どうしようもない安心感が胸に広がる。と、同時に同じくらいの不安感もまた、じわじわと胸を侵食する。

不意にぞくりと悪寒が走った。ハッとしたように名前は段ボールだらけの部屋をぐるりと見渡す。如何にも引っ越ししたばかり、といったその室内に名前以外の人の気配を感じ取ることは出来なかった。
気のせいか、とホッと息を吐いた名前は鳥肌の立った腕を摩りながら嫌な事でも思い出してしまったのかぶるりと肩を震わせた。身近な段ボールを開けて中身を出しながら、「大丈夫、ヤツがここを見付けるわけがない」等とぶつぶつと呟き、小さな物音がする度に過剰な程反応を示して挙動不審に視線を彷徨わせるその姿はまるで小動物か何かのようであった。

乱れた心音を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。大きめの花瓶を段ボールから引っ張り出して、それを抱え込んで名前はうう、と呻く。“ヤツ”と出会ってから、胃薬は名前の必需品になった。金髪の男の人が苦手になった。名前の通り、あいつは悪魔だ。多分、これを本人の前で言ったらサボテンにされる。
キリリ、と胃が急に痛くなって名前は耐え切れずにその場に寝転がった。

小奇麗な天井を虚ろな瞳で見つめて、名前は暫くの間ぴくりともしなかった。今日中にこの段ボールの山を片付けて──それが無理だったとしても、せめて寝る所くらいは綺麗にしなければならないのに。
明日から当分殺し屋の仕事は休業する。そして毎朝近所で評判の良いパン屋さんに通って、読書でも楽しみながら優雅なティータイムをして、兎に角毎日のんびりと気ままに過ごしたい。ストレスなんて溜める事無くただ平和に過ごしたい。
漸く治まってきた胃痛に、名前はホッと息を吐いて起き上がる。楽しい事が待っているのだ、早くやることをやってしまおう。
ピンポーン、とチャイムが鳴ったのはそんな時だった。

「……引っ越し屋さん、かな?それとも管理人さん?」

思いつく訪問者はそのくらいだった。引っ越し先を教えた人間はまだ片手で数えられる程度だ。大して確認もせずに何の躊躇いもなく玄関のドアを開けた名前は、そのことを深く後悔することになる。

「よっ!」

「ぎゃああ!」

片手を上げてニッコリというよりはニヤリと言った方が納得するような笑みを浮かべて、ベルフェゴールはそこにいた。


トーカー気質の男の子と、


「うしし!「ぎゃああ!」とかマジウケるんだけど。つーかさ、そこは「お帰りなさい」じゃねーの?」

どかりとソファに座って足を組んでそう言い放ったベルフェゴールは、くるん、と手に持っているナイフを弄ぶ。肝心の家主は冷たい床の上で正座をしてガタガタと震えている。本来なら突っ込むべき「お帰りなさい」の件は今の怯えきった名前の耳に届いているのかすら怪しい。
ソファに我が物顔でふんぞり返る来客と床の上で正座をする家主。ちぐはぐな光景ではあるが、二人の関係を実に良く表していた。

「何とか言えよ」

急に低くなった声のトーンに名前は震え上がる。「ごめんなさいごめんなさい!」と間髪容れずに発した謝罪の言葉に一応満足したのか、幸いにしてナイフが飛んでくる事はなかった。余談ではあるがここ最近で彼女の謝罪スキルが飛躍的に伸びたのは彼のお蔭と言っても過言ではない。
出来るだけ彼の機嫌を損ねないように、今出来る精一杯の笑顔を浮かべて名前は言った。

「べ、ベル…どうして、ここに?」

ぴくりと彼の指先が動いた。そして深まった笑みに、名前は息を呑む。地雷を踏んだと気付くが既に遅かった。
ひゅん、と投げられたナイフが頬を掠った。はらりと落ちた数本の髪と頬に走る僅かな痛みに名前は顔を歪める。

「オレさあ、お前が引っ越すって事も、その引っ越し先も聞いてねーんだけど。今王子機嫌良いから、特別に言い訳聞いてやるよ」

機嫌が良いだなんて、嘘だ。とは、言えなかった。引っ越し先を教える気はなかったなんて、言えるわけがなかった。これ以上沈黙を守れば確実にナイフの二本目が飛んでくる。
ごくりと口に溜まった唾を飲み込んで、名前は言葉を絞り出した。上擦った声になるのはこの状況下では仕方の無い事だった。

「わた、私思いつくとすぐ行動しちゃうタイプだから…!そうだ、引っ越ししよう!て、的な?」

「………」

「へ、部屋…まだ片付けてなかったので、き、綺麗にしてから、連絡しようかなって…」

「……」

「あの、本当すいません勘弁して下さい」

「…スクアーロには言ったのにオレには言わねーんだ?」

「あいつ喋ったの?!い、言わないって約束したのに!」

「スクアーロには教えたのかよ。マジムカつくんだけど」

ひゅん、と飛んできた二本目を死ぬ気で躱して、名前はその言葉で鎌をかけられた事に気づいた。頭を抱えて己の失態を悔いる彼女をベルフェゴールはじわじわと追い詰めていく。
ギシッと音を立ててベルフェゴールは立ち上がる。進路を邪魔する段ボールを無常にも蹴散らしながら彼は真っ直ぐ名前のところに足を進めていく。段ボールから飛び出した靴下に気を取られている暇はなかった。殺されるかもしれない、とこの時ばかりは本気でそう思った。それほど、彼から漏れる殺気が尋常ではなかったのだ。

「立てよ」

「ひぃ!」

真上から降ってきたその声色が想像以上に怒気を孕んでいて、びりびりと肌を刺激する。じんわりと涙を滲ませて、名前はベルフェゴールを見上げた。

「あ、足が痺れて…立てない」

「……」

「あ、う…!ごめんなさいごめんなさい!だから打つのは止めて!」

ビクビクと肩を震わせて腕で顔を隠す名前を見下ろすベルフェゴールは、ぞくぞくと這い上がる感覚に浸っていた。この支配感が堪らなく良い。恐怖で頭が一杯だった彼女はこの時彼が恍惚とした表情を浮かべていた事を知らない。
ぐい、と顔を覆い隠す彼女の腕を無理矢理引っ張って立ち上がらせる。痺れて立てないというのは本当のようで、足には力が全く入っていなかった。恐らく彼が手を離せば簡単に崩れ落ちてしまうだろう。
腰に手を回して支えてやると、名前が息を呑んだのが分かった。それでも今の体勢が不安定なものであることに変わりはなく、床に打ち付けられるのを恐れた名前は殆ど無意識にベルフェゴールの服を掴んだ。満足げにそれを見つめて彼は耳元でそっと囁く。

「名前」

「……っ」

「次はねーから」

「ご、ごめん、なさい」

「ん。王子優しいから、許してやるよ」

「…あの、ベル」

「なに」

「足を踏むの止めて…!痺れているの、痛い!」

「………」

飴でも与えてやろうかという思考は消え去った。無言で足を踏みつけたベルフェゴールに名前は声にならない悲鳴を漏らした。

幸体質の女の子

鮫と跳ね馬とは同期設定
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