腕から伝う濁った赤を見て、自分の中に流れる血の色はこんな色だったかとぼんやりと思った。パッと見、ヒトと遜色ない。この世に生を受けて早数百年。こうして誰かに危害を加えられたのは久方ぶりだった。痛みより感動の方が大きい。ヒト風情に手傷を負わされるなどという下らない矜持は生憎持ち合わせてはいないし、腹を膨らませる為の小さな代償だったと思えば腕の一本くらい惜しくも何ともない。
餌から無抵抗なままご馳走を頂けるのが当たり前になっていたから、良い刺激にもなった。大事な事であるから記述しておくが私に被虐趣味は一切ない。食にありつく為には時に多少の犠牲を払わなければならない場合もあると思っている善良な吸血鬼の一人である。


実にスリリングな夜であった。いつもより少し遠出をした甲斐はあった。出血量はそれなりであるが、命どうこうの問題はない。残念な事に息絶えたくともそう簡単にはいかないのが夜の眷属なのである。
ヒトが歩きやすく整備してくれた森の中の道は生き物の気配がまるでない。私の血の匂いに臆している者も中にはいるだろう。私の主食は主にヒトであるから喰えない事もないが基本的にヒト以外の哺乳類には興味がない。それでも被食者である彼らにとっては私の食事情など知る由もないから等しく畏れる対象となる。静けさを好む私からしたら好都合であるので気にもしない。

ふわりと夜風が森の木々を優しく揺らす。それに乗ってきた“におい”に殆ど反射的にすんと私は鼻を啜った。──血と、狼の匂いだ。
目を凝らすと道の先に進路を邪魔するように小さな塊が落ちていた。間違いなく、アレだろう。先述した通り私はヒト以外の血に興味はないし、今は腹も膨れている。歩みを進めたのは単にあそこを通らなければ帰路に就けないからだ。

「狼の仔か」

通りすがら視線を下に向けると、力なく倒れていたのはまだ成体にもなり切れていない狼の仔だった。横たわる腹に深い爪痕、しかしそれよりも──。

「ふむ。首の咬み傷が致命傷か」

匂いを嗅いでもこの狼の仔からは同種以外の匂いはしない。親元から逸れ難儀しているところを狙われたのか。
だらんとだらしなく口から垂れた舌が小さく動く。腹を見てもまだ辛うじて息がある事は解るが、時間の問題だった。可哀そうではあるが仕方がない。種族関係なく生きとし生ける物全ては強いモノが生き、弱いモノは淘汰される。自然の摂理だ。
明け方までには息を引き取り、放っておけばその肉は誰かの生きる糧となり残りは静かに土に還る。

「死が目前と迫ったモノの気持ちは、何百年経とうと解せんな」

その小さな塊を追い越した時だった。ハッ、と息を吐き出すように狼が声を上げた。そして私は在る事に気が付いて思わず歩みを止める。

──私の血を、

仔の黒い鼻に付着しているのは匂いからして紛れもなく私の血だ。身体を動かした時に腕から伝った血が数滴垂れたのだろう。しかし、それだけではない。己の舌先に着いた私の血を仔は体内に取り込んだ。その証拠に狼の仔の出血が早くも止まっている。これは紛れもなく私の犯した失態だった。

すん、ともう一度鼻を啜れば微妙に匂いが先程と異なっていた。この狼の仔はもう夜の眷属だ。「狼の仔よ、すまない」ただの狼で終わる筈だった命を、私が無理に繋いでしまった。これは紛れもない事実だった。そこに自らの意思があったかの真否は関係ない。
塞がりだした腹の傷、薄らと開いた狼の仔の眼は赤みを帯びている。まだ動く事は出来ない狼の仔に私は脱いだ外套をそっと掛けてやった。


「狼の仔、よくお聞き。もしおまえが死を望むのであれば、それを全うするのは私の役割だ。
その時は私を追ってくるといい。安寧の死を約束しよう」


望まぬ生を与えてしまったのかもしれない。もしそうであるならばその責任を、私は取らねばなるまい。
化物としての生を新たに受けてしまったこの仔に今それを判断するのは難しいだろう。だからと言って私がこの仔を引き取る訳にもいかない。
狼は孤高の動物だ。生きる為に群れる事はあれど、それも一時にしか過ぎない。過酷な一生を独りで生き抜き、知恵を学び力を付ける。例え夜の眷属になろうともその生き方は変わらない。そうして生きていくこの仔の邪魔を私はしてはいけない。もし狼の仔が死の間際で生への渇望をしていたのなら、生きるという望みは叶った筈だ。
私がこの仔に外套を残したのは、そうでなかった場合の為だ。その時は外套に染みついた私の匂いを追って再び目の前に現れるだろう。

「──選ぶのはおまえだ」

唸る事も吠える事も出来ない生まれたての化物の仔に最後にそう言葉を与えて、私は独り闇夜を歩んだ。



***



月明かりがやけに眩しいと思ったら、今宵は満月だった。窓際に置かれた一輪挿しに浮かぶ花は月の光でしか咲く事の出来ない特殊な花だ。それが満開に咲き誇っているのだから間違いなかった。
夜にしか開けられる事のないカーテンから漏れる月明かりの、えも言われぬ美しさ。咲く花と相俟って幻想的に輝く様はいつまでも飽きずに見ていられた。蝋燭の明りに照らされながらする読書は偶の暇潰しだった。

