twitter、pixiv再録
※893パロ続編






住めば都。果たしてこの言葉を現在私が置かれている状況に当て嵌めても良いものなのか、私自身判断に悩むところである。

自らを五条悟と名乗ったその人は貸したお金を踏み倒そうとしたアパートの住人の取り立てをしにやって来たのだが、あろう事か集金先の家と私の家を間違え、碌に確認もせずに突然玄関のドアを蹴破って入って来たとんでもない人だった。言わずもがな、ファーストコンタクトは最低最悪である。
玄関のドアは蝶番からベキベキと剥がれ半壊、室内には木片と土埃が舞って大層悲惨な事になった。おっちょこちょいで済ませられる程の軽い問題ではないし、そもそもこの人はカタギの人間ではない。ワザと目に入るようにしているのかと思うくらいの絶妙な露出加減でシャツから覗く刺青が見た者に確かな牽制と恐怖を与え、“ヤクザ”という単語に明確な意味を持たせる。あれを目にした時の心臓が底冷えする感覚は今も尚私の脳裏に鮮明に焼き付いている。

五条さん自ら「もう危害は加えない」と言っておきながら、提案された彼の所有するマンションへの引っ越しを拒否したら腹に一発入れられて人攫い宜しく強引に此処に連れて来られた。舌の根も乾かぬうちに、とは正にこの事である。息をするように嘘を吐き、躊躇なく暴力を振るう。ヤクザとは本当に信用ならない人種だ。そんな彼らと誰が好き好んで関わり合いたいなどと思うだろうか。
幾らアルバイト三昧の貧乏苦学生でも、この先の人生で住めるかも分からないくらいの立派なマンションの賃料を無料にすると言われても、私は己の身の安全、延いては命の方が何よりも大切だった。私の意思、意見を全て無視して引っ越しを強行しようとした五条さんを止めてくれるような善良な人間は居はしなかった。
見覚えのないベッドの上で私が目を覚ました時には既にアパートの退去が行われ、決して多くはない荷物が数個の段ボールに詰められて広々としたリビングの片隅で沈黙を守っていた。事の経緯を思い出し顔面蒼白で腹部の痛みに耐えながら起き上がった私に全ての元凶が手厚い歓迎をしてくれた。

「おっはよー。諸々の手続きはしておいたから安心してね。はいこれこの家のカギ。今日から好きに使っていいから。あ、名前のスマホに僕の連絡先入れないといけないからロック解除の為に指借りたからね。基本的に僕からの連絡にはすぐに応じる事。
一応釘を刺しておくけど逃げたりしたらどうなるか分かってるよね?──嗚呼、大丈夫。名前が僕にとって“いい子”でいるうちは優しくしてあげるから」

「え…、は?……え?」

マシンガンのように撃ち込まれた言葉の数々に青褪める私の横で鳩尾をよしよしと摩る五条さんだけが満足そうに笑っていた。──今思い出しても具合の悪くなるような話だ。



***



恐怖の引っ越しから早二ヶ月。
最初の一週間は色々なショックと殴打された鳩尾の痛みで大学を休んでしまっていたが、慣れとは恐ろしいもので今は何食わぬ顔で以前と同じように通学し、アルバイトを熟しながら生活している。
このマンションが住み良いか否かと聞かれたら間違いなく前者だ。何処からか別の住人の生活音が聞こえてくる事もないし、隙間風やそこから入り込んでくる害虫に不快な気分にさせられる事もない。間取りはアパートと同じ1LDKだけれど、広さが段違いで正直三十畳のリビングだけで十分生活できる。家具家電は備え付き、全自動洗浄のトイレに大人三人くらい余裕で入れる大きなバスタブ、一人で寝るには落ち着かないクイーンサイズのベッド。ウォークインクローゼットまであるこのマンションは完全に身の丈に合っていない。
ヤクザであると言う事実を抜きにしても、これを無償で貧乏苦学生に貸し与える五条悟という人間が心底恐ろしい。どうかしている。安心安全のオートロック付き物件なのだが、一番弾いて欲しい危険人物の侵入は合鍵というアイテムで呆気なく無力化されてしまっている。

五条さんは不定期に現れた。甘いものが好きなようで和洋菓子を手土産に、事前に連絡なくやって来る事も屡。そんな時は大抵「うん、一人でいい子にしてて偉いね」と私の頭を撫でながらビー玉のように澄んだ色の瞳を細めて笑う。恐らく私が逃げ出したり第三者を連れ込んだりしていないかの抜き打ちチェックなのだと思う。
恋人でも何でもないただの一般人に向ける執着にしては度が過ぎている。優しさの合間に時折顔を出す狂気が私は堪らなく怖かった。

