「んん。幸せー」

運ばれてきた珈琲を一口飲んで、名前は満足そうに呟く。ブルーマウンテンの芳醇な香りが鼻腔を擽る。流石最高級品質と言うべきか、後味も悪くないし口当たりが良い。久々の当たりだと、カフェのテラスで一人笑みを漏らした。
耳障りにならない程度の人の話し声や陶器の音、楽しげな店員の声が耳を通り抜ける。また一口、口を付けて名前は持参した本を取り出して読書を始めた。


甘美な誘惑



何時間が経過しただろうか。黙々と本を読み続ける名前は時間の流れなど気にも留めない。既にティーカップは空で二杯目に手を出そうか迷っている時だった。
読んでいる本に不自然な影が出来る。ゆっくりと本から視線を上げると一人の青年が目の前に立っていた。後ろで一つに結わえている髪が風に遊ばれて揺れる。端整な顔立ちのその青年は困ったように名前に笑いかけた。

「すみませんが相席をお願いできませんか?」

相席?と首を傾げて名前は周りを見回す。先程まで空席が多々あったそこは今は多くの人で賑わっていた。何時の間にこんなに混んだのだろうか。二杯目の珈琲は止めにしよう、と名前は静かに本を閉じる。声を出そうとしたところで、こちらを見下ろす青年の目が一瞬変わった。ぞくり、と言い知れない感覚が名前を襲う。ハッとした時にはその感覚は余韻を残さずに消えていた。どくどくと脈打つ心臓が煩い。僅かに顔を歪めた名前を見て、青年は何を勘違いしたのか申し訳なさそうに口を開いた。

「やはり、見ず知らずの人間と相席するのは気分の良いものではないですよね。すみません、他の席を……」

「いえ、大丈夫です。……混んでいるみたいですから」

青年の言葉を遮りそう言うと、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「本当ですか?有難うございます」

かたん、と椅子を引いて青年は名前の目の前に腰を下ろす。長くしなやかな指は、絡みつくようにカップを持ち、優雅にそれを飲む彼はそれだけで絵になる。雰囲気は好青年そのもので、浮かべる笑みは女性という女性を惹き付ける。ネクタイを緩める等して着崩したスーツは決して下品なものではなく、彼独特の色気が滲み出ている。彼は気がついているのだろうか。己に向けられている複数の熱っぽい視線に。
読書を再開しながら名前はうーんと考え込む。この青年の行動が、読めない。顔には出さないが内心酷く焦っていた。折角頼んだ二杯目のブルーマウンテンは冷め切ってしまい、とても飲む気にはなれなかった。

「考え事ですか?」

「……え?」

「ページ、全然進んでいないようですが」

どうやらずっと見られていたらしい。わっ!と慌てた声を出して名前は勢い良く本を閉じる。クフフ、と独特の笑い声が漏れる。心地よい風が撫でるように名前の頬を通り過ぎていく。風は青年の髪も弄ぶ。
不自然に隠された右目の前髪が、揺れる。一瞬だけ見えた彼の右目は赤く、“六”の文字が刻まれていた。それを見て名前の顔が引き攣る。平穏な時間がどろどろと溶けていく。

「……お兄さん」

「何ですか?」

「ご用件は、何でしょう」

「クフフ」

カップをソーサーにおいて彼は至極愉しそうに笑う。「どうやら馬鹿ではないようだ」と独り言のように呟いて、彼は髪を掻き上げた。オッドアイのその瞳を持つ人物には心当たりがある。

「此処でドンパチやる気は…ないんですが──六道骸、さん?」

「おや。ご存知でしたか──苗字名前、さん?」

「そりゃあ、貴方はこっちの世界じゃ有名ですから」

「クフフ。久しぶりに楽しめそうですね」

足を組み替えて骸はじっと名前を見つめる。如何出るのか様子を窺っているようにも見える。テーブルに置いた本をしまいながら名前はにこやかに言う。

「そろそろ幻術、解いてもらえます?」

「クフ。いつから気がついていました?」

「最初から」

「おやおや。君も特異な人間のようだ」

「貴方ほどではありませんよ」

ぱちん、と骸が指を鳴らすと人で賑わっていたテラスが静かになり、相席をしている人や席が空くのを待っている人間が姿を消した。最初からこの店は人で賑わってなどいなかったのだ。ぼちぼちと人が座っているくらいで騒がしくも混んでもいない。作られた不自然な空間が“自然”を装って溶け込んでいただけ。
カタン、と音がして骸が席を立つ。そして元々テーブルを挟んだだけの距離を更に縮めるようにゆっくりと近づいてきた。伸びた手が名前の頬を滑りネクタイに触れる。

「余裕そうですね」

「そう見えます?」

「えぇ。とても」

「じゃあ、そうなんじゃないですか」

シュッと擦れる音がしてネクタイが緩められる。そしてシャツのボタンがひとつ、外された。名前は抵抗を一切せず、事の成り行きを静かに見ている。

「君のような人間を跪かせるのは、さぞ楽しいんでしょうねえ」

「生憎とそちらの趣味はないので」

ゆっくりと名前も席を立つ。スーツのジャケットに手を入れながら「折角のティータイムが台無しです」とぼやく。「それは残念ですね」と返した骸の顔はその言葉に反してとても嬉しそうだ。

「六道さん」

「骸、で構いませんよ。名前」

「では骸さん、」


始めましょうか。


取り出された拳銃を握り締め、名前はにっこりと言い放つ。それに動揺する素振りすら見せずに、骸はクフフと笑った。

この殺し合いの行方は、誰も知らない
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