こんなに満月の美しい日は絶好の食事日和なのだろうが、生憎と今夜は何処も彼処も人狼が闊歩しているだろう。彼らは等しく残虐で野蛮で、餌であるヒトを蹂躙する事に一種の愉しみを抱いている連中があまりにも多く、出来る事なら顔は合わせたくはなかった。加えて縄張り意識も強くそんな人狼との揉め事など真っ平ご免だ。
遠くで狼の遠吠えが聞こえてくる。可哀そうに今頃ヒトは無差別に食い荒らす人狼に怯えているのだろう。
静寂をこよなく愛する私にとって騒音は不快でしかない。──窓ガラスの割れる音など、以ての外だ。室内に散らばるガラスの破片、落ちる花瓶と無残にも散る花。
呼ばれてもいないのに勝手に入ってきた風が蝋燭の明りを喰う。ぱたん、と本を閉じてテーブルに置いた私は足を組み換えて頬杖をつく。


「屋敷の入り方も知らんとは、本当におまえ達一族は野蛮だな」


不躾にも窓から入ってきた来客はフンと鼻を鳴らした。頭に生えた体毛に覆われた人外のそれが一切の音を拾わんと忙しなく動く。風に揺られる深緑のコートから香る匂いは紛れもなく狼のものだ。──人狼風情が私の屋敷に土足で踏み込もうなど、何と愚かしい事よ。
目と鼻を使っても、どうやら他に仲間は居ないようだった。見たところ随分と若い。漂う妖気も成人のそれと比べればまだまだ。思わず口角が上がった。

「生憎と狼の仔と戯れる趣味はない。八つ裂きにされたくなければ今すぐに去ると良い」

「…俺はもうガキじゃねぇ」

「その様子、まだ“成って”百年といったところだろう。粋が良いのは結構だが、掛ける言葉は選べ──死にたくなかったらな」

一気に重たくなった空気に人狼の表情が変わる。是式の殺気で瞳孔を広げて牙を噛むなど幼い証拠だ。退屈凌ぎにもならない。
乱雑な音を立てて私の足もとに何かが投げられた。所々草臥れた外套は、見てくれこそ悪いもののそれは間違いなく私の物であった。「……嗚呼、おまえあの時の」死にかけた狼の仔。意図せず生かしてしまった小さな命。
小さく頷いたその仔を確認するなり、殺気を収めた私はゆっくりと立ち上がって瞬きの間にその距離を詰めた。
「…が…っ、」首を引っ掴んで狼の仔を壁に押し付ける。容赦ないその圧迫感に仔の口から苦しげな声が漏れるがどうか我慢して欲しい──直に、楽にしてやろう。

「て、めェ…何す──」

「約束を、果たそう」

カッと狼の仔の目が見開かれる。仔の両手が首を絞める私の片手を離せと意思を込めて抵抗をしてくるが、こんなもの仔猫の戯れと同義だ。痛くも痒くもない。指を揃えて空いている手を狼の仔へと向ければ、鋭い爪先が月光に反射して妖しく光った。心の臓を一突きすれば、きっと苦しむ事なく逝けるだろう。

「はな、せ…っ!違ぇ!」

「──おや、」

唐突に漏れた否定の言葉に、私は首を傾げて取り敢えず首を絞める手を離してやった。目に涙を浮かべて咳き込む姿が少しだけ憐れだ。「殺めて欲しくて私を訪ねて来たのではないのか」私のその言葉に狼の仔は牙を剥き出しにして否定した。

「ンな訳あるかよクソが!俺は死にたがりじゃねぇ!」

「では何故来た。他に理由などあるまい」

狼の仔は懐から麻袋を出すと私に放った。中を見ると色取り取りの木の実──そこで納得した。狼は凶暴で残虐な一面がある一方、非常に義理堅い生き物だ。受けた恩は必ず返す。忠誠心が高い一面も持っている。

「私は名前。狼の仔、名は?」

「……勝己」

かつき、そう名乗った狼の仔は眉間に皺を刻みながらも私の行動をじっと観察していた。お互いもう敵意はなかった。勝己、呼ぶと私と同じ色をした深い紅の瞳がそっとその先を問う。

「触れても良いか」

勝己は私から視線を外し少しだけ下を向いた。そこに言葉は一切なかったが、私がゆっくりと手を伸ばしても払うような素振りはなかった。
月夜に映える赤白橡の髪は思いの外柔らかい。ぴくりと耳を揺らして言葉もなく私に撫でられる勝己はただただ従順だった。耳の後ろにそっと触れ、そのまま手を頬へと滑らせる。爪で傷を付けないよう優しく触れたそこは動物特有の温かさがあった。
「嫌か?」「…うるせぇよ」抱き寄せてみてもうんともすんとも言わないから一応聞いてはみたが、どうやら照れ屋さんなだけのようだった。あの時の消えかけの小さな命が「随分と大きくなったな」はっ、と耳元で嘲笑が聞こえた。

「てめェは俺の親にでもなったつもりかよ」

「そうだな、私の子ならもっと素直で可愛い子である事は否めないな」

「このアマ…!」

口は乱暴なのに抱きしめ続ける私を突き放そうとはしないし、尻尾は素直ではない彼の気持ちを代弁するようにゆらゆらと揺れている。蜥蜴や蛙も良いが、こうして愛情を目に見えて返してくれる動物も悪くはない。

「名前」

「どうした」

決して顔は見せず私はただ動く耳を追いかけるしかない。ぽつりと呟かれた言葉に、私は久方ぶりに表情を崩した。

「少しだけならてめェに尽くしてやる」

「ほう、それなら暫くは退屈せずに済みそうだな」

それから何十年かに一度、忘れた頃に勝己は時折私のもとを訪れるようになった。その度に麻袋一杯の木の実を渡され、他愛ない話をしながら夜を共にするのがここ数百年の私の小さな愉しみとなるのだ。
18.10.17
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