夜は良い。騒々しい類の者が安らかな眠りについて、私たちの邪魔をしない。夜の眷属である私たちはそのひと時の時間をこよなく愛した。
風によって木々が揺れ、葉が音を上げる。何時もは美しい音色を奏でる小鳥ですら、今はただ静寂を守るのみ。ヒトを含めた夜行性の動物は夜の眷属に怯え己の存在を隠すように只管息を殺し、朝の訪れを切望する。

悠久の時を生きていると、偶に気紛れというものが起こる。私は今、その気紛れを現在進行形で起こしていた。
忘れもしない、雨がしとしとと降り厚い雲に覆われて月の顔すら拝めない在る夜の事だった。雨の日は通常よりも気温が低く、少しだけ肌寒い。生きている者であればどんなに丈夫な造りをしていても着々と体温は奪われ、その動きは愚鈍になる。だからヒトもヒトならざる者もこんな天気の日は余程の事がない限り出歩かない。
より静けさを好む私は、敢えてそんな日に散歩をするのが好きだった。雨が葉を叩く音や水滴の落ちる一定の音は止まないものの、不快感は決して与えない。
上機嫌で足先を濡らしながら闇を歩いていると、太い木の幹に異質な者を見付けた。それは化物を忌み嫌い闇を畏れただただ静かに明るい時を切望する存在、人間だった。正しくは、人間の子ども。膝を抱え顔を伏せ、まだ十にも満たないであろうその見てくれは決して良い物ではなかった。
履物はなく足の爪は泥に溺れ、剥き出しの膝は擦りむき血が滲んでいる。生憎とこんな不衛生な傷から流れる液体には微塵も心は動かされない。その小さな身体を守るように必死で己を抱きしめる両腕も幾つもの傷と汚れがこの暗い闇の中でも確認出来た。白髪が混じっているのか、髪色は綺麗とは言えない。
生きているのか死んでいるのか、将又それに近い状態なのか、見てくれだけでは判断が難しかった。見過ごしても良かった。こんなモノ、私からしたら道端に転がるもの言わぬ石ころと遜色ない。けれど放っておかなかったのは先述の通り、私の気紛れによるものだったとしか説明出来ない。


「ヒトの子よ、今はおまえの生きる時間ではないだろう」


夜を生きる者からしたら、この存在は異端だ。目障りだと殺されても、美味そうだと喰われても、この小さい存在は異議の一つも唱えられない。遥か昔から、光と闇の時間帯に生きる者たちの間で決められた事だ。それを破り干渉してきた者は、それ相応の覚悟を持たねばならない。
ぴくりと小さな身体が揺れる。どうやら生きているらしかった。ゆっくりと上げられた顔は、その身体と同じように決して綺麗だとは言い難い。

「むむ、よく見えんな」

お互いの顔もハッキリと分からないくらい、闇は濃い。理不尽なものだが、今この瞬間だけはそれなりの明りが必要だと思った。仕方ないと諦めて私はポケットに入れていた巾着を引っ掴み、中から一輪の花を出した。灯り草という、魔女しか栽培出来ない特殊な植物だ。夜になると花弁の部分が光るこの植物がまさかこんな所で役に立つとは。随分と視界が良くなった。お互いがお互いの顔を眼に映した瞬間、ひゅう、と息を呑んだのはヒトの子の方だった。
驚くのも無理はない。私の見てくれはヒトに近くとも、宿す瞳の色は誤魔化せない。人間の色素ではまず有り得ない、血を模したような濁った赤。どんなにヒトに近い形をしていても、瞳を見れば闇の眷属だとすぐにバレてしまう。その齢で情けない悲鳴を上げなかっただけ褒めてやっても良い。

ただ私自身も声には出さなかったがヒトの子に驚いたのも事実だった。白髪交じりだと思っていた髪は濁りのない真白、てっきり黒だと思っていた色は、濃染の深みのある紅色だった。綺麗に二つに分かれた頭髪も宛ら、より目を引いたのはその瞳だった。人間にも稀に生まれてくるのだと聞いた事がある、左右で瞳の色が異なるオッドアイ。
すん、と鼻を啜ってみるが、やはりコレから滲み出ているのは紛れもない、人間の匂いだった。これはもしかしなくとも、良い落し物なのかもしれない。
口角の上がった私の口から覗いた鋭い牙を目にしてしまったのか、綺麗な目をこれでもかと見開いてふるりと肩を震わせる。
嗚呼、可哀そうな子だ。もう少し見つかるのか遅ければ死ぬことが出来たかもしれないのに。珍しい退屈凌ぎを見付けてしまった私は、胸の高鳴りを抑えきれない。

