて、白い頸が露わになっていた。

「……」

 エルはとても細い。身長だけ百八十近くまで伸びたけれど体重は比例しなかった。摂取する糖分の殆どを脳の働きに使っているとは言え、元を正せば体重が増えないのは彼の体質が原因だろう。初めて会った時からそうだ。エルはひょろひょろとしていて、静脈の青色さえ浮き上がるほど真っ白で、大きな目の下には消えることのない濃い隈のある、そんな見る者を不安にさせる子供だった。
 それらの特徴をそのままに身長だけぐんぐん伸びた青年の無防備な姿は、ナマエの中で燻る感情に火をつけるには充分な材料であった。酒の力だ。でなければこんな事、素面じゃ思い付きさえしないだろう。
 ナマエは音を立てずエルの背後へ忍び寄ると、晒された白く細長い頸へ唇を寄せた。薄く唇を開き食むように皮膚を挟み込む。すると、項垂れていた頭がビクンと大きく震えて一瞬の内に手首を掴まれる。

「……何をするんです、ナマエ」

 振り向いたエルは、右手でナマエの手首を握りしめたまま、左手で頸を押さえている。歯を立てたわけじゃないから血なんて出ていない。
 頭の良いエルなので、この行為に含まれた意味やナマエに敵意が一切ないことは理解できたいたはずだ。それでも問うた彼は、正真正銘混乱の最中にあった。優秀すぎる頭脳を働かせることも儘ならないほどに混乱し、彼は呆然とする幼馴染の女へと回答を求めた。
 ナマエは、無言のまま掴まれた手首を見下ろす。エルの長く綺麗な指はしっかりと自分の手首を掴み上げていて、ちょっとやそっとじゃ離れないだろう。
 男の人の手だ。子供じゃない。離れた年月分、確かに自分達は歳をとっている。

「エルなんてずっと退屈していればいいのよ」
「……」
「あなたが退屈する=事件もなく世界平和。なによりじゃない。早死になんてさせないわ。ちゃんと私が見張っておく。砂糖の量も調整して、年に一回は健康診断を受けて、穏やかに暮らす……」

 酒の力とは恐ろしいもので、ナマエの口は冷えた心臓に反して次々ととんでもない我儘を吐き出し続けた。
 どれも大の大人が語るには、あまりに幼稚な与太話だ。エルが退屈する=世界平和なんてまずあり得ない。この広い地球上から犯罪が消えることはないし、世紀の名探偵Lにしか解決出来ない事件はこれから先も起こり続けるだろう。明日になれば、青年はナマエの知るエルからLへと戻る。それと同じくらい当たり前のことなのに。
 途端に感傷的になっている自分がひどく恥ずかしくなった。吐き出す相手はエル本人で、彼が真面目な顔をして聞いてくれているのが羞恥を煽った。この際、馬鹿なことをと笑ってくれた方がマシだと思う。

「ナマエは、私と共に生きるつもりでいたんですね」

 きっと、ナマエが浴室へ逃げ出す前、口にしようとしていた内容はこれだと直感した。
 エルの少し掠れた男性らしい低い声が鼓膜を揺らし、涙腺を緩ませる。
 エルは掴んでいた手首をひいた。ナマエは自ら身体を傾けた。だからお互い、これは同意の上での行為だと認識していた。
 ソファから振り向いたままのエルと、背凭れに手をついて腰を屈めたナマエ。不安定な姿勢のまま唇は触れ合った。先程、ナマエが頸を食んだのと同じようにまずは触れるだけに留め、やがて薄く唇を開いて下唇を食む。濡れた舌先が先を求めるので、ナマエは暴れ回る心臓へ気づかないをしてその行為へ応じていった。ドラマや映画で見るような展開がまさか自分の身に起ころうとは。しかも相手は、あのエルだ。

「……するの?」
「はい。そのつもりでいます」

 引き寄せられるまま場所を移動して、仰向けに倒されたのはベッドではなくソファの上だった。その上に馬乗りになったエルは、ナマエのバスローブの紐を長い指に巻き付けながら言う。

