甘美な誘惑、の続編的なお話
「貴女が苗字名前さんですかー」
テラス席の一角でアッフォガート・アル・カッフェを食べている時だった。
木製のスプーンを口に銜えたまま名前は声の主を見上げる。エメラルドグリーンの髪が太陽に反射して眩しい。
間延びしたその口調に反して髪と同じ色の瞳は無感情にこちらを見下ろしている。名前が興味を示したのは彼が被っているカエルの被り物だった。無表情な彼にお茶目なカエルは酷くミスマッチだ。名前の視線に気がついたのだろう。彼は不満そうに口を尖らせる。
「無視ですか。横っ面引っ叩きますよー」と真上からワントーン下がった声が降ってくる。むむ、と未だスプーンを銜えたまま名前は眉間に皺を寄せる。つくづく自分は運が悪い、とにこりともしない彼を見上げてそっと瞳を伏せる。隙がない。今この状況で逃げるという選択肢は存在しない。溶けかかったアイスクリームを掬い上げ、ぱくりと口に運んで諦めたように名前は口を開いた。
「お使いですか?」
骸さんの、と付け加えると、彼は即座に否定の言葉を発した。
「そんなんじゃないですー」
「そうですか。では、ご用件は何でしょう」
「用がないとダメなんですかー?」
「ええ。基本的に、用件のない方との接触は控えています」
「師匠とはよく会ってますよねー」
「……あれは不可抗力です」
椅子を引く音がしたかと思うと、許可もなく彼は名前の隣に腰かけた。しかし名前はそれについて特に何も言わず、また一口、アイスクリームを掬って口に運ぶ。エスプレッソと混ざり合ったバニラは本来の色を失いほんのりキャラメル色に変化している。何とも言えない甘さと独特の苦みが口内に広がり、それが尾を引いて手が止まらなくなる。それを隣で静かに見つめる視線に気づきながらも、名前は飽く迄一人であると思い込み、貫く。知ってか知らずか、不意に伸ばされた手がそっと名前の髪を撫で上げた。まるでその存在を主張するかのように。
「なんで師匠は、こんなただの情報屋にご執心なんですかねー」独り言のように彼は呟いた。否、実際そうだったのかもしれない。名前は答えなかった。
「…ヴァリアーは、随分とお暇なんですね」
「そう見えますー?」
「失礼ながら。幹部ともあろう人間が用もなくただの情報屋に構う時間があるようですので」
「あ。用ならありますよー」
「……。何でしょう?」
「もう済んじゃいました」
「それは…、」
「名前さんー」
髪を弄っている手とは別の手が、名前の頬をゆるりと撫でる。そして銜えているスプーンを優しく抜き取ると、アイスクリームを掬い上げ、ぱくりと食べてしまった。その動作が余りにも自然過ぎて名前はただ見ていることしか出来なかった。
「あ、」と声を上げたのはそのすぐ後で、しかし今更何をしても食べられてしまったアイスクリームは戻ってはこない。見せつけるようにぺろりとスプーンをひと舐めして、何事もなかったかのようにフランはスプーンを名前の指に絡めさせた。
「略奪愛って興味ありますー?」
「…勘違いしているようですが、私と彼の関係はそんな生温いものじゃ──」
「名前さん」
有無を言わせない声色だった。思わず息を呑んだ名前の耳元に顔を近づけて、彼は囁き掛ける。
「ただイチャつくだけが愛とは限りませんよー。世の中には、“そっち”でしか表現出来ない人だって居るんですから」
「……」
「ちなみに、師匠もミーもそっちの部類ですー」
「………っ」
かぷり。耳を甘噛みされる。いつの間にか腰に回された手が距離を取ろうとすることを許さない。名前の指から滑り落ちたスプーンが、カランと悲しげに鳴いた。
「はなし、て…」
「ミーの名前、知ってますよねー?」
「フ、ランくん…っ」
「もう一回」
「…フランくん」
「なんですかー名前さん」
腹部に固いものが当たった。そして次に微かに聞こえた、恐らく安全装置が外されたであろう音。「……放して下さい」落ち着きを取り戻した声が静かに鼓膜を震わせる。
しかしフランは動じなかった。感情が表れない顔からは何も読み取ることが出来ない。彼の手がそっと、拳銃ごと名前の手を包み込んだ。
「撃っても意味がないって、知ってますよねー?」
「……っ」
少し力を入れれば、あっさりと拳銃は名前の手から離れる。その時に何かに耐えるように名前の眉がピクリと動いたのをフランは見逃さなかった。
抵抗する間さえ与えず、フランは無言で袖を捲りあげる。真っ白な肌に不自然に刻まれた紅い痣を見て、彼は胸中舌打ちをした。誰が遣ったかなんて愚問だ。「……師匠も乱暴者ですよねー」軽い口調とは裏腹に、眉間には深い皺が刻まれている。
「うっわ、指の痕までクッキリじゃないですかー」
「…もういいでしょう。放して下さい」
「痛いですかー?」
「痛くないように見えます?」
「痛いのが好きなら痛いとは思いませんよねー」
「生憎、そういった趣味は持ち合わせておりませんので」
「ちゃんと手当てしないとダメじゃないですかー」
「余計なお世話で…っ」
手首に、熱。視線を逸らしていた名前が慌ててフランの方を向けば、彼の唇が手首に押し付けられていた。カッと頬に熱が集まったのが分かる。
「な、何をし、て…!」動揺している所為か、上手く呂律が回らない。「何って、消毒ですけどー」まるでその行為が至極当然であるかのように彼は言う。熱を持った彼の舌が手首を這うざらついた感覚に全身がぞくりと粟立つ。
ドンッ!頭が真っ白になった名前は考えることも儘ならず、体が勝手に動いて渾身の力を込めて彼を突き飛ばす。予想外のそれに軽くよろめいた彼は咄嗟にテーブルに手をつく。その拍子に、カエルの被りものがぐらりと揺れた。
顔を林檎のように真っ赤にさせた名前は、そんな彼に声を掛けることもせず背を向けて走り去った。遠くなっていく彼女の姿を視界に捉え、追いかけることもせず「逃げられちゃいましたねー」と呑気に呟いた。
やがて彼も立ち去り、残ったのは完全に存在を忘れ去られた溶けてしまったアイスクリームのみ。
塞がれた道の先に在るもの