社会人になって友達を失う理由として代表的に挙げられるのは大きく分けて二つだ。一つは就労や結婚など自他の置かれる環境の変化によって生じる“価値観のズレ”。もう一つは宗教、マルチ、保険などの勧誘行為──相手を友達ではなく“カモ”として接してきた場合。
私は現在進行形で後者の理由から大切な友人を一人、失いかけている。

「それでね、ソコの一番偉い人──所謂“教祖様”ってポジションの人で」

「キョウソサマ…」

「そう。その人、すっごい穏やかな人でね、仏様みたいな雰囲気なの。見た目だけかなって最初は半信半疑で失礼な態度も取っちゃったんだけど──」

ウンウンと機械的な相槌しか打てない私に構わず、アユミちゃんは当時の事を思い出したのか興奮した面持ちで早口で経緯を子細に教えてくれた。彼女とは十代からの付き合いで屈託のない笑顔は大人になっても変わっていない筈なのに、今の彼女はまるで別人のように映った。比較的サバサバとした性格のアユミちゃんはしっかりと自分の意見を口に出来る子で、こういう類のものに引っ掛かるタイプではなかったと認識していたのだがどうやらそれは間違いだったようだ。

とある宗教団体に、今や彼女はすっかり夢中になってしまっている。

「…そこに最後に行ったのって、確か先週だっけ?」ちらりとアユミちゃんの左肩に目線をやりながら私は声量を落として問いかける。旧友との穏やかではない内容の会話のお陰で氷が溶け切って分離してしまったグラスの中のアイスティーを飲む気にはなれなくて悪戯にストローでかき混ぜるに留まる。慎重な私とは対照的に溌剌とした声でそれを肯定し、睡眠不足と強烈な肩こりが“教祖サマ”のお陰で解消されたのだと熱っぽく告げられた。
その宗教団体がインチキでないのは理解していた。だって──先週までアユミちゃんの肩に蜷局を巻いていた蜥蜴のような顔をしたバケモノが確かに居なくなっていたからだ。多分その“教祖サマ”という人物はホンモノだ。視えるだけの私と違って祓える側のヒト。

「でもねえ、今日になって今度は首が重いってゆーか、なんか息苦しい感じがするんだよねー。疲れてんのかな?」

「……また怖い夢も見る?」

「…うん」

蜥蜴のバケモノは確かに居なくなっていた。しかし今度はムカデのような蟲が首にマフラーのように巻き付いている。食欲も失せる強烈なビジュアルに腕から背筋に掛けて粟立った。
アユミちゃんは、視えないけど引き寄せる側のヒトだ。出会った頃からその体質は変わらない──否、正確には“私が視えるようになってから”だ。

忘れもしない高校二年の夏休み、私は自らの不注意でお参りに行った神社の石段から落下した。足を滑らせた拍子に頭も打ってしまい脳震盪を起こし、病院で目覚めた時私の顔を覗き込んだ両親の奥──天井に張り付く手足が六本ある異形を見たのが始まりだった。
頭が可笑しくなったと思われたくなくて、医者にも両親にも言い出せなかった。最初は頭を打った事による一時的な幻覚だと思った。けれどそれは一週間経っても一ヶ月経っても治る気配すらなかった。
“それ”は色々な場所、色んな人に寄生していた。突然恐ろしいものが視えるようになってしまった私は自身に不幸が降りかかる前にお祓いに行くべきか真剣に悩んだ。そんな時にいつかの夕飯時の心霊番組で“この世のものでない者とは目を合わせてはいけない。視えると知られると憑かれてしまう事があるから”と霊媒師さんが言っていた言葉が不意に過りそれから私は視えないフリを徹底的に貫いた。
それが正解か否かは解らないが、バケモノに危害を加えられた事は幸いにもなかった。しかし私は同時にアユミちゃんの苦しみを取り除いてあげられもしなかった。正確には何も出来なかった。徹底的に逃げていた私は“それ”に触れられるのか祓えるのかすら試す事が恐ろしくてやっていない。もしかしたら私にも祓える力があったかもしれないのに。
失敗して襲われたら怖い、という純粋な恐怖に打ち勝つ事が出来なかった。

アユミちゃんの苦しみを解決してくれる人が彼女の前に現れた。それはとても喜ばしい事である筈なのに、胸の内に複雑な感情が渦巻く。原因は凄い金額の“お布施”をその宗教団体にして、家族で足繁く通っている事にある。
そういう商売があっても不思議ではないのだろうが、何故か私は受け入れる事が出来ないでいた。お布施は一度や二度ではない。他所の家庭に口を出すべきではないので私は何も言いはしないけど、あるだけの財産を搾り取らんとする姿勢が透けて見えて正直嫌な気持ちになっていたのだ。

