いつか、こうなるのではと頭の隅で考えてはいた。
外的な衝撃によって頭が痛い。ズキズキと脈を打つように一定のリズムで襲ってくる痛みの所為で目を閉じているのに意識だけがぼんやりと残っている状態だった。身体が鉛のように重く、瞼を開ける気力すらない。けれどふとした時に押し寄せてくる頬や四肢に走る擦り傷や打撲の痛みで反射的に情けない呻き声が口から零れ落ちた。
人ってこんなに簡単に連れ去られるものなんだ、と漠然と思う。悲鳴を上げる隙もなかった。異変を察知する事も出来ず、気付いたら視界と意識を奪われ、知らない場所で「お前が夏油の女か」と相手のとんでもない勘違いで死にかけた。まったく、迷惑極まりない話である。
乱暴されたり臓器をバラされなかっただけマシだったのかもしれないが、ありふれた日常でぬくぬくと育った私は痛みとは縁のない生活をしていたワケで。紙で指を切っただけで弱気になるくらいに痛みには弱いし、包丁で指を切りつけてしまった日には痛みとショックで青褪める。そんな微温湯に浸かって生きている人間が、知らない男に頬を張られたら?罵声を浴びせられながら頭を壁に打ち付けられたら?肉体的にも精神的にもショックで悲鳴すら出なかった。何を言われても碌に喋れず、さめざめと泣き続ける私はさぞ不気味に映った事だろう。
軈て耳栓でもしたように彼らの言葉がどんどん聞こえなくなり、気が付いたら意識を失っていた。しかし正に今、その意識が浮上しようとしていた。微弱な振動が身体全体を包み、自身の身体が震えているのかと思ったがどうやら車か何かに乗せられているようだった。
とうとう用済みでバラされるのか、ソープにでも売られるのか。夏油さんと関わったばっかりに、とは不思議と思わなかった。何故なら、彼の手を取ると決めたのは私自身だからである。私はあの時死にたくないから彼を選んだ。それは紛れもない事実で、こればかりは他人の所為にしてはいけない。
乾いて所々罅割れている唇に誰かの指先が触れた。それが口の端に触れた瞬間、刺すような痛みが突き抜け、堪らず私は目を開けた。ぼんやりとした視界が徐々にクリアになって、よく知る人が視界いっぱいに広がり、薄い唇が私の名前を紡いだ。こんなに大きく見開かれた目、初めて見たな。
「げ、とうさん」
生きていて良かった、無事で良かった等と、彼は言わなかった。生きている事は私を助けた時点で解っていただろうし、生きてはいるが無事ではないから。夏油さんはただ静かに額に触れ、「もう少し寝ていなさい」とだけ言った。無理に励ますような事も気休めも言わない夏油さんのこんなところを私は好ましく思う。
もう人身売買の心配をしなくていいし、痛い思いをしなくて済むと思ったら一気に気が緩んだ。ほろりと涙を流して再び目を閉じた私のそれを指の腹が優しく拭う。夏油さんに膝枕をされる日が来るとは、流石の私も想定していなかった。こんな状況でなかったら唯々委縮し寿命の縮まる思いに胃が痛んだであろうが、この時ばかりはこの上ない安堵感だけが私の身体を包み込んでいた。
次に目が覚めた時、私は見覚えのないベッドの上で見知らぬ天井を見上げていた。「具合はどう?」という問いかけに、私は漸く視線を横へとずらしその声の主が居た事に気が付いた。
「身体の節々が痛いですが、生きているだけ御の字ですかね」
「…意外だね。てっきり一発ぶん殴られるのかと思っていたよ」
「助けてくれた恩人に手を上げる程トチ狂っていません」
「……でも元々の原因は私にある」
夏油さんが珍しく落ち込んでいる。両手を前に突き出すとその意図を瞬時に汲み取って立ち上がった夏油さんが首の後ろに手を回してゆっくりと抱き起してくれた。
ここ、夏油さんが滞在しているホテルの一室か。ぼーっとそんな事を考えながら身体のあちこちに貼られたガーゼや湿布、包帯を見る。救出だけでなく治療までしてくれたようだ。
「選んだのは、私ですから」その言葉に夏油さんは三白眼を見開いた。髪と同じ色の黒曜石のような瞳が僅かに揺れた。
「手当て、ありがとうございます」
「…いや。死ぬような怪我ではないけど、足の方は全治三週間だって。勤務先にはもう連絡を入れてあるから当面の間、君の面倒は私が見よう」
「………え?会社、え?三週間って…いやでも悪くて打撲とかじゃ…?」
言われた言葉をひとつひとつ咀嚼するまでに随分時間を要した。着目点があり過ぎて頭が混乱する。勤務先への連絡は本来なら本人がすべき事だし、夏油さんの物言いは既に話が通ってしまっているようなニュアンスだ。人事部がガバガバなのか夏油さんという存在──組織が規格外なのか。…多分後者だ。そして幾ら責任を感じているとしても怪我が治る間面倒を見るという話も飛躍し過ぎている。流石にそこまで世話になったら持たない、私が。面倒を見るというのは建前で私の存在そのものが面倒になったので神経と胃に圧力を掛けてストレス死でも狙われているのではと色々な考えが起き抜けの頭の中を占領した。
「………というか、足?」
「……どうかした?」
「いえ、私、顔や上半身は割と殴る蹴るされましたけど、足を折られた記憶がなくて」
「厳密に言うと右足は骨折ではなくヒビだそうだよ。何処をどう暴行されたかなんて、一々記憶している程余裕があった訳じゃないだろう」
特に君のような一般人はね、と付け加えられた言葉に確かにと頷く一方、今日の夏油さんは饒舌だなあと不思議にも思う。「他に聞きたい事は?」と言われ、私はゆっくりと首を横に振って身体の力を抜いた。支えてくれた夏油さんの腕が下ろされ、再びベッドに身を横たえる。
今後の衣食住はどうなるのかとか、会社の傷病手当はどうなるのかとか本当は聞かなきゃならない事、知りたい事は山ほどあるが、この人相手じゃ私の欲しい答えは半分も期待出来ないだろうから諦めた。ベッドから動けない私は勝手に出ていく事も出来ないし、当面は夏油さんの良いように生きるしかない。
「あのクマ、ちゃんと持ち歩いてくれているようで良かったよ」
何の脈絡もなく言われた言葉に、小首を傾げる。ホワイトデーに貰ったクマのキーホルダーは家の鍵に着けて持ち歩いているが、何故今?鞄から見えて気になったのだろうか。夏油さんの考えている事はよく分からない。
ガッチリ固定されている右足を見て溜息が出る。ただのヒビじゃなくて粉砕とかしていたらどうしよう。きちんと元通りに治るのだろうか。こういう部類の怪我を生憎とした事がなかったのでリハビリまでの事を考えるとどうしても不安が付き纏う。そんな私の心境を汲んでか、夏油さんの大きな手が私の頭を撫でた。
「大丈夫、綺麗に治るよ」
「そうだと、いいのですが」
私が瘢痕や後遺症が残るような怪我を君に負わせる訳ないじゃないか、とにこりと微笑む顔の下で夏油さんがそんな事を考えていたのを私は知る由もなかった。