>>楽園には薔薇が要るから


「全力で、かかって来い!!」

ぞくぞくと背筋を駆け上がるのは、恐怖か否か。粟立つ両腕を思わず抱きしめるように組んで、名前は茫然と目の前の試合を見ていた。こんなに痛々しい試合、他にあるだろうか。
確かに無傷では済まないと思っていた、緑谷の今の全力でぶつかっていかなければ、轟とは対等に戦えないとも思っていた。ゾッとした。人間の脳は、痛みに対する耐性が薄い。だから痛みを感じる前に考えるより先に体が咄嗟に反応をする。痛覚を出来るだけ緩和させる為に。
彼は今、“痛い”という信号を遮断している状態にあるのだろう。アドレナリンの上昇も相俟って痛覚が正常に機能していない。だから、自ら激痛の渦に飛び込んでいけるのだ──今は。ついこの間まで中学生だったこの子が、こんな過酷な戦い方をするのか。
氷結が地を這う度、大事なものが確実に失われていく。繰り出される圧倒的なパワーは、確かな痛みと引き換えに目前に迫る氷結を粉々に砕いていく。
「止めますか?」静かに試合を見守っていたセメントスが重い口調でインカム越しにミッドナイトの判断を仰ぐ。

「あの負傷…恐らく一度の回復で全快は……例え勝っても次の試合はムリかもしれませんよ?!」

「……もう少し、様子を見るわ」

轟は右の個性だけで上に行くと言った。緑谷は、そんな轟の考え方が解せない。全力も出さずに取る一番が良いなんて緑谷が言えるわけがない。いつも全力で戦っている緑谷からしたら轟は不誠実に映るだろう。でも轟は轟で、自分の中に渦巻く気持ちと、個性と闘い続けてきた。
両者の思いが今、試合という形で激突している。

「だから…僕が勝つ!!君を超えてっ!」

「親父を──…」

「君の!力じゃないか!!」

心臓が脈打つ。緑谷の叫びが轟の身体を揺さぶった。その言葉に泣きたくなったのは何故だろう。轟の記憶の中の母親と緑谷の言葉が共鳴する。そして湧き上がってきた炎に、轟は久しく暖かいと一瞬眼を閉じた。

「勝ちてえくせに…ちくしょう」

熱風が今度は場内を満たす。煌々と燃え上がる炎は酸素を取り込んで膨張していく。「俺だって、ヒーローに…!」初めて、轟が表情を崩した。それに応えるように緑谷も笑みを浮かべる。ここからが本番だと、2人は漸くここに来て何の柵もなく、只のヒーローの卵として対峙出来た瞬間だった。
ぽたりと頬を滑り落ちたのは汗か涙か。それを拭った轟に、エンデヴァーの叫びは恐らく聞こえてはいない。彼が今見るべき相手は、目の前で笑う緑谷のみだ。

「──どうなっても知らねぇぞ」

それが合図だった。燃える炎が氷結を繰り出す轟の体温を調節し、凍傷を防ぐ。同時に地を踏み鳴らした2人は、お互いを目掛けて突っ込んでいく。
セメントスと名前が同時に立ち上がった。「ミッドナイト!」両手だけでなく、緑谷は足も犠牲にした。万が一威力が相殺されたとしても、今の緑谷の状態では危険が大きすぎる。セメントスが作り出した5枚のコンクリート壁も、名前の風も全て巻き込んで膨張し、吹き飛んだ。
ぱらぱらと飛んできたコンクリート片が視界を覆う。名前が風で煙幕を吹き飛ばすと、壁に背を預けた緑谷がずるずると崩れ落ちるところだった。「緑谷くん…場外!轟くん、3回戦進出!」咳き込みながらもミッドナイトがそう叫び、試合が終わった事を告げる。
緑谷が頭を打つ前に、風で彼を受け止める。恐らく意識はない。「ハンソーロボ!!」名前が叫ぶ。担架に乗せてリカバリーガールのところへ運ぶと、そこには既に八木も居た。

「名前」

「手の…特に右手の損傷が激しいです。意識はありませんが頭部は打ってないので一時的なものかと」

風でベッドに乗せるとすぐにリカバリーガールの処置が始まる。幸い保健室には緑谷以外の患者は居らず、待ち時間なく対応して貰えた。
消毒液やガーゼを手渡しながら、名前はやっと息を吐く。そっと頬に滑る優しい指先。「…顔色が悪いね」生きた心地がしないとはこの事か。指摘されて漸く、名前は笑う事が出来た。

「大袈裟かもしれませんが、緑谷くん、死んでしまうかと」

「無茶やり過ぎだよ!ほんと」

名前の言葉に便乗するように、リカバリーガールがそう言い放つ。「う、」と緑谷が唸ったのはその時だ。薄らと目を開けた彼は、ここが保健室だと知るとホッと息を吐き出した。
自力では起き上がれない彼の為に、リカバリーガールがベッドを操作して無理なく会話が出来るようにしてくれた。

