苗字名前という人間は、途轍もなく朝に弱い。
ピピピピピピ、と耳障りな機械音が寝室に響き渡る。ゆらゆらと心地よい眠りについていたのに一変、その機械音によって無理矢理覚醒させられる。ちゃんと起きれるようにと前日に目覚ましをセットしたのは自分であるはずなのに、理不尽な怒りが昨日の自分へと向けられる。カーテンから漏れる淡い光すら憎らしい。
む、と眉間に皺を寄せてシーツを手繰り寄せる。イヤイヤ、と縮こまるように体を丸めてより深く潜り込むも音が鳴り止むことはない。まだ、大丈夫。もうちょっと、ほんのちょっとだけ。そんな甘い考えが脳裏を過ぎり、そろりとシーツから手を伸ばす。ゆっくりと這うように動くそれは、鳴り響く目覚ましを捕らえた。カチッと音がして一瞬にして寝室は静寂を取り戻した。
何処からか伸びてきた大きな手が目覚ましに乗せたままの名前の手を覆う。しかし既に意識が曖昧になりつつある名前はそれに反応をする事はない。そもそもまだ完全には起きていないのだ。目覚ましを止める動作も無意識からの行動で、彼女は覚えてすらないだろう。
くすくす、と彼女のものではない低めの笑い声が寝室に響き渡る。重ねた手を握っても名前は起きるどころか依然と無反応のままだ。
潜り込んだシーツの端から長い黒髪が覗く。艶やかなそれは漏れる朝日に反射してきらきらと光る。空いた手でそっと触れると、それは逃げるように零れ落ちていった。
「ん…ぅ」
ピクッとシーツに包まった塊が反応を示した。もぞもぞと何度か動きを見せて、それは勢いよく突然起き上がった。
バサッとシーツが音を立てて宙を舞う。立ち上がった名前は、ゆらゆらと危なっかしい足取りでクローゼットへと向かう。その様子からまだ完全に目が覚めていないことが窺える。
ふふ、と小さな笑い声を漏らして、ベッドの上で頬杖をつきながら風は静かに名前を見守る。寝惚けている彼女はいつバランスを崩して転んでも可笑しくはない。しかし万が一そうなっても、この体勢から瞬時に起き上がって彼女が倒れる前に抱きとめる事など彼にとっては造作も無いことだ。
クローゼットへ辿り着いた名前は寝惚けながらも衣類を引っ張り出す。ゴン、と頭を強かにぶつけたのはその時である。「う?」とぶつけた箇所を片手で押さえ首を傾げる姿は見事に風のツボをついた。
噛み殺したような笑い声が響く中、名前はぼーっとしたまま一つ、また一つとパジャマのボタンを外していく。風がこの寝室に居ることも気がついてはいないのだろう。パサッ、とボタンを全て外し終えたパジャマが役目を終えて床に落ちた。上半身に身に纏っているのは下着だけという状態に、風はにこにこと笑みを浮かべたまま何も言わない。彼の視線など気にも留めずにシャツに腕を通すと、ゆっくりとボタンを留めていった。
「名前」
酷く優しげな声が名前を呼ぶ。けれど彼女は振り向かない。まだ夢現つの状態のようだ。音も無く風は片手を軸にベッドから飛び降りると軽い音を立てて名前の背後に着地した。
三つ編みにされた彼女と同じ漆黒の髪がゆらりと揺れる。名前の腹に片手を回し、抵抗する隙も与えずにそのままベッドの方へ引っ張る。ベッドに胡坐をかく状態で座った風は、その上に名前を乗せた。風より一回り以上小さい名前は後ろから抱きしめられている所為で余計に華奢な印象を思わせる。
「ボタン、掛け間違えてますよ」
仕方のない子ですね、と笑いながらぷちん、ぷちんと一つずつ外していく。抵抗などは一切なく、名前は風の体温が心地良いのか完全に体の力を抜き風に寄りかかるようにして体を預けている。ボタンを掛けなおしている間も、大人しくされるがまま。この角度からでは下着も何も風には丸見えだというのに、まだ夢の世界を行ったり来たりしている名前は隠す素振りすら見せない。それに苦笑を浮かべ、風はそっと名前を呼んだ。
「名前」
「………」
「名前、そろそろ起きる時間ですよ」
「名前」と、今度は耳元で囁くように。ぴくりと指先が僅かな反応を見せる。あと少し。そこで風は気付いた。名前のおでこが薄っすらと赤らんでいるのに。先程ぶつけたところだ。
くい、と風の長いしなやかな指が名前の顎を捕らえ上を向かせる。いつの間にか閉じられていた瞳はそれだけでは開かない。ちゅ、と赤らんだおでこに口付けを一つ。そして唇はそのまま頬をなぞるように下へ下へと下りていく。薄っすらと開いた名前の唇はまるで彼を誘っているかのよう。意地悪く微笑んだ風は迷うことなく唇を重ねた。それは啄ばむように、優しく、深く。
「ん…っふ…」
無抵抗なのをいい事に、行為は激しさを増す。口内へと侵入した舌は、名前の舌を絡めとり、より深いものへと変える。時折漏れる苦しそうな吐息は彼を煽る材料にしかならない。やがて息苦しさに耐えられなくなった名前はぴくりと瞼を震わせてゆっくりと目を開けた。髪と同じ色の瞳が風を映す。
「…は…っ、」
「おはようございます、名前」
苦しそうに肩を揺らす名前を風は愉しげに見下ろす。「風…、さん?」と掠れ声で呼ばれた名に、ぞくりと胸の奥が疼いた。
「なんで風さんが此処に…?あれ、私服着てる……?」
その様子から彼女が先程の行動全てを覚えていないことが分かる。まあ、こんな事は今に始まったことではないので風は特に気にした様子もなく更に力を込めて抱きしめる。
「わ、ちょ…風さん!」
「何ですか?」
「は、恥ずかしい…から、放してっ」
「何ですかこれくらい。先程は私の前で平然と上半身裸になっていたじゃないですか」
朝から良いものを見せて頂きました、と続けられた言葉に、一気に頬に熱が集中する。無論名前にそんな心当たりなどなく、叫びに近い声を上げて風から離れようとする。しかし彼がそう易々と解放してくれるわけもない。
「あまり動かないで下さい。落ちますよ」
「ひ、ぁ!耳は、やめ……っ!」
「ああ、弱いんでしたっけ?耳」
「……ッ」
「名前」
かぷり、と真っ赤に染まった耳朶を甘噛みする。途端に上がった嬌声に似たその声は酷く加虐心を煽る。ツ、と首筋をなぞり上げると名前の背筋がピンと張ったのが分かった。くすりと笑みを漏らして抵抗出来ないように首を持ち上げると指でなぞった所を追うように、首筋に舌を這わせた。
「風さ…っ!や、ぁ…!」
「そうは見えませんけどね」
ちくりと首筋に小さな痛みが走る。それが何なのか分からない程子どもではない。「ねえ名前」熱を孕んだ声に肩が震える。
「楽しいこと、しませんか?」
その声に答える余裕など、もうなかった。
水を欲する魚