「──だから、良かったら今から一緒に会いに行って欲しくて」

「………え?」

ぱち、と瞳を瞬かせた私を「もう名前ったら!ちゃんと聞いてなかったでしょ」とアユミちゃんが眉を下げて笑った。どうやらアユミちゃんは前回の訪問時に私の話をポロっとしてしまったらしい。

「夏油様がね、会ってみたいって言ってたよ」

どうする?と控えめな視線が私に問いかける。憑き物落しの工程の世間話として私の話題が持ち上がったのだろう。変な子だと思われたくなくて周囲には隠していたけど、付き合いの長い彼女だけには時折良くないモノが視えるのだという話はしていた。“そういう”宗教団体が故にこの手の話題は容易に受け入れられたし同時に興味も惹いたのだろう。
出来ればもう関わって欲しくはないのだが、だからこそその怪しげな宗教団体をこの目で見ておくべきかもしれないと、この時思ったのだ。
「行く」と即答した私の手を、アユミちゃんは嬉しそうに握って伝票を持って立ち上がった。



***



「や、初めまして。態々足を運んでもらってすまなかったね。──それでヤマナカさん、彼女が例の?」

「そうです…あと、私山本です」

「まあまあ、細かい事は気にしない」

「はあ…」

初めまして、と機械的な挨拶を交わし、私はすぐに口を噤んだ。
通された広間は私たち二人と目の前で胡坐を掻いて座る“教祖サマ”の三人だけで、本来なら落ち着くはずの畳のい草の匂いに妙な居心地の悪さだけが齎される。彼の背後にある「君に愛を」「君に罰を」「君に死を」と書かれた掛軸が何故か恐ろしく感じて直視出来なかった。
にこにこと貼り付けたような笑みが印象的な男だった。そして想像していた以上に若かった。黒衣に五条袈裟を纏い、長い黒髪をハーフアップにしたその整った容姿はこんな場所、こんな状況でなかったら赤面モノだっただろう。福耳に大きめの黒いピアス──黒づくめの“ゲトウ様”は三白眼を薄く開いて品定めするように私をじっと見つめた。
ゲトウスグルと名乗った教祖さまはアユミちゃんが代わりにしてくれている私の自己紹介に静かに耳を傾けていた。

「夏に油でゲトウって読むんだ。中々珍しい苗字だよね」

「えっ…あ、はい。素敵な苗字だと思います」

「ふふ、ありがとう」

私に話しかけたのだと気付くのが一瞬遅れて声が上擦った。咄嗟に出た見え透いたお世辞に気分を害する事無く彼は相手に不快感を与えないように笑みは絶やさずに物腰の柔らかな姿勢を一貫して、私を見つめ続けている。
この視線といいこの場所といい、居心地が悪い。目に見えない圧に身体を強張らせたのを見破られ「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ、取って食ったりしない」手招くような仕草をしながらそう冗談交じりに零した夏油さんは「それで、」と続ける。

「苗字名前さん。周りの人には視えないモノが視えるって彼女から聞いたんだけど、本当かい?」

ごくりと生唾を呑む。私の表情は硬いままだ。
この人になら話しても大丈夫だよ、と言いたげにアユミちゃんの手が私の肩に置かれた。──夏油さんは一体何を“見て”いるのだろう。彼は最初から友好的な態度しか見せていない筈なのに、違和感が消えない。仲介役になってくれているアユミちゃんには一瞥も呉れず、唯々価値を推し量ろうとする無機質な瞳が私に向けられるのみだ。
笑っているけれど、この人は恐らく私たちの事を歓迎してはいない。
一刻も早く此処から出なければと本能的に感じ取り、上手く躱そうと思った時だった。聞いた事のない生き物の金切り声が鼓膜を大きく揺らした。その音はすぐ真横──アユミちゃんから聞こえた。切羽詰まった様子の私を、視えない彼女はキョトンと見つめていた。アユミちゃんの首に巻き付いているムカデが脈打つように蠢く。そして背から突き上げるように現れた尾から鋭く伸びる棘があろう事かアユミちゃんの頭を狙って振り下ろされようとしていた。
「危ない」と声を上げる間もなかった。ただ私は彼女の身体に抱き着くように身体を寄せて頭部を守ろうと両手を添えて歯を食い縛った。こんな果敢な行動に出ておいて“それ”を見る度胸はなかったのだ。あの棘の長さからして私の両手だけでは庇いきれないかもしれない。何故それが急に敵意を向けたのか私には理解出来なかったが、こうする他なかったのだ。
手の甲に走った確かな痛みを最後に私の意識はそこで途絶えた。