「…殺すの?」

震える唇は、寒さからか、恐怖からか。初めて交わした言葉は、嗤ってしまうくらい下らないものだった。殺すにしても、今ではない。「選択肢を与えてみるのも、面白い」思わず漏れた独り言は拾われてしまったからそれには成りきれない。子の目線の高さまでしゃがみ込んでやった私は、己の長い爪先を子の顎に当てて更に上を向かせる。
現れた白い喉元を掻っ切る事など、息をするのと同じくらいに造作もない事だ。少し力を入れさえすれば、爪先が柔らかな皮膚を呆気なく裂く。ヒトとは、驚くほど脆い。

「ヒトの子よ。今此処で死ぬか、私の手を取るか。私の気が変わらぬうちに選ぶといい」

「………」

罅割れた唇は、なんという言葉を紡いでくれるのだろう。下らない疑問か、聞くに堪えない懇願か。やっと喚いて泣き出すのかもしれない。厄介な相手に目を付けられたと嘆いたところで、可哀そうに、誰も助けてはくれないだろう。人間の心理というものを、私はよく理解している。

ヒトは、ヒトと違うものを、決して認めようとはしない。

どんなに人間と区分されていようと、同じ血が流れていようと、“皆”と同じでなければ、例えパーツが揃っていたとしても、色や形に不具合があれば排除の対象となる。それがこんな小さな子であろうとも、だ。実に醜く、欲に忠実で、浅ましい食糧だ。汚れたその身に流れる血が、私たちにとっては命の源だ。
灯り草の花弁が一枚散る。それを合図に、泥だらけの小さな指先が私の指に触れ、遠慮がちに握った。──それが答えだった。
「さあおいで、可哀そうで可愛い子」折れそうな程に細い腕を引っ掴んで、己の腕に抱える。このくらいの齢の子への力加減は酷く難しい。壊しはしなかったが、易しくもなかったようだ。その顔を見れば解る。

「ヒトの子、名前は?」

「………焦凍」

「私は名前。好きに呼ぶといい」

名前、と腕の中で大人しくしているヒトの子──焦凍が消え入るような声で名を紡ぐ。「どうした」ただ呼んだだけなのか否か、応えるとその美しいオッドアイを伏せて焦凍は唇を震わせた。

「汚して…ごめんなさい」

「ああ、構わない。私からしてみたら石ころを拾ったようなものだ」

何てことないと伝えたかったのだが、その表情を見るに上手くは伝わらなかったらしい。永らく独りだった所為もあって、意思伝達とはこんなにも難しいものだったかと首を捻った。
全身濡れ鼠の汚らしいヒトの子。けれど濁りのない真っ直ぐに輝く瞳が、私は大層気に入った。
ヒトが生きる為に飼う牛や馬と同じ。愛玩する為に飼う犬や猫と同じ。こうして私は夜の眷属の中では珍しく、ヒトの子を飼う事にした。



***



「何考えてんだ」

カチャリと陶器の音を立てて、頬杖をつく目の前に湯気の立つティーカップが置かれる。すん、と鼻を鳴らせば鼻腔を擽る落ち着く茶葉の香り。
行儀悪く漏れた欠伸を噛み殺す。今は昼の時間帯だ、遮光カーテンで光を拒絶しても全てを拒む事は叶わない。身体は倦怠感に包まれ、その身に宿す一切の能力は鳴りを潜める。実に不自由なものだが、大人しく寝てしまうのは惜しいと思う。

「少年、君の事だよ」

例えるならば、悠久の時を生きる私たちにとってのヒトの命とは瞬きの間、刹那。百年も生きられないその脆い身体はすぐに老い、土へと還る。還る場所があるだけ羨ましいと嘗ては思ってもみたが、それも遥か昔のこと。焦凍を拾った日の事は私にとっては昨日のような出来事なのに、この子にとっては違う。実に不思議な感覚だったが、ヒトと化物が相容れないと云われているのは、こういう事だろう。
私たち一族は昼夜の感覚が違うだけで極めてヒトに近い生活をしている。だから眠りについても一年も十年も眠る訳ではない。けれど莫迦らしくも偶に思うのだ、私が眠りについて再び目覚めた時、この子はまだ生きているのだろうかと。

