twitter、pixiv再録
※暴力描写有り






社会人として世に放たれてつくづく思うのは、学生時代ってなんて無責任で何の柵もなく自由だったんだろう、という事だ。この一言で学生生活の思い出すべてが美化されると言っても過言ではない。勿論人間として最低限の責任は負うべきでありその点は放棄する事は如何なる理由があっても許されないのは重々承知しているがここで私が指す“無責任”とは自分の人生の先を学生のうちは真剣に考える必要性が必ずしも求められないというニュアンスでのそれだ。
身体能力の向上、如何なる時でも冷静さを失わない判断力、呪力の完璧なコントロール。学生生活で得たものは大きい、決して無駄ではなかったと思う。“普通”の高校生とは違い、煌びやかな毎日とは程遠い生きるか死ぬかの血腥い日々だったけど、二十八になった今ではそれすら良い経験だったと思えている。
赴いた任務には必ず報酬が発生していたので同世代に比べたら貯蓄もあった。二級の報酬なんて特級に比べたら雀の涙かもしれないけれど自由に使える時間はなかったからチリツモで口座は潤っていった。
二級の私ですら最低限の休日しか与えられなかったのだ、呪術界というのは万年人不足、昼夜問わず動ける人間は常に駆り出されていた。よく倒れなかったなと当時を振り返って自身のタフさに苦笑が漏れるがそれも偏に若さ故の事だったのだろう。今あの頃と同じ働きなど絶対に出来ない。断言する。

呪術師を辞めた今でも極めに極めた体術のお陰でその辺の非術師の男くらいならねじ伏せるなど造作もない。セコム要らず。
私が呪術師の道を歩まず社会人になったのは当時付き合っていた人間が絡んでいる。五条悟。この世界では超エリートの御三家のひとつ、五条家の嫡男。最強呪術師の名を恣にしている男だ。

恋愛に於いても、学生と社会人ではその重みが違う。今が楽しい!だけで済まないのが社会人──大人の恋愛だ。後者は大変面倒な事に“その先”を考えなければならなくなる。結婚、妊娠、出産。そこまで重く捉えずとも、と楽観視できないのは、相手が悟だったからだ。
悟との関係は良好で、卒業後もそのまま続いていくのだろうと思っていた。ともすると、自ずと私はそう遠くない未来、御三家に嫁がなければならないという事実に必然とぶち当たる。
正直無理だと思った。私には荷が重い。子を産むのは当たり前、術式持ちじゃなければその人間の生すら否定されるような劣悪な環境。悟と一緒に居て幸せだなあと思えるのは、私たちがただの他人同士だからだ。婚姻関係を結んでしまったら状況は必ず一変する。
悟が好きだという気持ちだけではどうにもならない壁があった。ただの一介の術師くらいならばこんなに悩まずとも良かった、というのは紛れもない事実だ。それくらい御三家というものは厄介な存在だった。お家騒動に巻き込まれるのは御免なので私は全力で逃げる事にした。

自分の身を護る為なら呪術師なんてすぐに諦められた。未練なんて微塵もない。楽しかった思い出のまま終わらせたいという私の我儘を勝手に通したのは申し訳ないとは思う。でも悟は正直に話して納得してくれるような物分かりの良い人間ではない。絶対自分が何とかする、と引かなかっただろう。
正直私にそこまでする価値などない。特別な術式を持つ訳でもない、非術師の家の出の凡人。しかし悟は違う。こんなちっぽけな私などに拘らずに御三家としての最低限の人生を歩まなければならない運命にある。だから担任に固く口止めして、悟には術師になると卒業まで嘘を吐き通した。
そして卒業と同時に私は置き手紙を残して絶対に見つからないよう地方の一般企業に就職した。関係が良好だったとは言え、死に物狂いで高が一人の消えた女を探すほど悟は私に執着しているとは思っていなかった。彼の容姿と家柄なら結婚相手なんて選り取り見取りだろうし、五条家にとっても家柄がきちんとしていた方が良いだろう。

