指定された時間の十五分前。某外資系ホテルを見上げながら私は胃がキリキリと悲鳴を上げているのを感じていた。はあ、と大きな溜息と共に目線を下げると関節が小気味好い音を立てた。もしや今日ではないかも…そもそも連絡自体私の妄想なのではと現実逃避染みた期待を寄せても、握り締めているスマホの画面には夏油さんから送られてきた文章が容赦なく残酷な現実を突きつけてくる。マフィアのボスの連絡先が何で私のような一般市民のスマホに登録されているのか。それを考えるだけで軽く数回は失神できる。

生きている限りは誰しもいつか必ず訪れる“死”というモノは夏油さんが絡むだけでより身近に、背後霊のように纏わりついてくる。出来れば老衰でこの世を去りたいと願っている私にとって夏油さんは正に疫病神の一種だ。否、死神。二十代前半で死ぬなんて嫌だ。まだ結婚どころか彼氏も居ないのに。
あらゆる死の可能性を回避する為にすべき事は夏油さんを怒らせないようにしつつ適度な距離を保つ事。近付きすぎても流れ弾に被弾するからダメだし、遠すぎると彼の反感を買う。こちらから一切連絡は取らないが向こうから連絡が来た場合にはきちんと応じる。既読無視は=死だ。ブロックもまた然り。

実は三十分前には此処に着いていた。間違っても遅刻する訳には行かないから。万が一遅刻でもしたら最低でも半殺しは覚悟しなければならない。ヤクザは指詰めって言ったりするけど、マフィアはどうなんだろう。リアルロシアンルーレットをソロでやらされたりするのか。嫌だ怖い。深刻な顔でそんな事を延々と考えていたらあっという間に十五分も無駄にしてしまい、これ以上は本当に命の危険が伴うので腹を括ってエントランスに足を踏み入れた。
入ってすぐに二人のスーツ姿の男性に声を掛けられた。「あ、夏油さんの」と口にすると神妙な顔のまま頷かれ、そのままエレベーターまで案内される。平日だというのにエントランスはそれなりに人が行き交っており、すれ違う人の纏うオーラに気圧される。場違い感が凄い。
幸いエレベーターを待っている人は居らず、程なくして開いたそれにそわそわとしながらも乗り込むと部下の人がカードキーを翳し、ゆっくりと上昇していく。それに比例して私の心拍数もどんどん上がっていき、緊張から呼吸が苦しい。一体何階まで行くつもりなんだと恨めしい念を送っていると最上階で停まったものだから目を見開いた。
まさかとは思っていたが、やっぱり今回の宿泊もスイートルームだった。夏油さんは基本的には都内のホテルを転々としているらしい。この際誰にとは敢えて言わないが住居がバレないように、というのが主な理由らしいのだが毎回ホテル代だけでどれだけのお金を支払っているのか庶民の私には想像する事すら難しい。

「ボス、お連れしました」

「嗚呼、ありがとう」

コンコンとノックが二つ。逃げられないようにか、男性二人に挟まれながら部屋の中から返ってきた聞き慣れた声にゆっくりと深呼吸をした。開けられたドアの先、「や、態々すまなかったね」と柔らかい声が私を出迎えた。部屋に立ち入ったのは私だけで振り返る間もなくドアが閉まり一瞬の静寂が訪れる。

「コーヒーでいいかい?」

いつもと変わらずにこやかに笑う夏油さんに私は小さく頷いた。紅茶に変更くらいなら出来るであろうが、要らないという選択肢は恐らく彼の中で用意されていない。
彼の目線に従ってソファの上にゆっくりと腰を下ろす。流石スイートルームとその座り心地にひとり感動していると目の前に湯気の立つコーヒーカップが置かれた。

「ありがとうございます」

「砂糖はひとつ?」

「はい」

真っ黒な液体に飲み込まれていく真っ白な砂糖の塊。小さな渦をスプーンで作ってカップに口を付けると豆の良い香りが鼻孔を擽った。少しだけ落ち着きを取り戻した私にタイミングを見計らったかのように一つの箱が差し出される。危なく動揺でコーヒーを零すところだった。何度も同じミスをする訳にもいかない。一体何が入っているのだろう。
危ないお薬か本当にソロロシアンでもさせようって気なのか。内心恐々としている私を見つめる夏油さんの目が優しく細まる。

「ハッピーホワイトデー」

「え、……え?」

「お返し。もしかして忘れてた?」

夏油さんの口から飛び出した予想だにしない言葉に口を半開きにして驚く私の耳にクスクスと笑い声が通り抜ける。もしかして、今日私が呼び出された理由はこれか。いやそれにしても──

「ブラックサンダーひとつのお返しにしては、分不相応な気が…」

「気持ちだからね。…受け取っては貰えないかな?」

「あ、ありがとうございます」

二度目の遠慮はしてはいけない。私の直感は正しかったようで夏油さんは機嫌が良さそうに長い足を組んだ。
本来ならば貰ったものを目の前でどうこうするのは憚られるのだが、何となく視線を感じたので「開けてもいいですか?」と空気を読んで聞いてみると待ってましたと言わんばかりに頷かれたものだから、私はこくりと生唾を呑んで茶色のリボンに手を掛ける。しゅるりと解いたそれをテーブルの上に置き、破かないように慎重に包装紙を剥いでいく。現れたシンプルなBOXを開けると私はパッと顔を輝かせた。

「クマさん…!」

「うん。ふふ、そうだね」

何かがツボに入ったらしく、口元を押さえて笑いをかみ殺す夏油さんは肩が少し震えていた。
夏油さんからのお返しはティーセットだった。私としては「オマケ」ポジションであろう真っ白な毛並みが美しいクマのキーホルダーに心惹かれてしまって目が離せない。手のひらサイズのそれは首元に花柄のチャームが付いていて、片足の裏にはイタリアの国旗が描かれている。「気に入った?」その問いかけに何度も頷けばふふ、とまた小さな笑い声が上がった。子どもみたいに燥ぐ私が余程面白く映ったらしい。

「どちらがオマケか分からないね」

「紅茶もとても嬉しいです。大事に飲みます!」

「“クマさん”は君のお供になってくれそうかい?」

「勿論です。真っ白だからなるべく汚れない物に付けないとですね」

「…そうだね。でも出来れば、君が普段持ち歩く物に付けて欲しいかな」

長い指先が私の髪に優しく絡まる。いつもならこの距離の近さは死活問題ではあるが、可愛いものを貰って嬉しさ大爆発中の私は「分かりました」と素直に頷きながらパーソナルスペースへの侵入を呆気なく許してしまっている。我ながら現金なものだ。
普段持ち歩く物なら家の鍵に付けるのが一番だろう。この大きさならバッグの中でもすぐに見つけられるしちょうど良い。そんな事を思案していると頬に柔らかな感触と熱を感じた。ふんわりと香水の良い香りがする。「君は隙だらけで可愛いね」ふう、とワザと耳に吹きかけられた熱の籠った吐息に私は盛大に悲鳴を上げて身体を震わせた。
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