そんなある日。私は少し早めの夕飯と入浴を済ませ、リビングで寛ぎながら課題のレポートに取り掛かっていた。あともう少しというところで無音が苦手なのでBGM代わりに付けていたテレビの音に紛れて錠の回る音が聞こえた。この家にやって来る人間は一人しか思い浮かばないので反射的に身体が強張る。素早くリモコンを手に取ってテレビを消し、課題に熱中しているフリをした。
スリッパの擦れる音が段々と近付いてきて、程なくしてリビングのドアが開かれた。
「嗚呼、課題やってたの。学生は宿題が多くて大変だねえ」のんびりとした口調でそう言った五条さんに小さく相槌を打って、しかし目線はPCの画面から決して離さない。課題をやっているから今忙しい。──そういうアピールは大事だ。
けれど不意に錆びたような臭いが鼻を掠め、私は咄嗟にその原因に疑問を持って顔を上げてしまった。
しゃがみ込んだ五条さんとサングラス越しに目が合う。視界に飛び込んできたシャツに飛び散るくすんだ染みを見て、私は喉を引き攣らせた。胃酸が競り上がってきた感覚にぐっと息を止め、口に手を宛がう。その様子を見て私の頭に触れようとしていた大きな手がぴたりと動きを止めた。

「ご、じょうさ…怪我、」

「あー、これ?返り血。怪我はしてないよ」

「……っ」

柄物のシャツで多少誤魔化されてはいるものの、点々と汚すそれに此処に来るまでの道中誰も気付かなかったのか。バクバクと耳元で鳴っているかのように大きく鼓動を刻む騒がしい心音を必死で落ち着かせながら私は思い直す。──この人がそんなヘマをする訳がない。移動手段だって徒歩とは限らないし。
よいしょ、と軽く声を上げて五条さんが立ち上がる。このまま帰ってくれる事を期待したのだが、今日はそう上手い事いかなかった。

「シャワー借りるね。“こんな状態”じゃ君に触れらんないし」

サングラスを外し胸ポケットに引っ掛けながら五条さんは欠伸をひとつ漏らした。涙目で返事すら真面に返せない私に気分を害した様子はない。
小さく頷いた私を一瞥してひらりと手を振って五条さんは浴室の方に歩いていった。ドアの閉まる音と再び訪れた静寂が私に正気に戻れと急かす。「は…っ、」口から手を離して大きく深呼吸を繰り返し、テーブルの上に置きっぱなしだった温いミネラルウォーターを飲んで口内の不快感を洗い流す。──私は此処で一体何をしているんだ?頭から冷水を浴びせられたかのように頭が冴え、言うなればそう、完全に“目が覚めた”。
五条さんの言いつけ通りに大人しく生活していたけど、それが可笑しい事に気付いていたのに何で今まで行動に移せなかったのだろう。相手がヤクザだから。助けてくれる人が思いつかなかったから。否、助けてくれる人はいる。それは一種の衝動だった。
スマートフォンを引っ掴んだ私は部屋着のまま、薄いパーカーだけを羽織り急ぎ足で部屋を出た。この家に住む事に、私は同意していない。これは謂わば誘拐だ。既に一度暴力を振るわれている事実があるし、未成年でもあるから警察に駆け込めば一時保護してくれるかもしれない。
五条さんが居ない時を待つのも手だったが、街中で出くわしてしまったらそれこそアウトだ。シャワー音で玄関のドアを開けた音は掻き消えているだろうし、物理的に行動出来ない今がチャンスだった。

ゆっくりと下がるエレベーターの速度にもどかしさを感じたのは今日が初めてだ。今この瞬間にも、異変に気付いた五条さんが物凄い剣幕で連れ戻しにやって来るかもしれないと思うと戦慄が走った。
地図アプリを起動し、震える手で何度も失敗しつつも一番近い警察署を検索する。隣駅だった。電車に乗るのはリスクがある。運良くタクシーが捕まればいいけど、時間は限られている。探す時間も待っている時間も今は惜しい。確実な方法を取るのなら交番だと此処から五分の距離に位置するそこに向かおうと決めた私は駆け出したくなる衝動を抑え、早足でマンションのエントランスを抜けた。ぐい、と腕を引かれたのはその時である。
動く方向とは真逆に引っ張られて足が縺れ踏ん張りがきかない。人間、本当に恐ろしい思いをした時は悲鳴すら出ないのだと知りたくもなかった事を学び、私は心臓を握り潰されたような感覚に生きた心地がしない。
ぐらりと傾いた背が何かにぶつかり、倒れ込まないようにか腹部に腕が回された。──ふんわりと香った香水に煙草のにおいが僅かに混じっており、私は内心首を傾げる。五条さんは、煙草を吸わない。
「どうしたんだい、そんなに急いで」穏やかなその声が耳をすり抜けて私はハッと顔を上げた。や、と目を細めてにこやかに笑うその人とは面識があった。