「嗚呼、あの時はこんなに小さかったのに。生き物の成長速度には目を瞠る」

「名前は変わらねぇな」

「私は疾っくに成体を迎えているからな」

「ああ、綺麗だ」

紅茶を口に含み、すっかり大きくなってしまった焦凍を見やる。あんなに小汚かったヒトの子は洗ってみたらまるで原石を磨いて現れた宝石のように、美しい存在だった。それは成長をしていく毎に顕著に表れ、左目を覆う火傷痕すら彼を惹き立てる材料の一つにしか過ぎない。
「身売りされなくて本当に良かったじゃないか」と最近では口癖のようにそう言うのだが、焦凍に言わせてみれば「俺は男だからそんな価値はねえ」だ。けれど、世の中には色んな嗜好の生き物が居るという事を彼は知らない。大凡、需要のない者はこの世に存在しない。例え見てくれが悪くともその“中身”には変わらぬ価値があるだろうし、何も買い手はヒトだけではないのだから。
そう考えてみると、まだ焦凍は幸せな方なのかもしれないと、飼育している身分の私が差し出がましくも思う。衣食住には不便させていないし、それなりの自由もある。命の保証は出来ないがそれでも構わないのであればと前置いた上での外出も許可している。
ただ一つ可哀そうなのは、私の食糧であるが故に、彼は生かされているという事だろうか。

「……焦凍、おいで」

「……」

血の気のない手をゆらゆらと揺らして誘えば、焦凍は大人しく私の前に足を進める。椅子に座ったままの私を、綺麗なオッドアイの瞳が見下ろす。そこに含まれるどろどろとした感情は、一体何と云う名なのだろう。両腕を広げれば、焦凍はゆっくりとそれに応える。
長い爪で首筋をなぞれば、しっかりとした体躯が切なげに揺れた。その白い首筋に見える似付かわしくない鬱血痕は、紛れもなく私が付けたものだ。酷く痛々しいその痕を見る度に、私の中で愛おしいという感情がどうしようもなく疼くのだ。
口に含む、なんて可愛らしい表現ではない。
柔いその肌に容赦なく己の牙を突き立てて食い破り、私は甘美な食事を独り愉しむのだ。

「……っ、」

喉を震わせて眩暈のするような感覚に支配されながらも、焦凍はずっとされるがまま、数十秒の時間に翻弄される。血を吸われるという感覚は、一体どんなものなのだろう。吸う側の私には表現するにも限界がある。まあ、気持ちの良いものではないというのは確かだ。
喉を潤して満足した私は牙を潜めて患部を舐め上げる。唾液を患部に付着させることで出血はすぐに止まる。
はあ、と大きく息を吐き出した焦凍が私に凭れかかる。身体に力が入らない事は重々承知の上なのでよいしょと私は彼を難なく持ち上げて広いソファへと連れて行く。気怠そうに目を開けて焦凍は私の唇へと手を伸ばす。口の端に着いた血を彼の指が優しく攫った。

「名前の中には、俺の血が流れてるんだな」

「まあそういう事になるな」

それを肯定した時の、恍惚とした彼の表情が堪らなく愛おしい。焦凍の手を掴んで指先に付着したままの乾きかけの血を舌で舐め取って、私は目を細めた。

「──少年、自由にしてあげようと言ったら、どうする?」

その言葉に、ハッとしたように焦凍が顔を上げる。立ち上がろうにも、貧血で身体が言う事をきかないのだろう。グッと色素の悪い唇を噛み締めて、絞り出すように言葉を発した。

「……嫌だ」

それは、まるで子どもが駄々を捏ねるように。否、見てくれは大きくても高々十数年しか生きていない、赤子同然の命。どんなに逞しく成長を遂げようとも、私からしたら等しく幼稚なままだ。読み書きも教え最低限の教養もつけた。私から離れても生きる術は疾っくに身についている筈だ。
けれど首を縦に振る事はなく縋るように私の服を掴むのだ。そのまま引き寄せられ、私は焦凍の腕の中に抱き込まれる。

「俺を…捨てるのか」

「ふっ、あはは、面白い事を言う」

誰が捨てる等と言った。からからと喉を震わせてそう答えれば、抱く腕に力が込められる。生憎とこの丈夫な身体はちっとも堪えないが、そういうのが目的ではないのだろう。

「じゃあ、なんで」

「どういう反応をするか見てみたくなった」

競り上がる笑いが抑え切れない。よく期待に応えてくれている。
私の頬に骨ばった指先が滑り落ちる。そして降ってきた唇が、私の温度のない唇に優しく触れた。
「冷てぇな」──今更、何を言っているのやら。何を、期待しているのやら。

「残念だが、君はヒトで私は化物。その事実は変わりようがない」

「名前は化物なんかじゃねえ」

「今さっき首筋に牙を突き立てた私が化物でないとするならば、一体何だと?」

「俺にとっての唯一…」

紡がれた言葉は酷く不安げなものだった。焦凍が私に抱く感情と、私が焦凍に抱く感情はきっと異なる。それでもこうして触れてくる唇や指先が温かいと私に感じさせてくれる。
きっとヒトは、この感情を愛と呼ぶのだろう。触れた焦凍の唇は温かかった。
18.09.07
吸血鬼役と人間役を交代させるという天邪鬼を起こした結果
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