twitter、pixiv再録
※妊娠を思わせる表現有り
※死ぬまで踊るという罰、続編






だだっ広い縁側でひとり、私は何をするでもなく虚空を見つめている。暖かなそよ風の吹く気持ちの良い気候だというのに私の心はどんよりと重たい鉛が偏んだまま。燦燦と輝く太陽も絵具を零したような青々とした空も全てが色褪せて見える。私は今、不幸で不自由な身の上だ。
御三家が一つ“五条家”で何不自由ない生活を約束され、身に宿す術式、容姿ともに申し分ない現当主の本妻という地位。傍から見たらさぞ恵まれて、幸せそうに映るだろう。私はそれが息苦しくて堪らない。周りから“奥方様”と呼ばれる私は、私ではない。
こうなるのが嫌で私は悟の前から逃げ出したのに、逃げ果せたと思っていた八年は結局はただの茶番劇で悟の手のひらの上で転がされていただけだった。
出来れば子細に思い出したくはないのだが、どうであれ私は悟が差し出した婚姻届にサインをし、視えない鎖で繋がれる生活を余儀なくされた。そこに私の意思はない。だからこれは幸せとは呼べない。

ぽちゃん、と池の鯉が跳ねた水音が耳を掠めた。
五条家の人間は私が想像していたよりもずっと無害だった。必要最低限の干渉で済んでいるのは悟が裏で手を回しているからだろうか。はあ、と肺に沈殿する重苦しい息を思い切り吐き出す。与り知らぬ出来事をあれこれ考えるのすら今は億劫だ。兎に角私は、ただ与えられるがままに食事をし、用意された衣類を身に纏い五条家の為に、悟の為に生きている。
逃げないようにと足の腱を切られるのでは、と最初はかなり警戒したが今現在も五体満足で外出は叶わないが屋敷の中なら比較的自由に動けはする。常に監視の為に誰かが傍に居る訳でもない。当然悟も特級呪術師が故に誰よりも多忙で毎日顔を合わせるなんて事もない。
監禁されている訳ではないのだから逃げ出そうと思えば逃げ出せる。──けれど私は、それが出来ない。私がもし逃げたら、確実に人が死ぬからだ。五条家に居る人間全てが私にとっての立派な“人質”だった。
婚姻届に強制的にサインをさせられ、戸籍上の夫婦になり此処に連れて来られた当初、私は余りのストレスに身体が耐え切れず食欲不振と不眠に悩まされた。精神的ショックで出された食事の殆どを食べられない私に、悟は言った。

「此処のご飯、口に合わない?好みがあるなら教えて。名前の好きな味付けの料理が作れるヤツ雇い直すよ」

「ち、ちが…っ」

「こんなに窶れるまで察してあげられなくてごめんね?──ちゃんと始末しておくから」

心底申し訳なさそうに私の頬を撫でる悟の言葉にゾッとした。この人はそんな下らない理由で人を殺めようとしている。
元々ぶっ飛んだ考え方をする人ではあったが、ここまでイカれてはいなかった筈だ。本気の色を滲ませた涼やかなアイスブルーの瞳を真っ向から見つめ、手汗を誤魔化す為に強く握る。
関係ない人間が私の所為で死ぬ。その突きつけられた現実にストレスを背負い込んでいる場合ではないと歯を食い縛った。環境の変化についていけずに少しだけ疲れが溜まっていたのだと悟をなんとか説得し、死人が出る事無くその場は収まった。
その出来事で私は否が応でも理解した。──私が逃げたりしたら、五条家の人間は間違いなく殺される。そして悟は逃げた私をどこまでも追いかけてくるだろう。上手く逃げ果せるビジョンがどうしても思い浮かばないのは相手が悟だからに他ならない。
私は臆病者だ。自らの手で命を絶つ事すら出来ない。そして、自分が原因で誰かが死ぬ事も許せない。
悟が都内で借りているマンションではなく敢えて実家に私を住まわせているのは、私の性格を彼が熟知しているからだろう。