「夏油、さん」

「お出かけかい?もう暗くなってきているのにそんな薄着で一人歩きは感心しないな」

「ど、して……」

「悟に渡すものがあってね。多分此処だろうと思って」

私を引き留めたのは五条さんではなかった。首の皮一枚繋がったと安堵したいのは山々だが、何せ相手が悪い。そこまで深く踏み込んだ訳ではないが、場合によっては夏油傑という人物は五条さんよりも厄介な存在だった。彼から漂う温厚そうな雰囲気と柔らかな物腰の奥に巧みに隠された底知れない冷えた感情が牙を剥いた瞬間を目にしてから、私はこの人の浮かべる笑みの薄情さに打ち震えた。夏油さんに胸の内を悟られてはならない。
ごくりと生唾を呑んで私は大袈裟に息を吐いて困ったように笑って見せた。

「急に引っ張られたので吃驚しちゃいました。こんばんは、夏油さん」

「こんばんは。それはすまない事をしたね」

雰囲気がゲージから逃げ出したハムスターみたいでつい、と私の行動を見透かしたかのような物言いに足が竦んだ。
心配しているような素振りを見せてはいるものの、夏油さんは私という人間を信用してはいない。その証拠に腹に回されていた手は離されたけど、依然腕は掴まれたままだ。痛みはないが振り解けない絶妙な力加減で。
こうしている間にも無情にも時間はどんどん食い潰されていく。何分経過したのか確認したいが、今彼の前で不審な動きをする訳にはいかない。適当に誤魔化してこの場から逃げるか、彼と一緒に何食わぬ顔で家に戻るか──何もしていない今ならまだ言い訳の仕様もある。
愛想笑いの下で彼是思案していると手に持つスマートフォンが震えた。ヴーヴー、と連続して鳴るバイブ音に画面を見ずともそれが着信を知らせるものである事が窺え、嫌な予感が脳裏を過る。表情を強張らせた私を知ってか知らずか、夏油さんは軽く屈むと自然な動作で私の手からスマートフォンを優しく奪って迷う事無く画面をタップして耳に当てた。
私はただ、目を丸くしてそれを静観する事しか出来ない。「もしもし、悟?」予想通りの電話相手に心臓が不穏な音を立てる。夏油さんに気付かれないようにゆっくりと深呼吸を繰り返し、只管感情の波を落ち着ける事に努める。

「え?…そう、私だけど。…うん、そう。彼女なら私と一緒だよ、偶然マンションの前で会ってね。今コンビニ」

え、と疑問を口にするより早く、夏油さんは私の腕を引いて動き出していた。間もなく夜を迎えようとしている外は帰路につく為に忙しなく歩くスーツ姿の会社員の人が目立つ。ショートパンツにTシャツ、その上にパーカーという如何にも近所の人ですという恰好で出歩く私とは対照的に、夏油さんは今日も上質なスーツをきっちりと着こなして隙は一切見当たらない。ちぐはぐな私たちはさぞ悪目立ちするのではと危惧したが、人というものは思いの外他人への関心が薄いものだ。高身長で整った顔立ちが故に夏油さんに向けられる好奇の視線はあっても、私たちを不審に思うそれは全くと言って良い程ない。
私の歩幅に合わせてのんびりと前を歩く夏油さんが一体何を考えているのか、私は解らない。彼の読めない言動に戸惑う私なんて其方退けで尚も通話は続けられている。

「うん、いつも貰ってばかりだからお返しがしたいって。……ああ、…そう。君が知らないって事はサプライズで渡そうとしてたのかもね。暗くなってきたしマンションの前まで送るから心配しなくていいよ…それじゃあ」