卒業して八年も経った今、こんな事もあったなあと客観的に過去を振り返られる程度には私の気持ちは落ち着いた。私もだが悟も、もうお互いに恋慕の情などこれっぽっちも抱いていないだろう。悟の方はもしかしたら既に既婚者子持ちかもしれない。
悟の今について少し興味があるが幾ら年月が経とうとも一発ぶん殴られても仕方ない事をした自覚はあるので一生会うつもりはない。
エレベーターから降り、家の鍵を片手に込み上げる欠伸を噛み殺しながらヒールの音を響かせる。早くベッドで眠りたい。地方に就職した私だが、この度会社が東京へ移転となったので数日前から実は都内にその身を置いている。東京に戻ってきた事に対してそこまで恐々としていないのは八年という歳月が何よりも大きい。だってその間何一つ身の回りで不審な出来事はなかったから。

「あ、おかえりー。遅かったねぇ」

だから私は初動が遅れた。自分の身体が無防備なまま壁に叩きつけられるまで、私はその声の主が誰であるのかも、自分が取るべき行動も、何一つ考える事が出来なかった。
受け身なんてまったく取れず、頭と肩を強かに打ち付けて意識が飛びそうになった。出血はしていないようだが、視界が大きく揺れて吐き気が込み上げてくる。ずるずるとその場に座り込んだ私の前に大きな影が出来た。
ドアの閉まる音がやけに大きく聞こえる。

「久しぶり。どう、僕のいない生活は楽しかった?」

僕は名前がいなくて寂しかったよ、とってもね

矢継ぎ早に放たれた言葉は鋭利な刃物となって私の胸に突き刺さる。身体の痛みがこれは現実であると容赦なく私に告げ、自分でも驚くほど掠れた声が出た。

「……な、んで」

「大事な恋人のお迎えだけど?あ、この後籍入れるから奥さんか」

頭を打ち付けていてもその声の主が誰であるか、私はすぐに解ってしまった。
悟、と八年ぶりに絞り出した名前に、その恐怖が毒のように体内を巡りガチガチと歯が鳴った。悟の言葉の意味を理解するのを脳が拒絶している。でも逃げないといけないと強く警鐘を鳴らしているから、混乱した私は結果指先ひとつ満足に動かせないという最悪の状況に陥った。
衝撃で脱げて転がったパンプスもそのままに、悟の大きな腕が私の腹に回り、いとも簡単に持ち上げられた。「ひっ」と喉の奥が引き攣り、防衛本能からその腕に爪を立てる。けれど地を這うような低い声で「ここでオマエを如何にかしても僕は構わないんだけど、どうする?」と耳元で囁かれ、私は一層肩を強張らせ軈て力を抜いた。それに満足したのか小さな笑い声を上げて、悟は迷う事無く寝室のドアを開け私を放り投げた。
スプリングの悲鳴に私も同調しそうになるがそれどころではない。身を、自分の身を、守らなければ。無情にも閉まったドアの音と背後の気配に涙を浮かべながら、呪霊よりも恐ろしいその存在を私は全力で拒んだ。

「…へえ。八年も現場から離れてた癖に衰えてないんだ」

バチッと空気が爆ぜ、舌打ちの後大きな手が少しだけ下げられた。
印を組んだ指先が情けなく震えていても、身体を巡る呪力は大きくはブレていない。人間死に物狂いになれば何でも出来るのだと今正にその状況に直面した私は身を以て学んだ。
私の構築する結界は担任から御墨付きを貰った程精巧かつ強固なものだ──悟ですら破るのは骨が折れる程度には。そう、結果的には破られる。長くは持たない。でも身の安全を確保し、冷静に状況を整理する時間だと思えば十分だ。
薄暗い部屋の中自分の乱れた呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。

