>>古傷が癒えない


「基礎学…実践形式なら個性使用の“鬼ごっこ”“陣取りゲーム”その辺が妥当と思いますけど」

「やっぱそうだよねーうん」

「まずは基礎を学んでから実践というのがベターです」

「でもやっぱりね、こういうのは取り敢えず“やってみて”学ぶ事が多いというか」

「考え方が完全にグラントリノですね」

「ちょ、今先生の話を出すのは」

うぐ、とお腹を押さえた八木の手には「はじめての教師編@生徒との接し方と態度」が握られており、所々付箋も貼られていることから彼の教員職に対する熱意がひしひしと伝わってくる。名前はあむ、と箸で解した鯵の開きを口に運びながら彼是30分は彼の相談に付き合っている。
食事が終わる頃にはすっかり話もまとまり、食器を片づけ終わった名前は黙々と紙に書き起こしていく八木の隣に座ってくじを作るべくペンを握った。


***


「37.9℃。立派な風邪だね」

「…すみません」

「疲れが出たんだろう、ゆっくり休みなさい。お粥は作っておくから」

「……はい」

は、と吐く息はどこか熱を孕んでいて、呼吸すら気怠い。名前の額に触れる手はひんやりとして気持ちが良く、そのまま大人しく目を閉じる。
「お手伝いできなくて、すみません」と譫言のように漏らすと、「真面目か」と八木が小さく吹き出した。

「何も私の授業はこれっきりじゃないんだ、だから気にする事はないよ」

「でも、記念すべき一回目の授業なのにそこに立ち会えないなんて」

「名前、キミ緑谷少年みたいになっているよ」

うう、と後悔の念に苛まれながらも、薬が効いて来たのか段々と意識が遠くなってくる。
よしよしと一定のリズムで頭を撫でる大きな手がそれを促し、呆気なく名前は意識を手放した。
「……こわい」小さな言葉が口から零れ落ちた。ぴたりと八木の動きが止まる。

「…名前」

苦しそうにしながら寝息を立てる彼女に当然その声は届かない。体調が悪い時、決まって名前はある悪夢に魘される。今日も例に漏れず、思い出したくもない記憶と対峙する事になるのだろう。ずっと傍には居てやれない。だから一分一秒でも早く帰る事を寝ている彼女に約束して、後ろ髪を引かれる思いで背を向けた。


***


──名前ちゃん

──ねえ、名前ちゃん

記憶の中の“彼女”はあの時と変わらないまま、こげ茶の三つ編みを揺らしながら、名前に向かって手を振る。
ざっくりと斜めにカットされた前髪から除く赤い双眸が笑う度うっとりと細められる。手を後ろに組んで上機嫌にステップを踏みながら、彼女は名前へと近づいてくる。
指先ひとつ、動かせない。呼吸を忘れる程“彼女”の動きに夢中になっていた。名前の目の前まで辿り着いた彼女は、透き通るような白い手を頬へと滑らせた。

──名前ちゃん

──わたしね、わたし

くすくすと、愉しそうな声が零れ落ちる。これから言わんとしている事が、名前にはよく分かっていた。だからこそ、この続きを聞きたくないと全身がそれを拒絶する。しかし、身体は何も名前の言う事を聞いてはくれなかった。地に根を張ったように足は重いし、頭の奥がぼんやりとして思考が上手く機能しない。
何度も呼ばれているのに返事が出来ないのは、“彼女”がそれを望んでいるわけではないからか。血の気の無い指先がつう、と名前の唇をなぞる。

──大好きよ、名前ちゃん

思い切り腕を引かれて華奢な“彼女”に抱き込まれる。生きた心地がしないのはここが夢の中だからか、それとも“彼女”の纏う見えない狂気に気圧されているからか。
つう、と背中をなぞられて息を詰める。名前の耳元へ唇を寄せて、まるで恋人にするそれのように“彼女”は囁きかけるのだ。

──もうすぐ、会えるね


「名前!」

「──は、ッあ」

大きな声で名前を呼ばれて名前は肺に溜め込んだままのそれを勢いよく吐き出した。浅い呼吸を何度も繰り返す。どくどくと心臓の音が耳の傍で聞こえているみたいだ。
肩に触れる大きな手はよく知る人のものだと気付き、ここで漸く名前は長い悪夢から解放されたのだと心の底から安堵した。

「や、ぎさん」

「水だよ、飲めるね」

コップを受け取る指先はまだ震えていた。落とさないように支えてやりながら、八木は大きく息を吐く。ここまで名前が怯えているのを見るのは久しぶりだ。
夢と現実の区別をつけるのに時間が掛かった事から、相当追い込まれていたのだと想像できる。こくりと静かに喉が上下したのを見てそっと手を離した。

「落ち着いた?」

「は、い。…もう、大丈夫です」

「“あの子”だね?」

「……もうすぐ会えるねって」

“彼女”の個性は特定の相手に夢を見せるようなものではないので、実のところ正夢になるかどうかも分からない。何の信憑性もない夢だが、妙な確信があった。
胸のざわつきを閉じ込めるように服を握った名前の頭を八木は静かに撫でた。
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