「あの…」

はい、と用済みになった携帯端末を当たり前のように差し出されると、返してもらえるんだと拍子抜けしてしまった。渡されたそれをパーカーのポケットに無造作に突っ込みながら戸惑いを含んだ目を向けると夏油さんは片目を瞑って悪戯っぽく笑った。

「悟はコンビニスイーツも結構好きなんだ」

「そう、なんですか」

意味のある会話をしたのはそれが最後だった。
マンションからコンビニまで徒歩三分程、その短い道中、どんな話題を吹っ掛けられるのだろうと内心恐々としていたのだが意外にも夏油さんは何も訊いてこなかった。これ幸いと私も口を噤む。これ以上不用意な会話をし続けるといつかボロが出そうだったので良かった。

辿り着いたコンビニのスイーツコーナーで適当な商品を選んでいる間も会話と言う会話はなかったが、手が離される事もなかった。財布も持たずに家を飛び出してきた訳だが、便利なご時世になったものでスマートフォンさえあれば現金がなくとも電子決済で支払いは可能だ。だから財布を持っていなくても夏油さんに怪しまれる事はない。
次に会話があったのはレジでの会計の時だった。
ホイップの乗ったプリンとミルクレープの会計をする為にスマートフォンからアプリを起動させた私を遮り、「一緒に払ってしまうからいいよ」と夏油さんが自分の携帯端末をレジ台に置いて店員さんに煙草を注文した。此処で押し問答をしても店員さんと待っている他のお客さんに迷惑を掛けるだけなので素直に礼を言い、差し出されたレジ袋を頭を下げて受け取った。
コンビニ独特の入退店音を背に私たちはマンションを目指して来た道を戻る。一歩前に足を進める度に胃がキリキリと痛む気がした。夏油さんですら誤魔化しきれていないというのに、五条さんを前に平静を保っていられる自信がない。しかし、何があっても逃げようとした事実だけは喋ってはならない。
知られたら最後その場で殺されるか人権を剥奪された上に売られるか、良くて大学を辞めさせられて監禁だ。どちらに転んでも私に明るい未来はない。

「それで、何で逃げようって思ったの?悟に酷い事でもされた?」

突然の核心を突いた問いかけに喉元を締め上げられた気分だった。身長差がある為、俯き気味で歩く私の表情は夏油さんが屈みでもしない限り見られる事はないのが救いだった。
唇が震えて上手く言葉が出てこない。何か、何か言わなきゃ──動揺からか、僅かに盛り上がっていたコンクリートに足先がぶつかり、成す術なくつんのめった。「ぅえ…っ!」我ながら情けない短音を発し、同時に手を引かれた事で顔面ダイブは免れた。不意打ちに弾む心臓の鼓動に驚いている私の肩に大きな手が置かれ「大丈夫?」と穏やかな声が降ってきた。

「大丈夫です。…すみません、助かりました」

怪我がなくて良かったと微笑んだ彼が意味深に私の足元に目を向ける。仄暗い感情が滲む瞳に背筋に悪寒が走った。

「ま、私の杞憂だろうけどね。──本気で逃げ出そうとしていたら、こんな靴を履いていないだろうし」

夏油さんの指摘で初めて、自分が合成樹脂製のサンダルを履いている事に気付いた。五条さんから逃げなければという思考に追い詰められ過ぎて頭が回っていなかったのだろう、ついいつものクセでそれを履いて飛び出してきてしまった。
このサンダルは軽くて歩きやすいが、ゆったりとした造りが故に走るには不向きだ。もう少し冷静であったなら私は迷わずにスニーカーを選んでいたであろうが、その間抜けさのお陰でどうやら命拾いをしたようだった。
ぱっと呆気なく手が離され、身体に自由が戻った。いつの間にかマンションの目の前だった。

「それじゃあ、また。悟によろしく伝えて」

「え?夏油さん、五条さんに用事があったんじゃ、」

「この後二人でそれを食べるんだろう?愉しい時間を邪魔する程野暮な男じゃないよ」

ガサリと私の動きに合わせて揺れたビニール袋を指さしながら夏油さんがそう言った。
どんな心境であの家で五条さんが私の帰りを待っているのか分からないので──少なくとも上機嫌でないのは確実だ──正直一人では心細さがあったのだが、“何か”が起きた時夏油さんが止めに入ってくれる可能性はアパートでの出来事を鑑みても限りなく低い。だったら始めから期待するだけ無駄だ。
振られた手に軽い会釈で返し、私はマンションのエントランスに向かって歩き出した。足を踏み入れようとしたところで何故か夏油さんに呼び止められ、掴まれた肩から感じる圧に気圧された私はびくりと身体を震わせる。