ふと視線を落とすと自身の左手の薬指に嵌るシルバーリングが目に入る。言わずもがな、悟から贈られたものだ。「僕たちもう夫婦だもんね」そう言って震える私の手を取ってそれを嵌めた悟のうっとりとした顔が忘れられない。
サイズを教えた覚えもないのに、というか自身の指のサイズなんて把握すらしていなかったのに、そのリングはぴったりと薬指に嵌った。愛おしそうにそこに口づけを落とす悟が纏うじっとりとした狂気に眩暈を覚えた。
その翌日、悟が不在の時に私は強烈な嫌悪感で吐き気を催した。口元を押さえる私の手に光る結婚指輪に彼の所有物であると言われているように感じて耐え切れずにそれを外すと思い切り放り投げた。身体を巡る激情に走ってもいないのに呼吸が乱れる。こんなに衝動的になったのは久しぶりだった。恐らく行き場のない感情のはけ口にしたかったのだと思う。消えた薬指の違和感に私はこれまた久しぶりに安堵を覚えたのだった。

「指輪、どうしたの?」

「……無くしちゃったの」

指輪を捨ててから数日後、薄々予想はしていたが悟は会って早々目敏く指輪がない事に気が付いた。謝る事もなく、どこで無くしたのかも言わない私を悟は責めなかった。「そっか」とただ一言相槌を打ってするりと別の話題に移って会話を終わらせた。
それに内心ホッとして形式的に渡しただけで悟本人は指輪についてそれ程思い入れがある訳ではなかったのだと思った。
それが間違いだったと次に彼に会った時、私は身を以て知った。

「はいこれ。新しいやつ」

「どうして…」

「え?だって無くしちゃったんでしょ?探すより買った方が早いと思ったから」

差し出された新たなデザインのシルバーリングに身体が強張った。まるで土産の菓子でも差し出すような、値段に見合わない軽快な動作だ。ふと視界に入った悟の指には既に新しい指輪が鎮座している。前にしていたものがどうなったかなんて愚問だろう。
ごくりと生唾を呑んでそれを大人しく受け取った私に「これも似合うね〜」と呑気に悟は笑った。その顔を見て心の奥底で眠っていた反抗心がむくむくと競り上がってきた。私はそのすぐ後、またしてもそれを勝手に破棄した。
これは私は悟のものではないと、言葉に出せない代わりの唯一の意思表示でもあった。結婚なんて望んでいなかったと少しでも悟に届けばいい、思い知ればいいと思っていたが、それすら呆気なく裏切られる。
──悟は、私が指輪を捨てる度に新しいモノを拵えてきた。何度も、何度も。
軈てそれが二桁を超した頃、とうとう諦めた。折れたのは私だった。一週間、一ヶ月と薬指に付けたままの指輪を見て悟は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「やっと気に入ってくれたんだね。あー良かった良かった。一緒に見に行くのが一番なんだろうけど、僕の大事な奥さんを他人の目に晒すのはイヤだったし」

「悟、」

「僕別に怒らないし、デザインが気に入らないなら気にせず言ってくれて良かったのに。ほんっとオマエは素直じゃないよねえ」

呆然とする私の頭を大きな手が何度も撫でる。捨てた指輪の総額は恐らく、一般的なサラリーマンの年収を優に越している筈だ。悟にとっては瑣末な事なのだろう。虚しさだけが残った私の心は鉛でも飲み込んでしまったかのように重く苦しかった。
胃液が逆流してくるような感覚に喉元をきゅっと引き締めて、私はぐったりと悟の胸に寄りかかった。そうでもしないと立っていられなかった。「名前」感極まったように私の名を呼んで背に手を回す彼を拒絶する元気は残っていなかった。

