静かな室内に紙をぱらぱらと捲る音だけが響いている。名前はピンと背筋を伸ばしてソファに座り、数十枚ある書類の一枚一枚に目を通している。
女性らしい長く細い指先がくい、と眼鏡を上げ、その奥の漆黒の瞳が絶えず文字を追う。薄らと開いた唇はしっとりと水分を含んでいるかのように酷く艶かだ。
名前は好んでスーツをよく着る。何でもスーツを着ると気が引き締まるらしく、彼女が私服を着ることは殆どない。今日も皺一つないスーツを着こなし、ネクタイをきっちりと締め、バレッタで長い髪を結い上げているその姿には一瞬の隙もなかった。

「……」

「……」

「あの、隊長」

「なんだぁ」

「近い、です」

隙がない、筈だった。


二人の距離


如何にも彼が居ると調子が狂う。と、名前は自覚していた。今だってそうだ。書類に目を通していたまでは、いい。
ふと気を緩めた時、自分のすぐ隣にスクアーロが座っているのに気がついた。どきりと心臓が跳ねる。彼が気配を消していたからか集中し過ぎて周りの気配に気がつかなかったのかは分からないが、兎に角心臓に悪い。それから読んでいる文字が頭に入らなくなった。
まだ半分以上残っているというのに、──それも今日中に片づけなければならないものが殆どである。

視線を感じる。──言わずとも隣から。それは手元、上半身、顔、と全身に注がれる。
その視線に厭らしさは感じなかったが、人に見られるというのは如何にも居心地が悪いものである。彼との距離は人一人分空いているが名前にとってはアウトゾーンだった。

「き、窮屈じゃありませんか?」

「あ゙ぁ?」

「その…向かい側のソファーの方が落ち着けるんじゃないかと」

「気にするなぁ」

「そう言われましても…」

困ったように眉を下げて、名前は視線をスクアーロへと向ける。動く気配はなかった。そのまま剣の手入れを始めてしまった彼に名前はこれ以上何も言えない。
気持ちを切り替えて名前はキッと書類を見据える。兎に角今はこの仕事を一分一秒でも早く終わらせなければならない。仕事はまだ山のようにあるのだ。



***



「相変わらず仕事が早ぇなぁ」

「…いえ」

それから数十分。書類をスクアーロへと手渡した名前はその言葉に恐縮だとでも言うように頭を振る。彼は剣の手入れが終わったらしく、傍らに置いたそれを一瞥して満足げに笑う。そして手渡された書類の束を機械的にぱらぱらと捲り一分もしないうちに名前へと差し出した。毎度のことではあるが、名前はついつい口を出してしまう。

「隊長、きちんと目を通して頂けないと困ります」

「必要ねえだろぉ」

「ミスがあったらどうするんです」

「ミスがあったことがあったかぁ?」

「…今のところはありません」

「なら問題ねえ」

「ですが、」

「ゔお゙ぉい!ゴチャゴチャ煩ぇぞぉ!」

「…っ」

「名前、てめえの仕事の出来はオレが一番よく知ってる。だから一々確認なんて必要ねぇ」

その言葉に名前は息を詰まらせる。それは信頼されていると、取ってもいいのだろうか。これ以上の反論は聞かねえぞぉ、と付け加えたスクアーロに発する言葉などなかった。
ぎらりと光るその眼にどきりとする。本当に、調子が狂う。その視線から逃れるかのように名前は新たな書類の束へと手を伸ばした。

「隊長、次の書類ですが──」

「…まだあんのかぁ」

「はい。山のように」

げんなりとした顔をしたスクアーロを横目に、名前は何食わぬ顔で新たな書類を差し出す。その書類の分厚さにひくりとスクアーロの口元が引き攣った。

「今日中にお願いします」

「ゔお゙ぉい…」

「終わるまでは、この部屋から退出することは出来ないとお思い下さい」

「……」

「それでは、私はこの書類をボスに渡さないといけませんので」

失礼します、と一礼して背を向けた名前に待ったがかかる。振り返れば険しい表情をしたスクアーロがこちらを見ていた。一体、どうしたのだろう。
書類でしたら減らしませんよ、と容赦ない一言を浴びせた名前に彼は「違ぇ!」と反論する。

「ボスなら今取り込み中だぁ」

「……そうですか」

「別に行ってもあいつは気にしねえだろうがなぁ」

「いえ、そのような無粋な真似をするつもりはありません」

出直します、と続けて、名前はソファに座りなおした。その隣ではスクアーロが眉間に皺を寄せ書類と睨めっこをしている。しかし座り心地が悪いのか、集中出来ないのか、足を組みかえたりと落ち着きがない。それを見兼ねた名前が「ソファでなく椅子に座ったらどうですか?」と助言をすると彼は更に皺を深く寄せて唸るように言った。

「椅子に座ったら意味ねえだろぉ」

「意味?」

「てめえは黙って隣に座ってろぉ」

「…分かりました」

「……それからなぁ、」

「手は貸しませんよ。それは隊長にしか扱えないものですので」

「………」

書類と格闘する彼の隣で、名前はテキパキと自分の仕事を片づけていく。彼と彼女の距離は人一人分。距離を縮めるのにはまだまだ時間がかかりそうだ。

(…隊長、もう少し離れて下さい)
(ゔお゙ぉい!逃げんじゃねえ!)
×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -