頭の中で考えていた今晩の献立が吹っ飛んだ。
目の前の光景に頭の中が真っ白になる。一言で言えば“あり得ない光景”だった。目の前で、少年が血塗れで倒れていた。意識があるかはこの微妙な距離では分からない。普通なら救急車を呼ぶのが正しい判断だ。
けれど何を思ったのかこの時私がとった行動は、買い物袋をその場に置いて少年を引き摺るようにして目の前のマンションの自宅へ運ぶというとんでもないものだった。
何故自ら面倒事に巻き込まれるような真似をしたのか、冷静になった今改めて考えても答えは出てこなかった。


Monday


規則正しい寝息を立てて少年はベッドで眠り続けている。顔に付着した乾きかけた血をタオルで拭う。真っ白だったタオルは今やその面影もなく、所々どす黒い血が滲み込んでしまっている。多分このシミは落ちないだろう。
少年の身体の至る所には絆創膏やら包帯やらで覆われている。飽く迄も応急手当てだ。彼が意識を取り戻したら病院に行ってもらおう。

余計な詮索をするつもりはない。これ以上関わる気はないし、関わってはいけない気がした。彼は、絶対にやばい。彼が来ていたシャツは真っ赤だった。最初見た時は付着している血痕は彼のものであると思っていた。無論怪我の具合から見て彼のものでもあるが、全てが彼の血痕ではなかった。傷の位置と一致しない血痕が多々あったからだ。つまりは、返り血。
彼は被害者かもしれないし加害者かもしれない。何という拾いものをしてしまったのだろう。今更ながら後悔した。けれどもう遅い。傷の手当てをしたからと意識のない彼を倒れていた場所にほっぽり出すなんて事が出来るわけもなく、私は彼の意識が戻るまで傍にいなければならない。
ポケットに入っていた生徒手帳には彼の身元が分かるような記述はなく、顔写真すら貼っていなかった。唯一、生徒手帳に刻印されていた校章を見て彼が並中の生徒であることを知る。しかし、確か並中は学ランではなくブレザーだった筈だ。学ランに付いていた腕章は風紀と刺繍されていた。風紀委員が喧嘩?…笑えない。


洗濯機の機械音が響いた。どうやら終わったらしい。あの血塗れのシャツが真っ白になっている可能性は極めて低いが、一応彼の衣類だ。勝手に処分する訳にもいかず、少しでもマシになるようにと洗剤をたっぷりと入れたのが数十分前。日付はとうに変わっていた。
彼はまだ目を覚まさない。ブルーのパジャマを着た彼の寝顔は穏やかだ。このパジャマは従弟が遊びに来た時用に購入していたものだが、まさかこれを他人に使うことになるとは思いも寄らなかった。サイズもピッタリのようで、彼が従弟と同い年くらいで良かった。

ピクリと、彼の指先が動いた。そして開かれた切れ長の真っ黒な瞳に、思わず掛ける言葉を失う。じっと天井を見つめていたそれが私を捉えた。気が付いたの、と声を出すより早く彼が動いた。
視界が反転する。突然の事に息を呑んだ私は目をぱちくりとさせて、茫然としていた。押さえつけられている手が痛い。中学生の力とは思えない程強いそれに顔が歪む。背に感じるのは自分のベッドの慣れ親しんだそれ。視界いっぱいに黒が広がる。
見上げていた筈の切れ長の目は私をじっと見下ろしていた。その眼に浮かぶのは濃い警戒心。私に馬乗りになった彼は、警戒心を剥き出しにして容赦のない力で両手を拘束していた。

「君、誰?」

とても怪我人とは思えない程はっきりと、彼はそう口にした。威圧を含んだその声に身体が強張る。けれど、ハッと思い出す。そう、彼は怪我人だ。それも結構重傷な。そんな怪我人がこんな体勢で傷に響かない筈がない。