「言い忘れていたけど、貸しひとつね」

「貸、し…」

酷く掠れた声が出た。まるで命を握られているような錯覚に陥り、自然と呼吸が乱れ脈拍が速くなる。夏油さんにとっては真実がどうであれ、恐らく電話口で無断で外に出た事に対して憤る五条さんから私を庇ってくれたという事実は変えようがない。それを“貸し”だと言われたら、私に頷く事以外の選択肢はありはしない。

「何を、すれば──」

「私が困った時にね、助けて欲しいんだ」

夕闇で出来た影で夏油さんの顔はよく見えなかったが、薄い唇が意図的に作り出す微笑みが逃げる事を許さない。
「分かりました」と蚊の鳴くような声で望まれた返答をした私の頭をひと撫でして、夏油さんは呆然と立ち尽くす私から背を向けて歩いて行ってしまった。
ハッと気が付いた時には私は自宅の玄関の前に立っていた。エントランスから此処までの記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。無意識というものは怖ろしい。否、それよりも──何の心の準備もなしに、帰ってきてしまった。
家の鍵は持っていない。五条さんはその事にきっと気が付いている。ひんやりとしたドアノブに触れると情けないくらい手が震えていた。こんな調子ではすぐに隠し事がバレてしまう。私はスイーツを買いにコンビニに行っただけ。夏油さんとは偶然会った。何度も何度も心の中でそれを復唱し、私は大きく息を吸ってドアを引いた。
「ただ──」ただいま、そう言おうとした言葉は不自然に途切れる。

「おかえり。随分遅かったねえ」

まるで私が玄関の前に居た事を知っていたかのように、片手を腰に当てて五条さんがそこに立っていた。ハーフパンツに上半身裸という風呂上がりの恰好に心を乱した私は目をぱちくりとさせ声ひとつ発する事が出来ない。トドメと言わんばかりに目に飛び込んできた鍛えられた上半身よりも目を引く刺青に顔がどんどん青褪めていくのが解った。少しでも気を抜いたら腰が抜けてしまいそうだ。
スリッパのまま構わず大きく一歩踏み出した五条さんの手が私の頬に触れ「冷たい」と簡素に言い放ち、そのまま問答無用で抱きかかえられた。反動で手首に引っ掛けているビニール袋がその存在を主張したが彼は気にも留めていない。
五条さんは私の足から滑り落ちたサンダルに一瞬だけ目を向けた。たったそれだけの行為で、私は内臓のあたりで言い知れない不安感が弾け、それは瞬く間に全身に巡った。夏油さんといい目の前の彼といい、本当に侮れない。
今なら逃げられるかもしれない、と軽い気持ちで衝動的に行動を起こした私は、それが成功する確率の低さを身を以て知った。

背後で無情にも閉まったドアに錠をかけて、五条さんは私を抱えたまま歩き出す。リビングの照明の明るさに目をしぱしぱとさせていると、革張りのソファの上に降ろされた。
ギシ、とソファが軋み私の名を呼ぶ五条さんの声色に肩が跳ねた。大きな手が頬から首筋に掛けて触れ、私の目をじっと見つめる蒼眼に浮かぶ苛烈な怒りの感情に薄っすらと涙が滲んだ。その剣幕にすっかり委縮し切っていた私は五条さんが再び口を開く前に謝罪を口にしていた。

「勝手に出て行ったりして、ごめんなさい」

「…心配したよ。てか玄関開けっ放しで普通出掛ける?」

「す、すみません。実家に居た頃の癖が抜けてなくて…すぐ戻るし大丈夫かなって」

「……」

「いつも五条さんには良くしてもらってばかりいたので、大した事は出来ないけど、その、お礼がしたくて。近い距離だし、五条さんを驚かせたい気持ちもあって、──ごめん、なさい」

しどろもどろになりながらも、夏油さんの言葉に沿って作られたシナリオの弁明をする。出て行った動機は偽りだが、五条さんに目を掛けてもらっている事に対する気持ちに嘘はない。
心底反省しているという感情を前面に押し出したのが功を奏したのか、眉間に刻まれた皺が緩んだ。はあ、と大きく吐かれた溜息が彼の中で燻ぶっていた激情を少しだけ緩和させた。
ここでやっと五条さんはコンビニの袋に意識を向け、するりと私の手首からそれを抜き取ると小さな音を立ててテーブルに置いた。