「誘ったのはあなたからだ。私はそれに応じただけ……とは言い切れないのが難しいところです」

 大袈裟なまでのため息をついてエルはバスローブの結び目を解いた。晒された下着と素肌に身体を固くさせるナマエを宥めるように、大きな手が肌を滑り、やがて首筋と頬で止まる。
 対照的に一切着衣を乱していないエルは強く脈打つ頸静脈を食み、耳元へも唇を寄せた。

「大丈夫ですよ。あなたは私がいなくても生きていける」

 その言葉にナマエは泣いた。大人らしく声は押し殺したまま、自由になった両手で顔を覆って唇を噛み締め続けた。
 この行為の意味――そんなのは分かりきっていることだ。ずっと空いていた心の穴を、互いの身体で埋める行為は自慰の延長のようである。
 今夜だけは全てをかなぐり捨てて、自分を痛めつけるように及ぶ行為は、とても気持ちがよかった。



 いつだって思い出すのは母の後ろ姿だ。母が振り返ってくれる瞬間を心待ちに座り込む廊下の暗さと寒さはきっと一生忘れられない。

「ナマエ、そこはベッドじゃありませんよ。部屋へ戻りましょう」

 明かりのついていない廊下にぼうと浮かび上がる白は、よく知る少年の足の甲だった。何故足の甲だけが見えるのかといえば、それは私が廊下の板張りに寝そべっているからだ。
 時刻は消灯時間をとっくに過ぎた深夜一時。本来なら各自のベッドで夢の中にいなければならないのに、こうして私とエルは起きている。寒い冬の夜、古びた孤児院は隙間風だってすごいのに、防寒具さえつけていない。エルに至ってはいつもの裸足だ。

「ワイミーさんには言ったんですけどね。大人数の女子部屋へ詰め込むより一人部屋を与えた方がナマエの為になると。あなた、人に気を使ってばかりで休まらないでしょう」

 引き摺られるように連れて行かれるのは、いつだってエルに与えられた個室だった。窓もなく、四面全てにクッションウォールが敷き詰められた変な部屋だ。置いてある家具もベッド(使われることは殆どない)と箪笥のみ。部屋の中央には、ナマエでは分からない太さの様々な無数のコードが伸びたモニターが一台置かれている。
 エルの定位置はパソコンの前だった。膝を抱えるようにして座っていた方が思考が纏まりやすいようで、近年少年の猫背はますます酷くなっている。同時に目の下の隈も濃くなって、その染み付いた黒色を見る度ナマエは少し勿体無いような気持ちになる。皆はエルを不気味だと言うけれど、ナマエはそう思わなかったからだ。静脈の浮き出た青白い肌は確かに絵本に出てくるオバケのようだけど、すらりと伸びた四肢は太っちょの同級生より何倍も素敵に見えた。ワイミーとロジャー意外は知らないことだが、最近では暇潰しだとテニスを始めて、先日は偽名で登録したトーナメントに参加、ジュニアチャンピオンの座を勝ち取っている。顔立ちは特別美形というわけではない。生まれつきなのか眉は薄いけれど、鼻筋は通っていて目も大きい。きっと皆の言う【まとも】な格好をすればさぞかし見違えることだろう。

「ナマエ、聞いてます?」
「うん……聞いてる」

 纏まりのない思考の渦から現実へ呼び戻したエルは、キーボードをカタカタと叩きながらこれ見よがしにため息を吐いた。

「あなたがハウスに入ってもうすぐ三ヶ月です。お母さんは見つけられましたか」

 エルはナマエが徘徊する理由を知っている。頭の良い彼は、初日に既に察知し、翌日からは廊下で蹲るナマエを回収するようになっていた。
 意外と面倒見のよい友人に首を振り答えを返す。分かりきっていたことだ。死んだ人間は蘇らない。どんなに恋しくとも、もう一度だけでいいと願っても、二度と顔を見ることも声を聞くことさえも叶わない。

「あなたのそれはパラソムニア……夢遊病でしょう。母親の死が原因です。ワイミーさんは独りでいるより友人に囲まれている方が寂しさも紛れると思ったのでしょうがあなたの場合は当てはまらなかった。今は私がこうして迎えに行っていますが、これから先も続き、更に悪化するようであれば流石に報告しないわけにもいきません」

