「さむい……」
「そりゃこんな雨ん中に三時間も居りゃあ寒いだろうなぁ」
「頭痛い……」
「そりゃこんな雨ん中に三時間も居りゃあ風邪くらいひくだろうなぁ」
うう、と頬を薄らと桃色に染めてベッドに横たわる名前を、ベッドの縁に腰かけているスクアーロは呆れたように溜息を吐いて見下ろしていた。
降り頻る雨の中でピクリとも動かず天を見上げて雨粒に打たれている名前を見つけたのは、スクアーロだった。またか、と溜息を吐いて彼はじっと名前の背を見つめる。
彼女がどんな表情をしているのかは分からない。けれど、何故か泣いているのだろうとその背を見て思った。
彼女はいつも雨の日は外に居た。何をするでもなく、ただ雨に打たれる。偶然か否か、彼女に嫌な事が起きるのは決まって雨の日だった。きゅ、と小さな手を握りしめて何かに耐えるように肩を震わせて、彼女は一人雨の中に佇むのだ。
彼女が雨の中に居るのは長くて三十分だった。全身びしょ濡れになりながらも、しっかりとした足取りで室内に入る名前の眼は酷く澄んでいて、スクアーロはその眼を見るたび、どうしようもなく焦がれた。
今日も、彼女は雨の中に居た。今日も、スクアーロはそんな彼女をそっと見ていた。声を掛けた事なんてなかった。多分名前は彼の存在に気づいてはいない。
変わらぬ光景、けれど今日だけはいつもと少し違った。三十分経った。彼女は動かない。一時間経った。まだ、居る。二時間経った。二時間半経った。そして三時間が経過したところで、到頭彼女は倒れた。
ぐったりとした名前を抱き起したのも、寝室に運んで寝かせたのも、スクアーロだった。眉間に皺を寄せてベッドの縁に座る彼を見て、名前は申し訳なさそうに目を伏せた。
「スクアーロ」
「なんだぁ」
「…ごめんね」
弱弱しい謝罪に、スクアーロは更に眉間の皺を深くする。そんな声が聞きたいんじゃない。そんな顔が見たいんじゃない。伸ばした手は熱を持った名前の頬にそっと触れた。それは滑るように上にゆっくりと移動し、指の腹が目尻を撫でる。
「目、兎見てぇに真っ赤だぞぉ」
「…うん」
そっと名前は目を閉じた。彼女は今、何を思っているのだろう。閉じた目からは何も零れなかった。「手が、冷たくて気持ちいい」と、名前は独り言のようにそう呟く。
「名前」
「……大好き、だったの」
「……」
「私だけに向けてくれる笑った顔が、優しく抱きしめてくれる腕が」
「……ああ」
「全部全部、大好きだった。──でも、いつの間にか一方通行になってた」
「…名前」
「覚悟はしてたの。でも、いざ言われるとやっぱり辛くて、何言われても、わたしは彼が…大好き、だった」
「もういい。黙れぇ」
大好きだったと、過去形で言う彼女は苦しげに笑う。開けた目は薄らと涙が滲んでいた。それを優しく拭い、スクアーロはぽつりと言う。
「……だから、オレにしておけと言ったんだぁ」
その言葉に名前は目を丸くする。オレにしておけ。随分前に彼に言われた言葉。それを拒絶したのは、紛れも無く自分だ。今も昔も、彼は変わらない。
「スクアーロは、優しいね」
頬に触れる手に己の手を重ね、名前は呟く。名前のとは違って、骨張ったその手は大きく、がっしりとしている。さらりと流れる癖のない白銀の髪に指を絡ませて、力なく名前は笑った。
「あの時私が言った言葉、覚えてる?」
「ああ。一言一句違わず覚えてるぜえ」
「今も変わらないって言ったら?」
「はっ。そんなツラしてよく言うぜぇ」
にやりと笑う意地の悪い顔が、名前を見ている。髪を弄っていた手はいつの間にか彼の手に捕まえられていた。きっと今、自分は酷い顔をしている。泣き腫らして目は真っ赤。いつもは紅を引いたように色づいている唇も、長時間雨の中にいた所為で血の気のない紫色になっている事だろう。本当に、彼は優しい。優しすぎて、泣けてくる。
「スクアーロ、モテるでしょ」
「さあなぁ」
「私…ズルイ女だと自分でも思う。最低。…貴方を、自分のいいように利用しようとしてる」
「別にいいんじゃねえかぁ。オレは、てめえのそんな所も全部引っ括めて好きなんだぁ」
名前の頬に触れている手を後頭部に回し、もう片方の手を力任せに引っ張って横たわる身体を起こし抱き寄せる。彼の腕の中で、名前は目を瞑りその体温に安堵する。都合の良い女でごめんなさいと、心の中で呟きながら。
「もう…一人で泣くんじゃねえ」
「…スクアーロ……知って、」
「黙ってろぉ」
驚く彼女を更に力を込めて抱きしめると、小さな手がスクアーロのシャツを掴んだ。それに目を細め、彼はそっと腕の中の存在に口付ける。
もう、彼女が雨の中で一人佇む事は、ない。
雨のち、晴れ
ずっと、笑っていて
08.04.12