「名前の気持ちは嬉しいよ。でもこんな時間にそんな薄着でフラッと一人で出掛けるのは例え近所でも感心しない。傑が居たから良かったものの、もし万が一があったらどうするつもりだったの」

「それは…に、逃げます」

「逃げられる?本当に?」

ワントーン低い声が耳元でそう囁いたかと思うと、次の瞬間私の身体は呆気なくソファの上に倒されていた。両手首を片手で一纏めに頭上で押さえるその仕草に圧倒的な性差を感じ、私の身体を跨ぐ上半身裸の五条さんの不穏な空気に呑まれ喉が鳴る。何もかもが手慣れていて、私は遅れてやってくる情報の処理がやっとで抵抗なんてする余力はない。
そもそも、この体格差で一体私に何が出来るというのだろう。程よく鍛えられた腹筋と胸筋が惜しげもなく晒され、何処からか香る色気とうつくしい顔がゾッとするような狂気を纏っている。空いている手が感触を確かめるように耳朶を優しく嬲り、顔がぐっと近づいたかと思うとしっとりと水気を孕んだ熱い舌先が私の乾いた唇をべろりと舐めた。犬猫のじゃれ付きとは比べ物にならない、劣情の滲んだその行為に私は震えあがる。

「ほら、抵抗しないの?このままだと僕に好き勝手されちゃうよ」

「しま、せん」

「なんで?」

「──五条さんが、相手だから」

全く知らない人なら未だしも、五条悟という人間のヤバさは疾うに学習済みだ。私の抵抗なんて、この人からしたら小動物が爪を立てる感覚と大差ないだろう。抗ったところで全てが徒労に終わる、そういう意味で言った言葉にぴくりと反応を示した五条さんが顔を上げた。
「え、」ほんのりと朱に染まった目許と感極まったようにきゅっと結ばれた口元を見て、私はぱちくりと目を瞬かせた。──想定していた反応と違う。困惑する私を他所に五条さんは先程と打って変わって恍惚とした表情で「そう」と返す。
耳を弄っていた手が胸元へと移り、突き立てられた人差し指がゆっくりと下がっていく。
臍の少し下で止まったそれが何かを確かめるようにそこをグッと押した。その奇妙な感覚に背を浮かせて驚くとはあ、と熱っぽい吐息が五条さんの口から零れた。

「五条さん?」

「成人するまで愉しみは取っておくつもりだけど、味見と言う名の“つまみ食い”くらいなら許されると思うんだよね」

「えっ…いや、あのっ!…ひっ、ぁ」

服の上から脇腹をなぞられて変な声が意図せず飛び出した。それに気を良くしたらしい五条さんが啄むように唇を重ねてくる。柔い感触と心地よい他人の体温に身体の奥に火が灯ったかのように熱が膨れ一瞬で弾けた。
ちゅう、と可愛らしい音を立てる癖に、やっている事は口に出来ないくらい淫靡なもので眩暈がする。
「舌、出して」息継ぎの合間に零された甘ったるい声は毒だ。突然の侵入に怯えるそれを絡め捕られると腰に痺れが走った。耳を塞ぎたくなるような水音と自身のものとは思えない艶やかな声に羞恥心でどうにかなりそうだった。
ぐっと体重を掛けられてしまえば私は身動き一つ取れはしない。酸欠に喘ぎながら、私はただ終わりを待っているしか出来なかった。

「…は、ぁ…ぅっ」

「これくらいでへばってたら、この先持たないよ」

「む、無理です……!」

「こーら、逃げようとしない」

身を捩ろうとした私の腰を掴んで五条さんは意地の悪い笑みを浮かべる。その手をするりとシャツの中に潜り込ませるとダイレクトに伝わる指の感覚に短い悲鳴が漏れた。勿体ぶるように脇腹から徐々に上へと滑る指先はそう経たないうちに胸の膨らみに辿り着いた。「や、…っ!」下着越しに胸の頂きを摘ままれると恥ずかしさと恐怖で目に涙が溜まる。
酷く興奮した様子の五条さんが胸の内で燻ぶる欲を隠そうともせずにギラついた眼で私を見下ろしている。

「名前が買って来てくれたデザートは、僕と少し遊んだ後で食べようね」

背に回った手が無情にも下着のホックを外してしまった。緩んだ胸元の感覚に身体を震わせ、耐え切れずぽろりと零れた涙をざらついた舌が器用に舐め取った。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -