>>追憶の彼方へ


この日は、朝から兎に角憂鬱だったのを覚えている。朝から家に親父がいた。それが意味する事を考えるだけで、身体のあちこちが悲鳴を上げているようだった。気持ちが憂鬱になるのに、これ以上の理由はない。そんな気持ちを抱えつつ登校するも、下校時間までは本当にあっという間だった。
背負い慣れたランドセルは4年も使えば所々傷だらけで草臥れている。自分もこんな、無機質な存在になれたらと何度考えただろう。
感情を殺そうと幾ら意識しても、奴の前では何の意味も成さない。痛いものは痛いし、辛いものは辛い。憎いものは、憎い。人間と言うものは、なんて不便な生き物なのだろう。
帰ったら、否応なしに稽古が待っている。自然と、帰り道の足取りは重くなった。
ふと、一匹の野良猫が目に入る。しなやかな躯体を見せつけるように歩く姿は何物にも捉われない自由さが滲んでいた。羨ましいと思った。自分の置かれている状況と比べてしまうと、何でも羨ましかった。その辺に転がっている石ころですら。誰でも、何でもいい。代わってはくれないだろうか。

「…あ、」

猫が、立ち止まって、こちらを一瞥したように見えた。そして公園の中に入っていく姿を見て、何故だかその時の俺は無性に、追いかけなくてはと思ったのだ。
初めて入る公園だった。この年頃の、特に男であれば尚更、公園など気に入りの遊び場の一つであるだろうに、俺にとっては無縁の場所だった。
夕刻手前という事もあって、公園は無人で夜の帳に包まれるのを待っているかのようだった。だから、猫はすぐに見つかった。大きな木の幹の下。小さな鳴き声を上げて、鋭い爪を立てながら器用に昇っていく。…ちゃんと、あいつは降りられるのだろうか。少しだけ心配で、自分も大きな木の下まで行った。
上を見上げても、生い茂る葉が邪魔をして猫の姿が確認できない。少し迷ったが、意を決して俺も昇る事にした。どうにかして帰る時間を遅らせたかったのだと、今は思う。
物心ついた頃から、範疇を超えた稽古を付けさせられたお蔭で、同い年の子と比べたら体力には自信があった。感謝など一切していないが、木登りくらいはお手の物だ。

「え、」

なんと、猫は人に成っていた。太い木の枝に足を掛けて、幹に身体を預けて。瞳は閉じられて規則正しい寝息が聞こえた。その光景を息をするのを忘れて凝視する。
長いスカートから伸びる足が白く眩しさを覚えた。風が吹くと、葉と一緒にそのひとの髪もゆらゆらと揺れる。何となく見覚えのあるセーラー服は多分、小学校の先にある中学校のものだったように思う。確信は持てないが、登下校で見たような気がするのだ。
この人の個性は猫に成る事なのだろうか。でも、さっきまで起きてたはずなのに、なんで眠っているのだろう。しかも、こんな場所で。色々な疑問が頭の中を埋め尽くそうとした時、下から、なぜか猫の鳴き声がした。思わず大きな声を出してしまった。先程の猫が、にゃあと鳴いていた。
いつの間に降りたのだろう。いや、そもそも個性──、ひゅう、と思わず息を呑んだ。驚くのも無理はない。閉じていたはずの目が開かれ、吸いこまれそうな程の黒い瞳がふたつ、じっとこちらを見ていたのだから。

「う、わ…っ」

ずるりと足を滑らせたのは、完全に自分の不注意だった。下を見て分かったが、結構な高さのところまで登ってしまっていたらしい。どうにか頭は守らないと、と両腕を動かした時、耳元で風の音がした。同時に勢いのあった浮遊感が消える。何事かと目を開けると、不自然な恰好のまま、宙に浮いていた。

「大丈夫?」

不安定な身体は女の人がいる場所までゆらゆらと浮かび、一瞬風が優しく舞ったかと思うと、自分の足はしっかりとさっきまでいた太い枝のところに着いていた。何時の間に目の前まで来ていたのか、眠りから覚めた女の人が心配そうに顔を覗き込んでいた。

「怪我は?」

「して、ないです」

「痛い所も?」

「…うん」

「そう、良かった」

確かめるように頬に触れた指先は冷たかった。もう一度下を見ると、猫はいなかった。目の前の女の人は、猫に成る個性ではないようだった。「よくここまで登れたね」と背負ったランドセルを見ているのが分かったので、その意味も理解した。

「直に、暗くなるよ。一人で降りられる?」

「一緒に、おりる」

分かったと一言呟いて、華奢な身体に引き寄せられる。指先は冷たかったのに、その人の体温は酷く心地が良かった。規則正しい心音を聞いていると無性に泣きたくなる。
名前を呼んで抱きしめてくれたお母さんは、もう居ない。思い出すという行為は自分を傷つけるばかりで何も良い事がない。「こわくないよ」耳元で声がする。
無意識にセーラー服を掴んでいたのがバレたのだろう。背を撫でる手は記憶の中の母親とは全然違うが、それに酷く安心したのは事実だった。
優しい浮遊感に包まれて下に降りるまで、ほんの数秒程度。地にゆっくりと下ろされる。緩やかに頭を撫でられ、その心地良さに目を瞑った。