ぽちゃん、と池の鯉が跳ねる。あの池の底には役目を果たせなかった可哀想な指輪たちが沢山沈んでいる。住処を荒らしてしまい鯉たちには悪い事をしてしまった。
私のようなぽっと出の余所者を五条家が甘んじて受け入れているのはきっと彼らにとってメリットの方が大きいからだ。昨今、誰の指図も受けず唯我独尊を貫く悟に、五条家は特に世継ぎ問題で頭を抱えていたに違いない。無下限術式と四百年ぶりの六眼を併せ持った現最強術師に誰も物申す事など出来はしない。そんな中面倒事の一切をのらりくらりと躱していた現当主が遂に身を固めた。その事実は彼らを大いに安堵させた事だろう。そして私がこの家に居る事で当主が定期的に帰ってくる。この点においても彼らにとっては喜ばしい筈だ。
条件は整ったのだから後は子を成すだけ、術式持ちなら尚良いと考えているのだろうけど、残念ながら私にその気は一切ない。行為自体は拒む事は出来ていないが、必ず避妊をしている。これだけは譲らなかった。悟は子どもには興味がないみたいで私の意思を尊重してくれているのがまだ救いだった。
五条家の人間には悪いけれど子供を産む意思は私にはない。元々こういった柵が嫌で悟から逃げ出したのだ、こればかりは譲らない。
だからさっさと私に見切りをつけてきちんと五条家の事を考えて、悟の事を愛してあげられる他の女の人を連れてきて欲しい。そうしたら私はお役御免で悟から離れられるかもしれないから。行為を許しているのも私の身体に飽きて欲しいからだ。早く飽きて他所で女の人と遊んであわよくば。
根気強く何年か耐えればいつか自由の身になれるかもしれないと私は目論んでいる。


「愛してる」と砂糖菓子のように甘い声色で囁きかけるその言葉は呪いだ。
それが鼓膜に染み込む度、私の中の大切なものが磨り減っていく感覚に襲われる。


とっぷりと日が暮れた景色を障子の隙間から覗き見て私は憂鬱な気分に浸る。
悟は二週間程地方へ出張に行っていて、何も問題が起こらなければあと数日で帰ってくる予定だった。戸籍上は夫なのに──しかも新婚──これ程負の感情が全面に出てきてしまうという事は、私の中で悟へ向ける感情は愛などという可愛らしいものでないのだと決定付けた。
一体どこで変わってしまったのだろう。高専の時は普通に悟の事が好きだった。一緒に居て居心地が良かったし、悟もぶっきらぼうなところはあったけれど優しかった。けれど──私たちは変わってしまった。良くも悪くも。あの時逃げ出さずにきちんとお別れを言い出せていたら、結果は変わっていただろうか。
ふと気を抜くと、どうにも出来ないタラレバに延々と頭の中を支配される。
胃がむかむかとして頭が重たい。食欲も減退気味だし夏バテだろうかと片手で米神を軽く押さえて目を瞑る。僅かな音と共に襖が開いたのはその時だった。

「たっだいま〜!愛しのダーリンのご帰還だよ〜!」

「……悟?」

「はいこれ、お土産ね」

おかえりなさい、と反射的に返して目を丸くした私の手に紙袋を手渡して悟は目隠しを自然な動作で外した。露出した六眼はいつ見ても美しく、目にした者を惹きこむ恐ろしさも併せ持っている。
中身を見ずに紙袋を傍らに置くと当たり前のように後頭部に手が回され、程なくして唇が塞がれる。啄むように触れる唇の温度を私は甘んじて受け入れる。習慣化されているそれを今更拒めはしなかった。

「…早かったね。帰ってくるの、来週だと思ってた」

「GLGの僕は仕事もデキる男だからね。ふふ、僕が帰ってきて嬉しい?──それともガッカリ?」

「……っ」

思わず息を詰める。時折こうして悟はふとした瞬間に瞳に不穏な色を滲ませて試すような物言いをする。それには答えても答えなくてもどうなる事もないがひとつだけ、「ね、僕の事好き?」──これにはきちんと答えなければならない。
こくりと肯定の意を示し、鸚鵡返しに「好き」と答える私の声は平静を装えていただろうか。この問答は最早テンプレだった。少しでも言い淀めば私は確実に手酷い仕打ちを受ける事になる。
「僕も好き」薄い唇が紡ぐ言葉に底冷えするような感覚が身体を巡り、気付かれないように着物の裾を握った。
後頭部に置かれていた手がいつの間にか頬に移り、感触を確かめるように顎に向かってゆっくりと下りていく。「頬が青白いけど具合でも悪いの?ちゃんと食べてる?」労わるような指圧と間近で見る真白な睫毛の翳りに私は緩く首を横に振る。

「大丈夫、ちょっと食欲がないだけ。多分夏バテだと思う」

「ふーん?」

私の言葉にどこか腑に落ちない様子でこてんと首を傾げた悟が目を細めた。囁くように名を呼ばれると、たったそれだけの行為に背筋が震えた。──なんだろう、凄く、嫌な感じがする。

