「ヒトの子よ、今はおまえの生きる時間ではないだろう」


あの夜の出来事を、俺は生涯忘れる事はないだろう。

決して激しくもないが優しくもない雨音。空から落ちてくるそれが皮膚に付着する度に、大事な何かが失われていくような感覚。あの時の俺はそれを怖いとも淋しいとも思わなかった。もう俺には、帰る場所がないから。幼いながらでも解っていた。このままこうしていれば、孰れ死が訪れるだろうと。下手をすればその前にヒトならざる者に殺される可能性すらあった。俺たち人間にとっての夜は、そういう時間帯だ。だからどんな事があろうと日が落ち闇の色が濃くなればヒトは静かに息を潜め、太陽が昇るその時まで只管沈黙を守る。家畜だって同じだ。きっと俺たちよりも“そういう感覚”に聡いあいつらは、俺たちの何十倍も賢く生き抜いている。

正確な位置すら分からない森の中、夜目の利く動物の一匹すら気配のないこの場所がとても危険である事を薄々感じていた。だから膝を抱えて蹲る俺の耳に届いた草の根を踏む音も、掛けられた言葉も、俺は静かに受け入れる事が出来た。──このまま殺されるのだと。
ヒトならざる者の姿を俺は見た事がなかった。どんな形をしていて、何を好み、何処に居るのかも。人間の間で囁かれている話は言い伝えやお伽噺に近い。実際にヒトならざる者を見た者はそれが最期の時である為、生きている者にその事を伝えるなんて出来る訳がない。俺だって例に漏れないと、この時は思っていた。


不思議な植物に照らされたそのひとを目にした瞬間、俺が抱いたのは恐怖でも絶望でもなく、身を焦がすような劣情だった。こくりと喉が上下したのは無意識のうちだった。
こんなに美しいひとを、俺は見た事がなかった。濡れるように艶やかな黒髪が雨粒を纏ってきらきらと輝く。こちらを品定めするかのように見下ろす瞳の滲むような赤は、見るもの全てを惹きつけて已まない。ヒトが持つ事が赦されない、絶対的な存在の証。
光る不思議な植物に照らされたその女の顔はまるで作り物のように完璧だった。血が通っていないかのようにどこまでも白い肌に浮かぶ目に付く、唇の赤。
言葉を発する度に形を変えるそれが、酷く扇情的だった。
何が気に入ったのか分からないがじっと俺を見ていた瞳が満足げに歪み、初めて女の表情が崩れた。弧を描く唇から目が離せない。そこから覗いた鋭い牙が彼女をヒトならざる者だと物語る。触れているこの指先が少しでも意思を孕めば、俺は呆気なく死を迎えるだろう。
けれど何を思ったのかこの美しい化物は、俺に選択権を与えた。

「ヒトの子よ。今此処で死ぬか、私の手を取るか。私の気が変わらぬうちに選ぶといい」

ヒトならざる者は人間の何倍、何十倍も生きると聞いた。きっと目の前の女も見た目とは比でない歳月をのんびりと歩んできたのだろう。
俺の生きる時間など彼女からしたら欠伸の間の時間と同じだ。敢えて俺に選択権が与えられたのは、彼女の中の何かを満たしたからだ。慈悲などでは断じてない。ほんの刹那の気の迷いに過ぎない。生憎と俺は生に執着していないし、彼女に見つからなければどの道死を受け入れるだけの空っぽの存在だった。
彼女が俺に興味を抱いたように俺も彼女に化物以外の感情を抱いた。瞬きの間でもいい、この美しい化物の生に触れてみたいと思った。

「私は名前。好きに呼ぶといい」

名前、と名乗ったその化物は華奢な身体に見合わない力を内に秘めていた。薪用の枝を掴みあげるように片腕でひょいと引っ張り上げられた時は思わず眉を顰めた。
濡れているのは俺もこのひとも同じだ。しかし何故だかこのひとの腕の中は暖かいと感じた。俺を見下ろすその紅の瞳には、何の感情も窺い知れない。鋭い牙を覗かせて嗤ったあの時ですら、瞳だけは無感情なままだった。宿す色とは正反対の沈むような仄暗さが畏れの感情を引き出すのだろうと思った。


俺を拾ったのはその辺の石ころを拾ったのと同義だから気にするなと言われた時は、幼いながらもショックで言葉を失った。
このひとは当時の幼い俺から見ても色々と“足りない”ひとだった。価値観の違いと一言で片付けられるものでもない。今更ながら自分は、とんでもない選択をしたのだと思った。
けれど俺は、あの時名前の手を取った事を後悔してはいない。
名前は狩る側であり俺は言うなればただの餌、種族間においての強弱関係は絶対的なものだ。それでも名前は死の淵に佇む俺を拾い上げてくれた、唯一のひとだ。
最期のそのときまで、俺は名前の傍にありたいと思う。