 涙と共に流れ落ちそうな鼻水をグズっと啜る。するとエルは「汚い。ティッシュ使ってください」と部屋の隅に置かれたケースを指差した。有り難く一枚拝借して鼻をかみクズ箱へ投げ入れる。
 ナマエは濡れて気持ちの悪い目尻を手の甲で擦りながらゆっくりと白い背中へにじり寄った。許可を得ることもなく身体を預ける。ビクッと震えて視線が落とされる。

「私には両親がいないのであなたの気持ちを分かってあげられることは出来ません。けれど、それが寂しいというものなのだろうとは理解できます」
「……うん」
「……先の話をしてもただ恐怖を増長させるだけでしたね。すみません。悪手でした」
「…………うん」

 椎骨の浮かんだ細い身体は思いの外暖かくて、洗剤の匂いに混ざってエルの好きな甘いお菓子の匂いがする。頬を擦り寄せていると、大部屋のベッドでは感じることのできない安心感に包まれた気がした。

「大丈夫、怖くありませんよ。今は私がいます」

 それから一週間後、事情を察したワイミーはナマエへ一人部屋を与えた。エルは告げ口をしなかった。ナマエが一人で眠れるようになるまで、我慢強くない彼にしては珍しく夜毎彼女を探しては寝付くまでそばに置いてくれた。
 更に五年後、ナマエはワイミーからの助力の上で母が管理していたラボを受け継ぐこととなる。ちょうどその頃だ。エルがワイミーと共にハウスから姿を消したのは。
 母の後ろ姿にエルの可哀想なくらい曲がった猫背が重なって思えた。



「まだ研究は続けているんですか」

 つい先程まで身体を重ねていたとは思えないほど、エルの声色はいつも通り淡々としている。
 場所をベッドへ移すこともなく、ソファに横並びになった二人は揃って膝を抱えたまま言葉を交わす。

「うん……ハウスに来てくれる教授に助言貰いながらボチボチね……」
「どうです。形になりそうですか」
「どうだろ……まだ五割ってとこだな……というか、なに、私の研究にそんなに興味があったの?」
「はい。あります。興味津々です」
「嘘ばっかり。あなたは一生使うこともない品物でしょうに」

 ナマエはバスローブを肩にかけ、エルは下着とジーンズだけを履いている。空調の効いた室内は暖かく、こうして素肌を晒していてもなんの抵抗もなかった。隣にいるのは互いに肌どころか全てを見せ合った相手で、今更恥ずかしがるほどこういった経験がないわけでもなかった。

「それより他の話をしましょう」
「はあ……たとえば?」
「そうだな……あ、意外だったんだけどエルって経験あったんだね」
「あえてこの話を選ぶセンスが私は意外です。が、なんだか馬鹿にされている気がするので答えましょう。ありますよ、一応。犯罪者の動機の中にセクシュアリティはよく絡んできますから。彼らの心理や行動を把握する上で経験していないと分からないことも多いでしょう」
「な、なるほど。エルらしいけど二十代の青年らしからぬ主張だね……なんか心配になる」
「一般の同世代の若者と違っていることは私も理解していますよ。でも余計なお世話です。私はこの通り素性を明かせる立場ではないので、相手の女性もその手のプロを頼みましたし」

 いや、そこまで聞いてない。
 ピロートークには向かない話題を振っておいてなんだが、彼の過去の相手を知るつもりはなかった。居た堪れなくなってバスローブの合わせをキツく閉じる。するとエルはそれを見咎めるようにこちらへ身を乗り出し顔を覗き込んできた。至近距離でじいと見つめる黒の双眸には批難の色が含まれている気がして、その気迫に思わず後ずさってしまう。

「そう言うあなたは? 処女ではありませんでしたね。お相手は?」
「……答えなきゃダメ?」
「私に答えさせておいて自分は黙りですか。ダメに決まっています。今この時のみナマエに黙秘権はありません」
「人間に与えられた平等な権利……」
「私相手に行使出来ると思いますか」
「……うっ、機嫌悪くしないでよ」
「……はい」

 数秒の間が気にかかるが、答えなければ世界一の探偵による尋問は終わらないだろう。ナマエは視線を逸らしながらやっとの思いで相手の名前を口に出した。それはエルも知る、当時ハウスに在籍していた上級生の名前であった。

