「ちょっといい?」

学校の帰りでの事だった。そう声を掛けられぽん、と肩に手が置かれる。暗に止まれ、と言っているのだろう。仕方なく歩みを止めた私に満足したのか、あっさりと手は離れ、代わりに今度はその人物が私の前に立ち塞がって進路を妨害する。
不愉快だと隠すわけでもなく顔を歪めると、何を思ったのか目の前の男子学生はにやりと笑った。私を上から下まで舐めるように見るその視線が酷く気分を害した。
用件は、言われなくても解っている。


「あのさ、アンタ──ヒバリの姉貴だよな?」


こんなやり取りは、今月でもう五回目だ。心底うんざりする。弟と同じ切れ長の瞳を更に細めて睨みつければ、それを肯定と判断したのか男は卑下た笑みを漏らした。黙りを決め込んでいても埒が明かない。仕方なく私は今月何度目かの台詞を口にする。

「貴方が用があるのは弟でしょ?私は関係ない」

「いーや。オレはアンタに用があんの」

「だったら早くしてくれる?私も暇じゃないの」

「おー、さっすが姉弟!口調も仕草も似てる似てる」

ケラケラと挑発するように笑いながら、男は唐突に腕を私の前に見せつけるように突き出し、シャツの袖を捲った。現れた薄らと血の滲む包帯で巻きつけられた腕を見ても男の至る所にある絆創膏や湿布を目にしても私の表情は変わらなかった。
「いってーなぁ」とわざとらしく患部に手を当てながら、私を見据えて分かり切った事を言う。

「これさ、アンタの弟クンにやられたんだよ」

「…だから腹いせに私を?自分が勝てなかった人間の肉親を狙うなんて、家畜以下ね」

不愉快極まりなかった。弟は、人と人が“群れる”のを嫌う。弱者同士の集まりなど見ているだけで虫唾が走るそうだ。視界に入れば徹底的に排除する。こういった衝動的な行為は除いて、基本的に弟は意味もなく人に危害を加えることはない。
弟はこの町を愛し、秩序を重んじ、規律を守っている。目の前の男は何らかの形でそれを破ろうとしたから、乱そうとしたから弟の逆鱗に触れた。それだけだ。彼が弟に負けたのは、ただ単に、彼が弱かっただけの話。
恨みを晴らしたいのなら簡単な事だ。彼が、強くなればいい。弟よりも、誰よりも。そこで矛先が私に向くのは可笑しい。私が彼に何をした訳ではなく“私の”弟がやった事なのだからそれで私を恨むなんてお門違いだ。

鞄を持っていない方の手を強引に掴まれる。ギリ、と手首を締め上げるようにきつく握られて思わず息を詰めた。私は喧嘩が出来るでもない、ただの一般人だ。強いのは弟であって、私ではない。
人は自分よりも弱い人間を標的にする。小さい頃からずっとこんな感じだった。だから私は肉親である弟とも距離を置くようになった。それが間違っているとは、思っていない。
私はこうする事でしか、自分を守れないから。他に守る術を知らないから。どんなに頑張ったって弟のようには強くなれないから。守ってと、弟に縋り付く事はしないし、考えもしなかった。
誰かに依存する事を、私も弟も恐れている。

「放して」

「そうはいかねぇな。だって、アンタ、ヒバリの姉貴だろ?弟の尻拭いは姉の役目、だろ?」

「触らないで」

制服のリボンに手が掛けられる。それを弄ぶ男が、にやにやと笑みを絶やさずに私を見下ろす。そうして抵抗の出来ない人間を捻じ伏せて、悦に浸る。本当は弱い癖に。それを口にすれば、私は激昂した男に容赦なく殴られるだろう。だから私は我慢する。言いたい事を全て飲み込んで、この状況から逃れる手段を冷静に考える。

──だって、助けなんて来ないのだから。

漫画のようになんていかない。私を守れるのは私しかいない。
深呼吸をして、自分を落ち着かせる。そして意を決してわざとらしく男から視線を外して、出来るだけ遠くを見つめ私は目を見開く。そして、ぽつりと、しかし男にもハッキリと聞こえる声で、言うのだ。

「……恭弥?」

──と。弟の名前を。恰も彼がそこに突然現れたかのように装って。
「ひ、っ!」と男とは思えない程気弱な悲鳴を上げて、手首を掴む男の手が放れる。
その隙をついて私は素早く距離を取り、踵を返してそのまま全速力で走る。私に構っている余裕をなくした男は私が逃げた事に気づきもしなかったようだ。しかし、やがて私に嵌められたと知った男が激昂し「待て!このアマ!」と叫ぶ声が後ろから聞こえた。
待たないし、捕まらない。昔から逃げ足だけは速かったし、こう見えても現役陸上部。この差では絶対に追いつかれない。
鞄を落とさないように握りしめて、只管私は家を目指して走った。足音と声がしなくなっても速度を緩める事も振り返る事もしなかった。
乱暴に家の戸を開けて思い切り閉めて鍵を掛けるまで、私は気を緩めなかった。


「何してるの」


肩で息をしてずるずるとその場に座り込んだ私は、抑揚のないその声を聞いて凍りついた。今、一番会いたくない人間が目の前に居る。


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