***



時間だけが切り取られているみたいだと目の前で紅茶を飲む名前を見ながら何度目かも分からないその考えが頭を巡る。数えきれないくらいの四季が何度も廻り、その度に俺の声は、身体は、心はあの時よりもずっと成長していく。
名前は俺に何でも教えてくれた。読み書きは勿論、成長をしていく上で出てくる下らない疑問から生きていく上で必要な知識まで何でも、惜しみなく。
「こんなに喋ったのは何百年振りだろう」と本と睨めっこしている俺に瞳を輝かせてそう言った名前はなんだか幼子のように思えてしまった。きっと名前にとって俺と過ごす時間は何よりも退屈しのぎになっていたに違いない。

あれだけ大きく感じていた名前を今では見下ろすまでに俺は成長した。けれどどんなに知識を得て体躯が立派になろうとも、俺と彼女の間の溝は埋まらない。
名前はあの時のままだ。死にかけのガキの俺を掬い上げてくれた、あの時のまま。時間が彼女を居ない者として扱っているかのように、老いという概念に捉われない。それを羨む者だって居るだろう。けどそれは自分が不老ではないからだ。自分にないものを持っているひとを、ひとは羨み、妬む。
どんな気持ちだろう。目の前のひとだけが、自分を置いて、成長し、年を重ね、朽ちていくのを見ていくのは。置いていく事しか出来ない存在の俺は彼女の気持ちを計り知れない。

「寂しくは、ねえのか」

「ふむ。“こう”している事が当然の私からしてみれば、それは愚問という他ないな」

以前不躾にもそう聞いた事があった。名前は少しだけ考える素振りを見せて、あっけらかんとそう答えた。ずっと独りで生きている事が当たり前の名前からしたら俺が今傍に居る事の方が不思議でならないのだろう。
俺と名前の間に流れる時間は酷く不釣り合いだ。名前からしたら後“ほんの少し”経ったら俺は彼女を置いて呆気なく逝ってしまうだろう。
そうなった時彼女は一体どんな気持ちになるのだろう。

──少しでも、寂しいと思ってくれと願うのは俺のエゴだ

喪失感を味わった事はあるかと聞いた俺に対して名前は、「昔飼っていた蜥蜴が死んでしまった時は胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになったな」と振り返った。一応そういった思いはするんだなと謎の安心感に包まれた事をはっきりと覚えている。
きっと俺が死んでも名前は蜥蜴や蛙が死んだ時に湧き上がってきた気持ちと同じ思いをするに違いない。爬虫類や両生類と一緒くたにされるのは正直複雑でしかないが、何も感じられないよりはずっとマシだ。

「──焦凍」

鼓膜に直接響くようなその声色の意味を、俺はよく知っている。名前に手招かれるまま静かに足音を立てながら彼女の傍に行く。陶器のように真っ白な手のひらが俺の頬を滑る。血の気のない冷たい手が今の俺には心地よく感じた。
長く伸ばされた爪には不思議な塗料が着いていた。爪の強度を上げる為に作られたものらしい。今は青い色をしているが他の色もあるようで、爪を研ぎながら塗っている姿を何度か目にした。青い色も似合っているがやはり名前には赤が似合うと目前まで迫った彼女の顔を見て思った。紅い眼がうっとりと細められる。
曝け出された俺の首筋に這う爪先に擽ったさを覚えるが、次いで名前の舌先がそこを吟味するように舐め上げた瞬間、ぞくりと背筋が戦慄いた。ざらついた舌先が焦らすように這う。そして躊躇いなく突き立てられた牙に俺は拳を思いきり握りしめた。
痛みを感じるのは最初だけだ。其処から先は痛覚が麻痺しているのか、痛みよりも頭の奥を溶かすような甘い痺れが全身を支配する。名前の喉がこくりと上下する度に足先から肌寒さを覚える。

確実に大事なものが奪われていくこの瞬間、きっとヒトは恐ろしいと思うのだろう。

けれど俺は言い知れぬ高揚感に溺れ、名前の中に俺が入り込んでいっている事実に対してこの上ない悦びを感じている。俺の血が名前の命を繋いでいるのだと思うと、胸の奥が熱くなる。食事が終わって恍惚とした表情で己の唇をぺろりと舐める名前が堪らなく愛おしい。

「ご馳走さま」

「……ああ」

食事が終わると俺の身体は言う事が利かなくなる。貧血で目の前がちかちかと眩み全身が気怠い。ぐったりと名前に凭れかかっても名前は文句の一つも言わずにゆっくりと背を撫でてくれる。名前に甘やかされるこの時間が俺は何より好きだった。
「──名前、」どうした、と耳元で優しい声がする。


ヒトである事を捨て共に生きたいと言ったら、貴女はどんな顔をするだろうか。


喉元まで出かかった言葉はいつも音にならずに消えていく。名前はただ名前を呼んだだけだと思ったのだろう、とんとんと赤子をあやすように背が優しく叩かれる。
俺の中に燻り続ける刹那の時間を共にするだけでは足りないというこの酷く貪欲な思いをきっと名前は知らない。
ヒトである事を捨てる事に俺は何の躊躇もない。名前は俺にとっての唯一の存在だ。その存在が独り時間に取り残されていくのを、俺はどうしたって許せなかった。
もしも名前がそれを望んでくれるのなら俺はいつだってこの安っぽい命を差し出せる。
そんな浅ましい思いを胸の内で飼いながら俺は今日も名前と共に夜を迎える。
18.09.10
Side轟
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