自分が犯した過ちについて死ぬ程後悔をしたのは後にも先にもこの件だけだ。

目を覚ましてまず感じたのは脳内をズキズキと蝕む鈍痛だった。まるで心臓が脳に移動してしまったかのように痛みを伴って脈打っている。…当分お酒は控えよう。身に覚えのある症状に私は何度そう思ったか分からないくらいまた同じ事を決意する。飲酒に関しては私の学習能力は限りなくゼロに近い。
今何時か確認しようとして、私はとんでもない事に気が付く。──此処はどこだ。血の気が引くとは正にこの事。一瞬にして冷えた頬の感覚と震え出す指先に私は浅い呼吸を繰り返しながらゆっくりと身体を起こす。ずきりと内臓が痛みを訴え、反射的に身体を丸めると腰と太腿の内側にも痛みが走った。
酔っぱらって転んだとか階段から落ちただとか、そんな理由ならまだ良かった。けれど私は自分が一糸纏わぬ姿である事、見覚えのない大きなベッドの端っこの人間一人分の盛り上がりを見て叫びそうになるのを口を押えて何とか留めた。「嘘でしょ…」押さえた口の隙間から絶望の色に染まった音が零れた。

「んん、」

もぞりと動いた大きな塊から漏れ出た声に大袈裟なまでに肩が跳ねた。飛び出すんじゃないかと心配になる程心臓が煩い。その声も身じろいだ拍子にシーツから現れた色素の薄い髪にも覚えはない。シーツに包まっている彼が知人友人でないのが確定した瞬間である。とんでもない事をしてしまった。私は二度目の絶望を味わう。全く面識のない人と一夜を共にしてしまったのか。人間、本当に驚いたりショックを受けたりすると思考どころか身動きすら正常に取れなくなるという事を今日初めて知った。
ベッドの上に呆然と座り込んでから何分経過したのだろう。
冷静だったら、素早く身なりを整えて相手を起こすなり書置きを残すなり出来ていた筈だ。私はそのどれも出来ていない。ただ曝け出したままの身体を隠すようにシーツを手繰り寄せただけで、瞬きすら忘れてその塊を口を半開きにして見つめ続けている。
ぺたんと折り畳んだままの足が痺れを訴えてきた頃漸く、私は此処から出ていかなければと思えた。急に焦り出したとも言える。この人が起きた時相手が、将又自分がどういう行動をするのか全く想像がつかなかったからである。どの道見知らぬこの人とは二度と会うつもりはないし、そういうオトモダチが欲しかった訳でもない。
シラフで顔を合わせる前に消え失せた方が安全だという結論に達した。ゴミ箱を確認したけど、きちんと避妊はしていたようだし。うん、絶対に逃げた方が良い。危ない人かもしれない。でも逆に相手が未成年だったら?──これが一番厄介だった。あれ、私捕まるのか?鈍器で頭を殴られたような衝撃に震えているとくすりと笑い声が耳を掠めた。「ひっ」と引き攣った声が己の口から零れた。

「どうしたの?百面相なんかして」

「…あ、えと、…あの」

「おはよ。よく眠れた?」

「は、い」

良かった未成年ではなかった…などと、手放しで喜べる状況ではなかった。いつの間にかワンナイトの相手が起きていた。一体どんな人物かと思ったが、芸能人でもこんなに顔の整った人はそうそう居はしないように思う。
日本人離れした色素の薄い髪と同じ色の長い睫毛、それに縁取られた宝石のように輝くアクアマリンの瞳。言葉を紡ぐ度に形を変える唇がどうしようもないくらい艶やかで心臓が軋む。──こんなに綺麗な人を私は見た事がない。
足の痺れと動揺から身体が上手く動かず、ぐらりと後ろに倒れる。あ、落ちるかもと痛みを覚悟したところで腕に不自然な圧迫感を覚え反対方向にぐっと引っ張られた。剥き出しの背中が冷えたベッドに沈んでいる。そしてそんな私を見下ろす美しい人。
「大丈夫?」と言いながら骨ばった指先が労わるように私の頬を滑り、乱れた髪を優しく梳く。

「へ、平気、です。すみません…」

「身体は?昨日は僕も自制が効かなくて結構無理させちゃったからね」

「……きのう、……昨日」

「あれ、もしかして覚えてない?僕の名前も?」

漸く私との会話が噛み合っていない事に気が付いたのか、彼がこてんと首を傾げた。お人形みたいにパーツのひとつひとつが整い過ぎていて目の毒だ。
「五条悟」私の名前を当たり前のように呼んだ彼はさらりと自分の名前を告げた。五条さん。囁くようにそう呼ぶと何故だかしっくりきた。
うーんと唸りながらふいにサイドテーブルに置かれたサングラスに目が行った。それを見て断片的に記憶が蘇る。確かこれ、五条さんがかけていたものだ。昨日バーで一人で飲んでいて、隣に座ったのが五条さんで──。何の話をしたのか、何がキッカケで話をしたのか、どうしてこうなったのか。肝心な事はすっぽ抜けていていい加減己のポンコツさに腹が立ってきた。

「…ま、いいか。お互いちゃんとした大人だしね」

「はい、あの…私は支度があるので気にせず先に出て行ってくださって大丈夫です」

「え?なんで?」

「え?」

お互いちゃんとした大人だから割り切りましょうって話じゃないのか。きっと私も真上に居る五条さんのように心底訳が分からないという表情をしていると思う。
「これから一緒に暮らすのに?」とんでもない発言に目の前がチカチカとした。

「何て?」

「仕事が嫌って昨日言ってたでしょ。だから養ってあげるよって、」

「ええ?!い、いや、百歩譲ってそんな話をしたとしても、酔っ払いの戯言ですよね?!」

「僕は下戸だからシラフだったよ」

「じゃあ尚更聞き流していい話だって解りますよね?!そんな突拍子もない、」

人は見かけで判断してはならないという言葉が今更身に染みた。どうしようこの人中身がヤバい人だ。
絶句している私を置いてけぼりにしたまま、彼は君ひとりくらい余裕で養えるくらいの稼ぎがあるから安心して、だの、だからそんなクソみたいな職場今すぐ辞めちゃいな、挙句の果てにはもしかしてヤリ逃げする気だったの?なんて好き勝手喋っている。
どこから訂正していけばいいのか解らない。情報過多で私の頭はすっかりショートしてしまっていた。剥き出しの肩を包み込むように触れる大きな手が何だか恐ろしく思えて身を竦ませる。優しく緩んでいる目元と口元を見てもちっとも安心出来ない。

「大丈夫、もう嫌な思いなんてしなくていいようにちゃんと僕が守ってあげるから」

カサついた唇に容赦なく重ねられた唇は私の意思を確かに奪うものだった。
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