「お、いたいた」

「五条さん…?」

正に帰宅しようとしていた時だった。
呼ばれた名前に反射的に振り返ると片手を挙げて五条さんが大股でこちらに向かって歩いてくるところだった。相変わらずのすらっとした長い美脚はあっという間に私と彼の物理的距離を埋めてしまう。
急いでいるようには見えないが、態々高専内で声を掛けてくるのも珍しい。大抵は事前に連絡が…と思ってポケットのスマホを何の気なしに見ると不在三件、未読メッセージ五件。バツが悪そうに五条さんを見上げた私を咎める様子はなく、アイマスク越しに目が合ったと思ったら徐にそれをぐいと上げて露出した片目とバッチリ目が合う。──心臓に悪いから急に素顔を見せないで欲しい。
内心ドキリとしながらも努めて平静を装いながら「五条さん?」ともう一度彼の名前を呼ぶ。「んー」と顎に手を当てながらこてんと首が横に傾いた。その動作に合わせて眩しい程綺麗な白髪がふんわりと揺れる。

「リップ変えた?」

「…よく気付きましたね。五条さんで二人目です」

「は?」

急に低くなった声のトーンに思わず後退るとひんやりと冷たい壁の感触が背に広がった。失言だったと気付くも既に遅い。
「その一人目って誰?」と私の顔の真横に片手を置いて退路を断ちながら緩やかな尋問が始まってしまった。しかしその不穏な空気に呑まれないのは一人目が五条さんのよく知る人物だからである。

「野薔薇ちゃんですよ」

「ああ、野薔薇ね。なら納得」

一瞬にして消滅した空気とムッとした拗ね顔に思わず笑ってしまった。同性なら兎も角、異性が化粧の変化に気付くのは中々だ。あれ、何か違うなと思っても具体的に何かどう違うのかまでを言い当てられる人もそうは居ない。素直にそれを述べると五条さんはニッと口角を上げた。

「恋人なんだから当ったり前じゃん」

「そういうものですか」

「そういうもんです」

聞き慣れない敬語にまた笑ってしまうとぐっと距離が近くなった。「似合ってるよ。かわいい」あ、と思った時には既に壁に触れていた手が後頭部を押さえ唇が触れ合っていた。足の間に五条さんの膝が割り入れられて逃げ場がない。
「んん!」と抗議の意味を込めてくぐもり声を出してみたがちっとも響いていない。それどころかリップ音と共に角度を変えてぬるりと熱を持った舌先が隙を突いて侵入してきた。
人気がなくても此処は高専だ。いつ誰が通りかかるか分からない。全く言い訳が出来ないこの状況は非常に良くなかった。なのに五条さんは私の焦りを知っていて止めるつもりはないようで、密着した身体を押し退けようとしてもビクともしない。
歯列をなぞっていた舌が上顎を舐め上げるとびりびりと背筋に甘い痺れが走った。びくりと震えた身体と抜けた力に気付いた五条さんがくつりと喉を鳴らした。顔が異常に熱い。キスひとつでこんなに乱されるなんて自分でもチョロ過ぎると呆れる。

「こ、こんなところで…!」

「うん。だから続きは家でね」

呆気らかんと言い放った五条さんの艶やかな唇は私のリップの色が移ってしまったようで、コーラルピンクとラメでより一層卑猥なものに見えてしまう。色付いた舌がそれを舐め取る様は直視できない。
よいしょ、と軽い掛け声と共に腹に腕が回され、あっという間に抱えられた私は次の瞬間見知った部屋に居た。皮張りのソファに当たり前のように下ろされ、履いていたパンプスと自身の靴を持ちながら玄関へと向かう五条さんの背を呆然と見つめる。ものの数秒で戻って来た五条さんが私の隣に腰を下ろすと重みで少しだけソファが沈んだ。

「ようこそ我が家へ」

「術式の無駄遣い…」

「で、本題なんだけどさ」

ホワイトデー何が欲しい?と言われて、今日が三月十四日である事を思い出した。当日に本人を目の前に何を言っているんだと思うかもしれないが、私は寧ろ成長を感じてしまい感動のあまり涙が出そうだった。
五条さんには散々育ってきた環境の違いを見せつけられてきた。御三家の経済力を舐めてはいけない。“お返し”の範疇を大幅に超えてウン十万円のアクセサリーやバッグをケロッとした顔で渡してきたり、コレで何でも買っていいからとブラックカードを差し出してきた事もある。金銭感覚の違いとは本当に恐ろしいものだ。
そんな彼の口から「何が欲しい?」だなんて──口を酸っぱくして言い続けてきた甲斐があった。

「…五条さんの作ったビーフシチューが食べたいです。牛タン入りのやつ」

「はあ?それマジで言ってる?」

「はい」

「君が望むならお気に入りのブティック店ごと買い取ってもいいし何処にでも連れてってあげるし、欲しいなら家も買うし、何なら婚姻届けに今すぐサインしてもいいよ?」

「ビーフシチューを作ってください」

「君って中々強情だよね」

結局五条さんの頭の中では私には理解出来そうにない彼なりのホワイトデーのお返し案が渦巻いている事が解ってしまったが、それを聞いても尚私の望みは変わらない。
ゆっくりと隣に座る五条さんに凭れ掛かって肩に頭を寄せるとその上に五条さんの頭が乗る。ふんわりと鼻孔を擽る香水と体温はこれ以上ない安心と幸福を私に齎した。多忙な彼と一緒の時間を過ごせる事が何より私は嬉しい。お金では絶対に買えない。

「もうちょっとしたら一緒に買い物行こっか」

「はい」

「夜は沢山甘やかしてあげる」

「……それはいつもじゃないですか」

「うん。だって好きだからね」

本当は何処にも行かせずにずーっと甘やかしてあげたいくらい君が好きだよ、と続けられた言葉にひくりと喉が引き攣る。冗談なのか本気なのか分からない言葉の真意は自分の身の安全の為に追及はしなかった。
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