***



ふ、と意識が急に浮上し、私はゆっくりと目を開ける。照明の明るさに目が慣れず何度も瞬きを繰り返し、碌に働かない頭を総動員させて記憶を手繰る。
横になっている所為かい草の匂いがより鮮明に鼻を突く。頭を動かそうとして、私はそこで旋毛付近に優しく添えられている手に気が付いた。は、と目を見開いて動きを止めた私の真上からくすくすと笑い声が振って来る。

「存外鈍い子なんだね」

「え……え?」

「手以外に痛いところはないかい?」

その言葉にハッとして私は両手を顔の前に突き出した。右手は丁寧に巻かれた包帯に薄っすらと血が滲んでいるものの、左手は全くの無傷であった。

「穴は開いていないから安心するといい」

試しに握ってみたら引き攣るような痛みが手首まで走った。風穴は回避したようだけど軽傷と喜んでいいのか判断に迷う。意識を失った時に頭も打ったのか、頭に鈍い痛みが残っており起き上がれない。
手当てをして貰った事に対する御礼を言いながら何故私はこの人に膝枕をされているのだろうと漠然と思う。イレギュラーな事態ではあるがそれを差し引いても初対面なのにこの距離の近さは異常だ。頭の奥が熱い。
うー、と小さく唸ると大きな手が労わるように頭を撫でた。

「あの、バケモノは…」

「ああ、もう居ないよ。あれは呪霊って言うんだ」

「呪霊……」

ぽつりとそう呟いてから、私は一番大事な、まず確かめるべき事を思い出した。頭の痛みなんて一瞬で吹き飛び、思い切り身体を起こした私は「ひっ!」と喉を引き攣らせた。目が四つある蛇のような見てくれの呪霊が私の足先から膝にぐるぐると巻き付いていた。大きく開いた口がニタリと弧を描いている。顔から血の気が引き、酸欠で眩暈がした。震える私の両肩に手を置きながら夏油さんが小さく吹き出す。

「本当に、名前は鈍い子だね」

「ひっ…や、だ」

「大丈夫、襲ってきたりはしないよ」

私の指示がない限りはね、と付け足された言葉に理解が追い付かず、私はにこりとこちらを見下ろす仄暗い瞳を困惑した目で見つめ返すしか出来ない。
「アユ、ミ、ちゃん、は…」震える声で大切な友人の安否を問うと大きな手のひらが私の視界を覆いつくした。人間のあたたかな体温に感じるのは安堵ではなく底知れない恐怖だ。
「猿の事なんてどうでもいいだろう」──初めて聞く冷えた声色だった。これがこの人の本心なのか。想像してはならない最悪の事態が嫌でも脳裏を過り、震えが止まらない。もしかしたら私も──

「名前は殺さないよ。理由がないからね」

「……っ」

含みのある言い方に背筋が凍り付く。どうしよう、どうしたらいい。どんなに思考を巡らせても夏油さんから逃れる術はちっとも思い浮かばなかった。
両足をぎっちり固定されていた圧迫感が不意に消える。同時に外された目を覆う手が私の顎を捕らえグッと上を向かせた。一切の抵抗が出来ない私は腹に回された腕に容易く引き寄せられ、彼の胡坐を掻く上に乗せられても足先ひとつ満足に動かせないでいる。
滲む視界の中、夏油さんの目が愉しげに細められる。

「君は術式はないみたいだけど、視える子だからね。生きる権利と価値はある」

「わけ、分かんな…っ」

「それとも潔く死ぬ?彼女がどんな死に方をしたのか、教えてあげようか」

「ひっ…!」

顎を掴む指先が喉元をなぞるように触れた。冷淡に微笑む彼から察するに、穏やかな死ではなかったのだろう。
浅ましい生存本能が命乞いをしろと私に命令する。死んだらそこで終わりだと、こんな理不尽な死を受け入れられるのかと問いかける。死にたくはない。けれど、この男に泣き縋って命拾いしたところで、その先に一体何があると言うのだろうか。
耳鳴りが酷い。視界に入らない場所で何かが蠢いている気配がする。淀んだ空気に臆した私は無傷の左手で黒衣を掴んだ。すべての元凶である得体の知れない男に縋るなどどうかしている。けれど夏油さんはとても嬉しそうに笑いながら「そう、良い子だね」と言った。

「私の手の届く範囲に居る間はとびきり優しくしてあげよう」

「…家に、帰りたいと言ったら……?」

「勿論構わないよ。でも気を付けてね、もしかしたら私が出した呪霊が手違いで君か君の周りの猿をどうにかしてしまうかもしれない」

「……っ」

「さあ、名前はどうするのかな?」

「ここに、います…!」

「そう?なら良かった」

かさついた唇を指の腹が感触を確かめるように触れる。彼の動きに合わせてゆらゆらと揺れる前髪を見つめながら、これから先の自身の未来を悲観した。
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