「右手の粉砕骨折、もうコレ綺麗に元通りとはいかないよ。破片が関節に残らないよう摘出しないと…治癒はその後だ」

両腕を動かせないように固定された真っ白い包帯や三角巾が酷く痛々しい。体中傷だらけだ。浅く呼吸を繰り返す緑谷を見下ろして、リカバリーガールは続ける。

「憧れでこうまで身を滅ぼす子を、発破かけて焚きつけて…嫌だよあたしゃ…やりすぎだ、あんたもこの子も」

あんた、コレを誉めちゃいけないよと釘を刺され、八木が俯く。相変わらず手厳しい言葉の数々に、名前もついこの間の出来事を思い浮かべて苦笑する。
全ては心配から来ている言葉だと分かっているからこそ余計に、言われた方は辛いのだ。
ノックもなく派手な音を立てて保健室のドアが開かれたのはその直後だ。ぶは、と八木が名前の隣で吐血をする。驚いて吐血って…と内心ドン引きながらも即座にハンカチを手渡す彼女の表情に変化は見られない。

「みんな…次の試合…は」

「ステージ大崩壊の為しばらく補修タイムだそうだ」

途端わいわいとし始めた保健室だが、みんな心配している気持ちがあるからこそ、リカバリーガールも最初は目を瞑ってくれていた。
頃合いを見て安否が確認できたからいいだろうと、時計をチラッと盗み見た彼女はそのまま生徒たちを追い出すような仕草をしながら言った。

「心配するのは良いがこれから手術さね!ほら、行った行った!」

「私もステージに戻ります。緑谷くん、お大事に」

「ありがとう…ございます」

先程の騒がしさが嘘のように廊下に出ると静寂が名前を包み込む。ぐっと伸びをして階段を下りていると、曲がり角で見慣れた炎を身に纏った男と遭遇した。
わお、デジャヴ。思わず回れ右をした名前の頭部を容赦ない力が掴む。「いたたたた死にます」粉砕する!と逃げない意思を示すと割とあっさり解放され、名前は首を傾げる。
見上げたNO.2ヒーローの顔に、名前は僅かに目を見開いた。

「どうしたんです、鳩が豆鉄砲を食らって暫く経ったような呆けた顔をして」

「貴様相変わらずの物言いだな」

お望み通り粉砕してやろうかとヒーローらしかぬ発言に両手で遠慮する意を伝える。オールマイトさえ居なければ、彼は比較的温厚に対応してくれる。
不意にエンデヴァーが何かを名前に向かって雑に放り投げる。ひょいとその物体を風で受け止めると、缶の飲料だった。自販機に入っている見慣れた銘柄にどうしたのかと手に持ったまま名前は自分よりも何十センチも高い彼を見上げる。

「…まさか、NO.2ヒーローから施しを受ける日か来るなんて」

「消炭にされたいか」

「滅相もないです有難うございます」

エンデヴァーの好みは知らないが、多分カフェオレを飲むような人ではないだろうと見た目から勝手に判断して名前はプルタブに指を掛ける。
──とすると、これは彼が自らの意思で第三者に渡す為に購入した事になるのだが。
こくりと一口飲めば想像していた通り缶飲料独特の甘さがゆったりと口に広がった。

「──アレを、宜しく頼む」

今、エンデヴァーはNO.2ヒーローとしてではなく、一人の父親として、名前と向き合っている。いつも揺るぎ無い自信に満ちた冷徹な瞳は細められ、静かに名前を見下ろしていた。なるほど、と名前はその意図に納得する。缶飲料一本と引き換えにする頼み事にしては、聊か割に合わない。思えば初めての頼まれ事だった。最初で最後になるかもしれない。きっと何か転機でもあったのだろう──それに心当たりがない訳ではないが、深く詮索するような無粋な真似はしない。
もう一口、口に含んで掛けられた言葉の意味を模索する。

「それは、教師としての私にですか。それとも」

「両方だ」

ふふっと思わず笑い声が上がった。ワガママな人だ。賄賂を飲んでしまった以上、邪険にするにも気が引ける。「善処します」この程度の返事が妥当だろう。

轟さん(・・・)

「……なんだ」

「大丈夫ですよ、きっと」

何処にそんな確信が、と言いかけて、エンデヴァーは口を閉じる。らしくもない曖昧な頼み事をしたのはこちらだ。のらりくらりと躱されても文句は言えない。
まるで、身に宿す個性が具現化しているかのように、苗字名前という人間は掴みどころがない。悪戯に落ち葉を巻き上げる風の如く、こうしてのらりくらりと躱すのかと思えば、己の存在を誇示するように全てを持ち去っていく台風のように、時折見せる荒い情緒。
吸い込まれる程底の見えないその黒曜石のような瞳は今、何を思い何を考えているのだろう。

「苗字」

「何でしょう」

「お前は、いつまでサイドキック(その立場)に甘んじているつもりだ」

困ったように名前は笑う。お前程の実力ならば、相棒という枠から直ぐに外れられるのに何故と、エンデヴァーは言いたいのだろう。エンデヴァーは世辞は一切言わない人だ。個々の実力のみを評価し、時には利用するような人間だ。その人物の発したこの言葉は、思ったより威力がある。
「私が」今此処に立っている自分が酷く利己的な理由からだと言うのは百も承知だ。脳裏に過るのはいつだって、揺るぎ無い正義を背負ったあの人だ。

「あの人の隣に、立っていたいんです」

他の人じゃ、駄目なのだと。見上げる小さな身体に見合わず、揺れる瞳は確かな意思を孕んでいる。「邪魔したな」背を向けたエンデヴァーに諦める意思はない。
残り半分になったカフェオレを一気に飲み干すと、不思議と舌に残ったのは苦さだった。
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