「もう、怖くない?」

「うん…ありがとう」

「じゃあ、気を付けてね」

「ねえ、──」


こんな鮮明な夢を見たのはいつ振りだろう。自宅の一室で体を起こし、轟はぼんやりとする思考でそう思った。すごく、懐かしかった。そっと自身の頭部に触れる。不思議な事に、撫でられた感覚が残っているかのようだった。名前も知らない顔も朧げ。会ったのは一度きり。何年も前の記憶。何故か、こうして時々夢に見て思い出す記憶。
あの時、自分はあの人に何と言ったのだろうか。あの人は、何と返してくれたのだろうか。それだけ、毎回思い出せない。手を振って背を向けた髪に靡く、セーラー服の胸元にあったのと同じ色のリボン。
朝食に呼びに来た姉が部屋に入ってくるまで、轟はぼんやりと考え続けた。あの人は──今どこに居るのだろうかと。


***


「あ…、あ、貴女は…!」

汗だくの身体を疲労で震わせて、少年──緑谷出久は感極まったように名前を見つめた。「あー、自己紹介してないし、初めましてになるのかな?一応」と首を傾げながら緑谷を見つめると、丸い瞳を輝かせて半歩前に出た。
緑谷は震える手でガシッと名前の両手を掴んだ。思ったよりもしっかりとした男の子の手だ。「あ、あのっ、握手してもいいですか!!」「もうしてますね」何とも不思議な会話だ。
「み、緑谷少年…随分と積極的だな」と、オールマイトですら若干引き気味だ。そんな最も尊敬しているヒーローの言葉すら、今は彼の耳には入っていないようだった。

「お会いできるなんて光栄です!!オールマイトの相棒(サイドキック)の苗字名前さん!オールマイトの動画で何度も観てました!!戦闘においては接近戦も遠距離戦にも有利な“個性”、加えて災害救助にも活躍の期待出来るその汎用性の高さには毎回鳥肌が立ちました!!若手ながら持前の個性と的確な判断力・観察眼を併せ持った貴女の事を業界の人間で知らない人はいないんじゃないでしょうか!?噂ではオールマイトの相棒(サイドキック)になった今でも是非うちに!と数多の事務所からのオファーが後を絶たないと聞いています!ああああどうしようサイン貰いたいのに僕とした事がノートを忘れてくるなんて…!」

「……オールマイト」

「なんだい」

「随分…かわ、面白い子ですね」

「そうだね、少し変わっているけどいい子だよ」

息継ぎがきちんと出来ているのか心配になるくらい、ブツブツと独り言のような声量でそう言い切った緑谷を悩んだ挙句面白い子と評価した名前に、オールマイトは苦笑を浮かべる。
進捗状況が気になった名前が頃合いを見計らって海浜公園に立ち寄ってみたら、彼女を視界に入れるなり大の字で寝っ転がっていた緑谷が血相を変えて起き上がり、今に至る。
一方的な握手を交わし、二三言交えると大分落ち着きを取り戻したらしく、「すみません、つい」と申し訳なさそうに言葉を発した彼は、オールマイトの言う通りいい子なのだろう。
ぐるりと名前は辺りを見回す。夕日は確かに綺麗だが、ここからでは“不純物”が多すぎて決して綺麗な場所とは思えない。
ドラム缶、鉄パイプ、空き缶、タイヤ、冷蔵庫、テレビなど、大きなものから小さなものまで、この場所は漂流物と不法投棄物で溢れている。
はい、と名前は緑谷に常温のスポーツ飲料水を手渡した。オールマイトにはお茶を。
「ありがとうございます」と恐縮そうに受け取るなり、一気に半分まで飲み干した彼を見て名前も自身のポケットへと手を伸ばし、常備しているカロリィメイトを頬張った。
名前の個性は自分の体内エネルギーを代償とする為、小まめなカロリー摂取が必要不可欠になる。その為、栄養補給ゼリーなど簡易的な食糧を何かしら持ち歩いている。

「よし、緑谷少年。それ飲んだらもうひと頑張りね」

「はい!」

「名前はその辺にいて。直に暗くなるし危ないから一緒に帰ろ」

「私にそのような心配は不要だと思いますが」

「だーめ。女の子なんだからさ!」

「はあ…」

余り納得のいかない様子で、けれどオールマイトの言葉に逆らうことなく、名前は近くにあったトラックのタイヤを椅子に見立てて座った。
入試まであと4ヵ月。写真で見た時よりしっかりした体つきをしているのに気が付いた名前は、頬杖を突きながらこれは楽しみだと頬を緩めた。
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