*死ネタ
「やあ、久しぶりだね。坊っちゃん」
「その坊っちゃんっての止めろって言ってんじゃん。サボテンにすっぞ」
半分本気、半分冗談でそう返すと、ベルフェゴールは繊細な細工が施されたナイフを見せつけるように突き出した。それを見て女は愛おしげに目を細める。
とある山奥の小さな家に彼女はひっそりと住んでいた。此方の世界では名の知れた武器職人である。その出来栄えには定評があり、ベルフェゴールのナイフを拵えたのも彼女だ。加えて彼女自身の人柄も良かった事もあり彼女に武器を依頼する声は跡を絶たなかった。
だがそれは、今では過去の話である。
ベッドに深く身を沈めて、名前はコホッと咳を一つ。ベッドサイドの椅子の背に顎を乗せて座るベルフェゴールは眉を顰めた。
「見せてくれる?」軽く咳き込みながら名前はそう漏らした。何を、とベルフェゴールは聞かなかった。彼女の手を傷つけないように刃の部分を持って柄を彼女に向けてナイフを手渡すと、名前は柔らかく笑った。
軽く身体を起こすと濡れたような漆黒の髪が名前の動きに合わせて揺れる。陽の光を全く浴びていない不健康な白皙の肌。血の気の無い小さな手がナイフをなぞる様に触れた。ナイフを見つめる名前の瞳は慈しむような優しい色を灯しており、我が子を見る母親のそれに酷く似ている。
「大切に、使っているね」
「…まーな。色々使ってみたけど、アンタのナイフが一番使い易いんだよね」
「ふふ。嬉しい事を言ってくれるね」
よく手入れされている、と名前は満足そうに頷いてナイフをそっとベルフェゴールに返した。その時に触れた手は驚くほど冷たかった。
コホッ。また漏れる咳。漏れているのは本当に咳だけだろうか。ベルフェゴールは、ふとそう思った。
薄く開いた唇から次々に漏れるそれが何故か恐ろしくなってベルフェゴールは居ても立っても居られなくなり椅子から立ち上がった。そして咳き込む名前の背をそっと撫でる。ベルフェゴールはただこの不愉快な音を聞いているだけというのに耐えられなかった。所詮は気休め、けれどそれでも構わない。
「は、っ」苦しそうに血の気の失せた唇から漏れたその声の主は、今何を思っているのだろう。
「なあ」
「…ん、何、かな?」
「それさ、治んの?」
その問いに、名前は目尻を下げて困ったように笑った。それが答えだった。モヤモヤとした得体の知れないものが体の中をゆっくりと侵食していく。苛立ちとは違うこれが何なのか、彼には解らなかった。
「そのナイフは、」
「……」
「私の最後の作品。だからさ、大事に…してよ」
「……くっだらね」
吐き捨てるように、ベルフェゴールは言った。胸糞悪い。こんな弱弱しい言葉を聞くために、こんな辺鄙な所に来たわけではない。
「う、っ」と、前屈みになって名前は口元を押さえた。──そして先程までとは違う重い咳と共に吐き出されたのは、紛れもない、赤。
押さえている手の指の間から零れ落ちたそれは、ぽたりとシーツを汚した。心臓がどくりと脈打ち、急激に冷えていくようだった。
サイドテーブルに置いてあったタオルを引っ掴み、無理矢理名前に渡す。血に染まった手と喀血が真っ白なタオルを赤黒く染めた。
「名前、薬どこにあんの?」
少しだけ焦ったように上擦ったベルフェゴールの声に、名前は顔を上げる。先程よりも青白いその顔に、本格的にやばいのではと背筋に冷たい汗が伝った。
肩に置かれた彼の手に、名前は血のついていない手でそっと触れる。そして小さく頭を横に振って、その手を握った。
「い、らない…」
「名前」
「はっ、…坊っ、ちゃん、なんて顔、してんの」
「……」
「だいじょう、ぶ。…直に、治まるから」
大きく息を吸って乱れた呼吸を整える名前の額には玉の汗が浮かんでいた。ふっと力を抜いた名前の背を支え、ベルフェゴールは負担を掛けないようそっと名前を横たえる。口の端に着いた血を指の腹で拭い、少しだけ安定した名前の呼吸を聞いてやっと肩の力を抜いた。まだ、意識はあるようだ。
張り付いた前髪に触れて、ベルフェゴールはぽつりと言った。
「殺してやろうか」
その言葉に、閉じた目を薄く開いて、名前は口元に笑みを浮かべた。場違いにもそっと首筋に添えられたナイフのその冷たさが気持ちいいと思った。
「折角だけど、遠慮、しようかな…」
「……」
「苦しいのも痛いのも、私は嫌なんだ」
「…あっそ」
ナイフをくるんと手のひらで弄んで、ベルフェゴールは立ち上がった。そのまま出口であるドアまで歩いていく。
「ベル、」とドアノブに手が触れた瞬間、彼女は小さな声ではあるがハッキリとそう言った。ベルフェゴールは振り返らなかった。
「なに」
「大事に…使ってね」
きっとこれが、最期なのだろう。頭の奥でぼんやりとそう思った。
「──ああ」ぶっきらぼうに返事をして乱暴にドアを開けてベルフェゴールは出て行った。もう、彼女は何も言わなかった。
半月後、彼女は眠るように逝った。苦しいのも痛いのも嫌だという彼女の願いを、神様が叶えてくれたのかもしれない。
彼女の白皙の肌を思い出させるような真っ白い墓石の前に、ベルフェゴールは一人突っ立っていた。涙を流しているわけではない、悲しんでいる様子もない。ただ、彼はじっと、白い墓石を見下ろしていた。
ドスッ、と一本のナイフが墓石に突き刺さった。そして、一言も発さぬまま、彼は去って行った。
この場所に彼が立ち寄ることは、もう、ない。
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