「ねえ、最後に生理来たの、いつ?」

「………え?」

頭が真っ白になった。突拍子もない、しかもデリカシーの欠片もない言葉に驚いたからではない。そのたった一言が私に身の毛もよだつある可能性を明確な意思を孕んで突きつけてきたからだった。
「な、なに、何言、って」動揺から唇を震わせ、“それ”から逃れるように目を泳がせる私を悟は逃がしてくれない。
言われてみれば、予定日は疾っくに過ぎているのに一向に来る兆しがなかった。けれど私はそんな事、微塵も考えもしなかったのだ。此処に連れて来られてからストレスで周期が乱れっぱなしであったし、百パーセントの保証はなくてもきちんと避妊はしていたから。
「あり、得ない」譫言のようにそう繰り返し、私は畳の上に手をついてじりじりと後退する。しかしすぐに背が壁についてしまい、それを見計らって顔の真横に手をつかれ、呆気なく退路が断たれた。

「あり得なくないよ」

「…だって、ちゃんと避妊してた、じゃない…っ」

「うん、してたよ。名前が起きてる間はね」

ひゅ、と喉が鳴った。そんな、嘘だ。震えて声が碌に発せない私は両手で唇を押さえて込み上げる吐き気を何とか収めようと必死だった。
胃液が喉を焼くような感覚に目に涙が滲む。──悟との行為は毎回、一度や二度で終わるものではなかった。最後の方は私が意識を失って気が付いたら朝、なんて事はしょっちゅうだったからこそ、悟の引っ掛かる物言いに心底怯えた。
悟の右手が私の首の後ろに回り、左手が腰をぐっと掴んだ。そのまま身体を持ち上げられると思わず私は悟の肩に爪を立てた。どこに運ぼうとしているかなんて想像するのは容易い。

「やっ、やだ、悟!下ろして…!」

「はいはい暴れなーい。良い子にしててね。検査は後で一緒にするとして、」

「ひっ…!」

乱暴に襖を開けて、敷かれた布団の上に問答無用で下ろされた。そのまま覆い被さられると恐怖のあまり指先ひとつ満足に動かせなくなる。
「そもそもさぁ」私を見下ろすアイスブルーの瞳が薄暗い部屋の中で鋭く光った。

「こういうのってまず喜ぶものじゃないの?僕たち夫婦だよ?僕との子どもが出来るの、嬉しくないの?」

「自分の気持ちの整理がついてないのに、そんな事言われても困るよ」

「自分の気持ち?名前は僕が好きで、僕も名前が好き。これで十分でしょ」

「それは──」

違う、と言いかけて私は口を噤まざるを得なかった。温度のない声が紡ぐ私の名前がまるで私のものでないように感じた。直感的に今否定の言葉を発したら殺されると背筋に走った悪寒にそう思った。
行燈の明かりがぼんやりと悟の横顔を照らし、その翳りに瞬きすら忘れて戦慄する。腹部にそっと手を当てた悟が酷く嬉しそうに微笑んだ。

「僕は別に、子どもが欲しかったわけじゃない」

「じゃあ、なんで…」

「子どもが出来たらオマエは二度と僕から離れようなんて思わないでしょ?」

「さ、とる…っ」

「名前は臆病で優しいから、自分も腹の子も殺せないもんね」

冷水を頭から浴びせられたかのように思考が停止して呼吸すら忘れる。悟にとって子どもは私を縛り付けるのに最も適した人材としか思っていなかった。
恍惚とした表情でそう言い放った悟が着物の帯に手をかけた。それに気を取られた一瞬で押し倒され、圧し掛かってきた悟の身体に身動きが出来なくなる。
「きょ、今日は、やだ…!」それでも藻掻いて僅かな抵抗を見せようとしても悟はビクともしなかった。「だーめ」しゅるしゅると帯を引き抜きながら、目前で六眼が揺蕩う。
襟を思い切り横に引っ張られると晒された肩が外気に触れて強張った。

「…やっぱり痕、もう消えちゃったか〜。またつけ直さないとなぁ」

「悟…っ」

「今日は意識トばさないよう頑張ってね。あ、もうゴムは最初からナシだから。子猫みたいに可愛い声沢山聞かせて」

嫌だと子どものように駄々を捏ねる私の唇に悟は問答無用とばかりに噛みついた。
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