「悟、お願い、落ち着いて」

「僕は最初から落ち着いてるよ」

「私たち、別れたよね?もう何の関係もない筈、」

「了承した覚えはないからそんなの無効だよ」

「名前」と名前を呼ばれて、サングラスから垣間見えた瞳の冷徹さに息を呑む。目の前で徐に印を組んだ悟が口角を上げて嗤った。ぞく、と彼から湧き上がる莫大な呪力の気配に背筋が凍り付く。

「術式解かないんならここら一帯の人間全員殺す」

大凡術師が口にするような言葉ではなかった。更に恐ろしいのは悟がそれを本気で言っているという事だ。脅しなどではなく彼なら一瞬でそれが可能、最早状況を整理どころの話ではない。
打ち付けた頭部と右肩が異様に熱く、どくどくと脈打っているように感じる。悟に暴力を振るわれたのはこれが初めてだ。これ以上は、嫌だ。でもこのままでは関係ない人間に危害が及ぶかもしれない。鼻の奥がツンとして喉元が苦しくなった。
瞬きをすると感情の波に耐え切れずぽたりと零れ落ちた涙がシーツに染みを作った。

「痛い、こと、…もっ、やだっ」

「それは名前の態度次第。早く解けよ」

彼の指先に乗せられる呪力が、彼の冷えた言葉がどうしようもなく恐ろしい。
自分を守るように両腕を抱えて俯きながら嗚咽を漏らした。こんな事で無関係な人間を巻き込めない。そんな事、許されていい訳がない。
結界が消失し、私と彼の壁になってくれるものは何もなくなった。ギシ、と悟の体重にベッドが悲鳴を上げた。
幸いにも殴られる事はなかった。──誰かが死ぬことも。けれど阻むものがなくなってしまった所為で骨が軋む程強く抱きしめられる私に逃れる術はひとつも残ってはいなかった。

「ははっ。心音、すごい速いね」

どこか嬉しそうな声が間近で聞こえた。久々に再会できた元恋人相手に緊張しているとかそんなものではない。私の態度を見れば歴然である筈なのに、悟はまるで私が“そう”であるかのように解釈している。この人は本当に私の知るあの五条悟なのだろうかと疑ってしまうくらい、目の前の彼はイカれていた。

「さ、とる」

「八年」

「え?」

「八年好きにさせてあげたけど、ちゃんと浮気もしないで偉かったねえ。
僕はグッドルッキングガイだからさぁ、名前が最終的に戻ってきてくれるなら一時の火遊びくらい許してあげる度量は持ってるけど、やっぱり好きな子のあんな顔やこんな顔を僕以外の人間が知ってるってのは気分が良くない。だからホント“いい子”で良かったよ」

誰も死ななくて良かったねえ

間延びしたその声に生きた心地がしない。浅い呼吸を繰り返すのがやっとだ。だから酸素が満足に行き渡らなくて視界が滲む。
饒舌な悟は機嫌が良い訳では決してなく、寧ろその逆だ。頭部を撫でる温かな手はその気になれば私の首を捩じ切れる。否、いっその事今此処で殺してもらった方がまだマシなのかもしれない。この後の地獄を見なくて済む。

「さ、一緒に帰ろう」

「悟、おねがい、はなして」

「散々好きに生きたでしょ?僕から勝手に離れて、術師辞めて、一般人に紛れて二十代の中でも一番楽しい年齢を好きなように謳歌させてあげた。だからもうよくない?」

「いいって、何が」

「オマエの残りの人生、全部僕が貰ってもいいよねって事」

碌に言う事を聞かない身体は少し力を加えられただけで呆気なくベッドに沈んだ。
私の上に馬乗りになった悟はサングラスを外し、サイドテーブルに放るようにそれを置くとぐっと顔を寄せた。反射的に手を前に出そうとしたが大きな手が私の両手首を捕まえて頭上で固定してしまった。振り解こうとする意思を殺すように強く圧迫されて痛みに顔が歪む。