「ちょ、君、放して…!」

「質問に答えなよ」

「答える、から!その前に放して!傷が開いちゃう!」

「そんな事どうだっていいよ」

その言葉にカッと頭に血が上った。自分の体を大切にしない人間は、嫌いだ。何故彼を助けるような真似をしたのだろう。救急車だけ呼んでさっさと帰れば良かった。土下座して礼を述べろとは言わないが、この態度はあんまりだ。どうして私は彼に押さえつけられて尋問紛いのことをされているわけ?段々と腹が立ってきた。
渾身の力を両手に込めて拘束している手を振り払う。何とか振り払えたのはきっと彼が怪我を負っているからだ。今でもこの力だ、これが完治している状態だったらと思うと寒気がする。彼は平然としていたが矢張りきつかったらしい。振り払ったのと同時に身体がぐらりと傾く。
ベッドから落ちそうになるところを間一髪、腕を掴んで阻止する。僅かに歪められた顔を見て私が掴んでいる場所が患部である事に気づくが、放してはやらない。ぐいとベッドに押し戻して、私は手を振り上げて彼に平手を食らわせた。乾いた音と共に、叩いた手が熱を持つ。叩かれた当人はぽかん、と気の抜けたような顔でこちらを見ていた。しかしそれも数秒の事で、すぐに目が細められてぎろりと睨まれる。

「何するの」

「自分の身体を大事に出来ない人は嫌い」

「は?」

「何があったかは聞かないけど、さっきの言葉は見過ごせなかったの。悪いと思ってないから、謝らないからね」

恐らく私も彼も今同じ顔をしている。お互いがお互いに不満を持っている。
謝らない、とは言ったものの、薄らと赤く染まった頬を見て罪悪感が駆け巡る。良い大人が中学生の怪我人相手に何をやっているんだ。
ぱち、と目が合うと彼はふん、と視線を逸らしてしまった。余程ご立腹らしい。溜息を吐いて新しいタオルを取りに洗面台へと向かう。腫れた頬に当てるために冷水につけると手がひんやりとして頭が少し冷え、冷静になれた。もう先程のような怒りはない。
ぎゅ、とタオルを絞って彼がいる場所に行くと、同じ体勢でこちらを見ようとしない彼がそこに居た。何か言葉を掛けようか迷ったが、今の彼じゃ多分会話にならないので止めた。

タオルを持った手を近付けると、瞬時に彼の手がそれを阻止するように動く。振り払おうとする仕草はまるで猫か何かのようで少し面白かったが、決して口には出さない。
ある程度予想はしていたので振り払われる前にその手を受け止める。その手は少し、熱かった。熱があるのかもしれない。
そっと頬にタオルを当てるとぴくりと彼が反応を示す。抵抗されるのかと身構えたが身体が怠いのかその気がないのか分からないが抵抗らしい抵抗もなく、彼はされるがままになっている。

「ええと…痛い、よね?」

「…自分でやっておいて何言ってるの」

「う。それはそうなんだけど…」

「変な人だね」

相変わらず視線は交わらない。さて、これからが問題だ。彼を病院に連れて行かなければならない。一人で行けと言うほど私は鬼ではない。彼が私の同行を嫌がるなら救急車を呼ぶまでだ。

「君、立てる?やっぱり救急車を呼んだ方がいい?」

「要らないよ」

「そう。なら、辛いとは思うけど一緒に病院に──」

「やだ」

「……」

「……」

「一人で行くのは危ないと思うんだけど…」

「僕は病院に行くなんて一言も言ってないよ」

意図的に逸らされていた視線がこちらに向けられた。そして歪められた口元に、思わず引き攣る。これは、良からぬ事を考えている顔だ。そしてそれは見事に的中してしまった。

「僕を捨てる気?」

「……はぁ?」

「病院に預けるってことは、責任を放棄する事と同じ事だよ」

「放棄云々以前に、その傷を大した医学知識もない素人の私が手当てすることは無理よ。それは飽く迄応急処置であって、きちんと病院で診てもらうべき」

「ふうん。やっぱり捨てるんだ?」

「あのね、捨てる捨てないの問題じゃなくて──」

「なんで僕を見つけた時救急車を呼ばなかったの?」

痛いところを衝かれた。思わず返答に詰まる。にんまりと深まった笑みに嫌な汗が背中を伝う。「ねえ、」と何かを促すように手を掴まれる。
熱を持ったそれは冷えた私の手と混ざり合って曖昧なものになる。完全にペースを持っていかれた。じっと見つめてくる目から逃れる術を、私は持っていない。完敗だ。はあ、と溜息を吐いて私は腹を括った。

「分かった。最後まで責任を待つ。治るまで、君の面倒は私が看る」

「いいよ、飼われてあげる」

全く噛み合わない会話。“飼う”だなんて誤解を招くような言い方は止めて頂きたい。嗚呼、今更ではあるが私はとんでもない拾いものをしてしまったらしい。

後悔先に立たず
全てが始まった、月曜日
11.04.15
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