「……」

「ふむ…今、何と?」

「ヒトである事を捨てるのは可能か聞いた」

「焦凍が?」

「ああ」

永く生き過ぎて歳への執着がすっかりと薄れ、自分が今何百年生きているかも曖昧になってきたのもあって聴覚が到頭変調を来すようになったかと思ったが、どうやら聞き間違いではなかったようだ。

小さなヒトの子、焦凍を気紛れで拾ってから早十数年。
ただの餌であるだけではなく私の身の回りの世話まで率先とよくやってくれるこの子は、我ながら中々出来た子だと思っている。私としては拾ったからにはそれなりの愛着を持ち甲斐甲斐しく面倒を見てきた方だ。
焦凍を育てるに当たっては種族も異なるしすぐに死なせてしまっても面白くも何ともないから一応私より年上の元はヒトであった幽霊を従者にしている東の魔女に助言を貰い、何とかここまで育てた。赤子よりはある程度成長していたとは言え、それでも苦労はそれなりにあった。一つ申し訳ないと思うのは、私に似て表情の変化が乏しいところだろうか。
さて、そうして色々ありながらも立派に成長したヒトの子が今、私の目の前で随分と突拍子も無い事を宣った。


──俺を、ヒトならざる者にしてくれねぇか


思わず溜息が出る。何度も言わんでも聞こえている。どう返答しようか考えあぐねているのが解ってもらえないのが残念だが、眉ひとつ動かさない私にも非がある。焦凍も焦凍で表情にあまり変化が見られない為、お互い意図せず腹の探り合いをしている状況だ。
どうして突然ヒトである事を止めようなどと言う考えに陥ったのか。
顎に手を当てて思案する事数秒、取り敢えず私は真っ先に思いついた事を口にしてみた。

「ふむ。勝己に何か言われたか」

「…あいつは関係ねえ」

お門違いだった挙句、どうやら勝己の話題はタブーだったらしい。名前を出した途端、先程までの無表情が一変、焦凍の眉間に刻まれた皺を見て肩を竦めた。
すっかり冷めてしまった紅茶にティースプーンを無意味に突っ込んで、思考を纏める為にくるくると回す。小さく渦を巻くその様を見ても何の解決にもならないし憂いも晴れない。

「可能ではある。が、何故その考えに辿り着いたか理由を聞いても良かろうな」

「名前を、独りにしたくねぇからだ」

思わずティースプーンを床に落とした。響く不快な金属音など今は耳に入らなかった。それよりも、だ。
くつくつと這い上がってきた嗤いを抑え切れず、口元に手を当てて声を漏らす私を焦凍は微動だにせず見る。私が落としたティースプーンを拾う事も今は放棄しているようだった。一頻り嗤った私が出した言葉は、酷く残酷な声色を含んで室内に響いた。


「それは、憐れみか?」


びくりと焦凍の肩が大きく揺れたのは、私が怒っていると思ったからだろうか。存外低い声が出た事は事実ではあるが、私は怒ってなどいなかった。
どちらかと言うとそれに至るまでの焦凍の経緯に興味をそそられた。本当に、このヒトの子は私を飽きさせない。
焦凍は十数年私と共に過ごしただけで自分が居なくなった後の私の身を案ずるまでに私という化物の心の深淵に触れた気でいるのか。高々十数年しか生きていない、百年も生きる事も出来ない種族に、独りである事を憐れまれているのか。
ヒトを捨て同族になればそれを癒せると?
──随分と烏滸がましい。

今ここで、その白い喉元を切り裂いてあげようか

其処から吹き出る赤はきっと何よりも綺麗で残酷に違いない。ふふ、と変わらず私の口から漏れるのは嘲笑だ。
例えばこれを怒りと呼ぶのなら、解消するにはひとつしか方法がない。目の前のヒトの子を殺めてしまえ良い。
気紛れに首に手を掛け鋭い爪を這わせても焦凍は悲鳴ひとつ上げない。本当にいい度胸をしている。焦凍の薄い唇が言葉を発する為に開く。
さあ、一体この子はどんな言葉を私に吐くのだろう。先程の問いかけに対して是と応えるならば私は本能のままその喉元を優しく掻っ切ってやろう。
けれど焦凍の口から発せられたそれは、私の予想を大きく外してきた。