「私の人生は、私のものだよ…悟のじゃない」

「── 名前さぁ、ほんっと馬鹿だよね。今僕を怒らせるような事を言うのは得策じゃないって解らない?それとも手酷くされたい?」

ぴりっと空気がひりつきシャツのボタンが三つ弾け飛んだ。鎖骨をなぞって下りていく指先に身体が震える。そして首筋に顔を埋めた悟は、容赦なく頸動脈あたりに歯を立てた。

「ひっ……ぃ、う」

再び競り上がった涙が頬を濡らし、吹きかけられる吐息と傷口を嬲る舌にいや、いやだと譫言が零れた。

「ねぇ、まだ解らない?」

「ぅ…っく、ご、ごめ、んなさいっ」

「もう無駄な抵抗しない?」

「しな、…っから、痛いこと、や、だ」

冷えた眼差しと身体の内側を揺さぶる言葉、ねっとりとした劣情が浮かび上がる首の歯型。それらは暴力を振るわれるよりも余程効果があった。
完全に恐怖を植え付けられた私はこれ以上酷い事をされたくない一心で悟からの問いかけに何度も頷いた。
私の上から退いた悟が背に手を回して力の入らない身体を引き上げる。されるがままに悟の膝の上に座らされた私はぼろぼろと涙を零しながら悟と向かい合った。
滲んだ視界の中でも白い睫毛に縁取られた宝石のようにうつくしい瞳がきらきらと輝きを放っていた。誰も寄せ付けないどこか一線を引いた冷たさを孕んでいた筈のそれは、今や熱に浮かされたかのように確かな情を宿している。
「じゃあさ」しなやかな指先が零れ落ちる涙を優しく拭った。

「キスしてくれる?名前から」

「…え?」

「証明してよ。もう僕から逃げない、抵抗しないって事を」

キスする事がどうしてそれに繋がるのか全く理解出来なかったが、試すようにこちらを見る悟の目が怖くて、私は小さく頷いてしまった。
「目、閉じて」蚊の鳴くような声もこの距離では聞き逃す事はない。素直に伏せられた瞳に確かな安堵を覚え、私は小刻みに震える手を白皙の肌に添えた。

「ふふ。緊張してんの?」

「……っ」

「するの久しぶりだもんね。かーわいいなぁ」

こわい、いやだと子どものように泣き叫びたかった。それをしたところで状況は何一つ良くはならない事を知っているから、私はただこれ以上状況が酷くならないように悟に求められるがまま、その薄い唇に己のそれをそっと重ねた。
ふに、と柔らかな感覚が何故か新鮮だった。触れるだけであっさりと離れた私の後頭部を大きな手が押さえ込んだ。完全に油断していた私は唇を割ってねじ込まれた舌が好き勝手に蹂躙するのを大人しく受け入れるしかない。

「あ、っ…ふ、ぅ」

「ん、」

何度も角度を変えられ、体温を共有し、咥内を暴れるそれにあられもない声が漏れる。上顎を舐められると腰に甘い痺れが走った。息をする間さえ満足に与えられず酸欠で視界が滲む。口の端から零れたどちらのものか分からない唾液が垂れる感覚がどうしようもない背徳感を私に齎した。
ちゅう、と最後に強く吸われやっと解放された私は息も絶え絶えに獰猛な色を瞳に宿す悟を見上げた。今の私たちは完全に獲物と捕食者の立場だった。
優艶に笑う悟がもう一度私を抱きしめ背に人差し指をつう、と走らせた。びくりと跳ねた身体を喉の奥で嗤って耳元で悪魔が優しく囁く。

「名前、もう何処にも行かせないよ。死ぬまで僕の傍で僕だけの為に生きて」

「悟…」

「愛してるよ、八年前からずっと。勿論これからもね。これだけ我慢したんだから、今日はたっぷりご褒美ちょうだい」

愛してる、とこれ以上ない呪いの言葉を再び紡ぎながら、悟はもう一度首筋に歯を立てた。素肌を無遠慮に這う手を私はもう拒めなかった。
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