「きょう、や」

「………」

息を整えるのが精いっぱいで満足に喋れない。それを冷めた目で見下ろす弟はそんな私を心配するでもなく、ただ一言、眉を顰めながら言い放った。

「そこに座り込まれると、邪魔なんだけど」

言われて、自分が玄関を通せんぼしていることに気づく。恭弥は、学ラン姿だった。これから学校にでも行くのだろうか。
いつまでも座り込んでいる私に痺れを切らしたのか、恭弥は私の手を掴んで無理矢理退かせようとした。その手が手首に触れた瞬間、ずきんと鈍痛が走った。

「……ッ」

思わず身体を硬直させて目をきつく瞑る。あの男の容赦ない力加減の所為で、恐らくそこは指の痕までくっきりと残ってしまっているだろう。本当に今日はツイていない。後で冷やさなければ。
「ねえ、」と頭上から声が降る。のろのろと視線を上げれば、険しい顔をした弟が見下ろしていた。

「これ、何?」

「…あ」

いつの間にか制服の袖を捲られ、手首が外気に晒されていた。やはりそこにはくっきりと痕が残っていた。二、三日で消えてくれないかな、とそんな事を考えていると「聞いてるの」と苛々した口調で再度恭弥が問うてきた。今日はもう疲れた。
これ以上誰とも関わりたくない私は、素っ気なく「関係ないでしょう」と返す。それにむ、と唇を歪ませた彼がそんな返答では納得出来ないとでも言うように口を開く。

「答えになってないよ」

「…いいから、放っておいて」

「誰にやられたの」

「…っ、放っておいてって言ってるでしょう!」

思わずムキになって口調を荒げた私を見下ろして、恭弥は何を思ったのか掴んでいる手に唐突に力を込めた。痛みで肩を震わせ、私は口を閉じる。一体、どうしたと言うのだ。普段ならこんなに突っかかってこないのに。お互い、必要最低限の言葉しか交わさない筈なのに。

「不愉快だよ」

「……っ」

「本当に、不愉快だ」

「…ちょ、」

鞄を持つ手を掴まれて、無理矢理立たせられる。そのまま引きずるようにして居間に連れて行かれ、私は一切の抵抗も許されないまま椅子に座らされた。
ぐい、と患部に触れず、けれどやや乱暴に手を引っ張られて恭弥に腕を突き出す形になってしまった。いつの間に持って来たのか、彼の傍らには救急箱が置いてあった。まさか、と私は信じられなくて瞠目する。弟は、恭弥は、私の手当てをしようとしている…?そんな、まさか。

「出掛けるんじゃ、ないの…?」

「気が変わった。いいから大人しくしてて」

ぽかん、とだらしなく口を開けて茫然とする私なんかお構いなしに、恭弥はテキパキと救急箱から必要な道具を取り出し完璧と言える手当てをしてくれた。手当ての最中、恭弥の眉間に深い皺が刻まれ、嫌悪感を丸出しにしていたがあれは一体何を考えていたのだろう。
ぱたん、と用済みになった救急箱の蓋が静かに閉められる。我に返った私はまじまじと手当ての施された手首を見る。私の手首に巻かれていたのは紛れも無く包帯だった。

「……明日から」

ぽつりと、恭弥がまるで独り言のように呟くから、聞き取るのに苦労した。明日?言葉の続きを待っていると、彼はとんでもない事を言ってのけた。私にしてみればそれは正に死刑宣告に他ならなかった。

「学校の行き帰りは、風紀委員の人間について行かせるから」

「……は、な、何言って…」

「意義は認めないよ」

「い、要らない!そんなの、要らない!余計な事しないでよ、私は──」

「知ってるよ、姉さんがそういうの嫌いだって事」

ハッと、思わず私は口を噤んだ。だって、知ってる。と、そう言った恭弥の声が物凄く悲しそうに聞こえたから…。可笑しい。絶対に、可笑しい。ペースが乱される。

こんなのいつもの恭弥じゃない。こんなの、いつもの私じゃない。

そう思って、ふと“いつもの”恭弥がどんな感じだったのかを思い出せない事に気づいた。どくり、と心臓が脈打つ。私は、姉なのに、恭弥を知らない。彼が毎日どういう風に何を思って、何を見ているのか、何も解っていない。
昨日の会話すら私の中では酷く曖昧なものになってしまっている。記憶の中の恭弥がすべて、色褪せて見える。手のひらに汗が滲んだ。

人と距離を置くとは、そういうことだ。一定のラインを越えず物事を全て客観的に自分のことでさえも客観的に見ることで、それは私を守る殻となりそれに閉じこもる事で私は私の自我を保っていた。

──だって私は、それでしか自分を守る術を知らなかったから

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