「よりによってあの男か」

 ほら、怒ったじゃないか!
 エルと相手の仲は悪かった。それはワイミーも知る事実である。エルがハウスへ来た初日、彼をリンチしようとした上級生の一員で、事あるごとにエルを敵視していたので心象は最悪だろう。
 エルは親指の爪をガリガリと噛みながら薄い眉を顰めた。思い返せばエルがテニスを始め、出場したトーナメントの決勝で競った相手もその上級生だった。なお、完膚なきまでに叩きのめされた上級生はその日を限りにテニスを辞めている。

「経緯は」
「え、彼いま消防士をしていてハウスに消防訓練で来てくれてそこから……」
「交際していたということですね」
「交際……まあ、そうなるかな」
「なるほど。あの男が人との約束を守るような人間でないのは分かっていたことですが、数年経てば時効だとでも思ったのか……あの馬鹿」

 なにやら雲行きが怪しい。
 弁明させてもらえなるなら交際と言ってもそれは短期間だ。春から夏になるまでの三ヶ月ほどのスピード破局であった。いや、待て。そもそも何故弁明する必要があるのだろう。確かに今しがた二人は関係を持ったが、交際関係にはないのだから機嫌を損ねる謂れもない。特に過去ならば尚更である。
 そうこうしている内にバスローブを握りしめる手に指がかかった。細長い指はナマエの指を解こうとしている。

「え、なに」
「もう一度しましょう。仕切り直しさせてください。いえ、します」
「拒否権ないの」
「ありません。諦めてください」

 一歩間違えれば強姦魔の自分本位な言葉でしかなかったが、指から力を抜いてしまうあたり自分もどうかしている。
 唇を寄せたのは、多分ナマエの方だった。了承の意味でのキスは早速イニシアチブを握られてしまって、されるがまま再度ソファへ沈むこととなった。
 翌朝、ワタリが戻ってくるまでに後始末を終えたナマエは、エルの「来年はアップルパイがいいです」という我儘に青筋を立てた。気が早くも来年の誕生日プレゼントを催促する前にまずはシャワーを浴びて服を着替えたらどうだ。



 謎の心臓発作による犯罪者の大量殺人が始まったのは、エルの誕生日から一ヶ月が経過した後だった。
 ICPO国際会議で正式に捜査に乗り出すことを宣言したLは、日本へ入り年末には本格的にキラ捜査を開始した。



「私を殺してくれますか」

 六月始めの早朝。普段は無視する非通知の電話に出たのは、何かのお告げのようであったと思う。
 通話口、名前すら名乗らず用件を述べた男の声をナマエは忘れたことがない。来年はアップルパイが食べたいと我儘を言った時と寸分違わぬ淡々とした声色で、エルはナマエへ自分の殺害を依頼した。
 本来ならば殺人犯を捕まえる側である筈の世紀の名探偵が、まさかこんな物騒な依頼をしてくるとは思えない。一瞬、ナマエは通話向こうの人物がエルの偽物ではないかと疑った。しかし、

「ナマエ。頼みます」

 自分を呼ぶ声は確かに昨年十月三十一日、あの一晩を共にした青年のものであったので、馬鹿げた疑問を投げかけることはしなかった。
 ナマエが一人暮らすアパートの地下には、かつてワイミーが用意し母が管理していたラボラトリーが在る。ハウスを出てから正式に受け継いだ小さなラボだ。

「分かった」

 乾いた喉は張り付いて、声を絞り出すにも気力がいった。鼻の奥がツンと痛む。

「今年の誕生日はあなたの顔が見られそうになくて残念です」

 遠く日本に居るエルはナマエの返事に満足そうに小さく笑った。あの大きな目を伏せて唇を持ち上げているのだろうと想像した。

 二◯◯四年十一月。冬の支度を始めたワイミーズハウスに一つの報せが届いた。
 L is dead.
 眉間の皺を揉み込むように指を添えたロジャーが差し出した携帯に記された電子文字をナマエは見つめ続ける。見ていられなくなったロジャーが彼女から携帯を取り上げるまで、薄く開いた唇から音が漏れることはなかった。

20231031

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