「俺が、名前と生きたい。そう思う事はダメか」

乾いた音を立てて、焦凍の頬が切れる。そこからじわじわと溢れ出してきた赤の誘いに私は乗れなかった。爪先に浮かぶのは紛れもなく焦凍の血。私に傷を付けられても焦凍は大声を上げるでもなく、ただ息を呑んで痛みを享受した。

──嗚呼、なんて莫迦な子なのだろう

あの時。今私に殺されるか私の餌として生き、後々殺されるかの二択しかなかったあの夜の選択。幼い子どもが化物を前に冷静に物事を考えられるなんて到底思えない。残酷な選択肢を与えた自覚はあった。訪れる死が早いか遅いかの違いだけで、無理矢理答えを出した焦凍にとってはきっと生き地獄でしかなかっただろう。

自由を望み、死を畏れるならば解る。しかし焦凍が何よりも望んだのは、ヒトである事を捨て私と共に闇を歩む事だったというのか。化物になる。今まで生きてきたモノ全てが覆る。私と生きたいという事はそういう事だ。そんな覚悟が見てくれだけ大きくなっただけのヒトの子にあるのか。
そんな問いかけは愚問だった。私が大層気に入っている澄み切ったオッドアイの瞳は揺れるどころかこんな状況でも濁りひとつ見せずに私をそっと映していた。この子は私の知らぬ間に随分と自己を見つめ、私という化物と向き合っていたという事か。

「名前…触れてもいいか」

ぴくりと震えたのは、私の指先だった。そっと焦凍の首から手を離す。それを肯定と受け取った焦凍はたった数歩の距離をゆっくりと詰め、私を抱きしめた。
私とは違う、温かい生き物。生きている証だと強く鳴る心臓の鼓動、しっかりとしている体躯の割に私とは比べ物にならないくらい脆い身体。

「好きだ」

ただの餌でしかない下等動物が何故こんなにも私に寄り添おうとしているのか。その答えを、焦凍はあっさりと口にした。
耳元で鼓膜を揺らす聞き慣れた声が時間を掛けて私の中に浸透していく。ヒトとは、脆弱である癖に何と愚かで興味深い生き物なのだろう。

「…その感情が、おまえをここまで突き動かすのか」

「ああ」

「ヒトを捨て、こちらに来ることの意味を解っていて、そう言っているのか」

「ああ」

「一度足を踏み入れたら、二度とは戻れん。それでも私と共に在りたいと?」

「俺の戻る場所は、名前の隣、そこだけだ」

ふう、と私は息を吐き出す。ただの退屈凌ぎに拾ったヒトの子。ただの家畜、ただの愛玩動物。それが、いつの間にかこんなに私の中に踏み込んで来ていたとは。
それを自覚した上で私はそれに悦びを感じているのは事実だった。永く生き過ぎたのか随分と焼きが回ったようだ。
焦凍の背に緩やかに腕を回すとそれに応えるように私を抱擁する力が強くなる。頬に付けた傷に舌を這わせると、甘い香りが鼻腔を擽った。

「おまえは温かいな」

「名前は綺麗だ」

数えきれない程私は焦凍の首筋に牙を突き立ててきた。焦凍は数えきれない程化物の私を受け入れてきた。奪い己の糧とするためだけの行為が、今日だけは違った。
こくりと焦凍の生命の流れを飲み込む度、私を抱く腕に力が入り「名前」と、どうしようもないくらい熱を孕んだ声が何度も私の名を呼ぶのだ。何時もならここで終いだ。けれど今日は──私が焦凍に初めて“与える”。段々と力の抜けていく焦凍の身体を優しく支えて、牙を引き抜いた私はそっと息を吐いた。

「莫迦だな──おまえも私も、本当に」

よもや、人間などという下等動物に絆される日が来ようとは

意識のない焦凍をベッドに横たえて、血色の悪くなってしまった頬にそっと触れる。変わらない温かな体温が私の指先にその温もりを移す。
「名前と生きたい」
ぽたりとシーツに染み込んだ一つの水の珠は、私の瞳から滑り落ちたものに相違ない。爪先に浮かぶ乾いた血に舌を這わせて、私は最後の飼い主としての独りの夜が明けるのを静かに待つ。
18.10.05
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