「早く辞めてしまえばいいのに」

酷く軽い口調で放たれたその言葉は私にとってそんなにあっさりと済ませられるものではなかった。
感情の波が手に持つコーヒーカップに表れ、黒い液体が零れんばかりに揺れた。少し先で頬杖をついて私を見つめる夏油さんはそれに気づきながらも敢えて指摘はしてこない。

「…社会的な居場所を失うのは、こわいです」

「もう戻れないところまで来ているのに?」

今度は動揺を露わにした。心臓を突き刺すような鋭利な言葉に手が震えてしまった所為でそれに耐え切れずコーヒーがカップから逃げ出した。「あっ、」人差し指と中指にモロに掛かってしまったそれを自分でどうにかするより早く手首ごと掴まれ息を呑む。
「大丈夫?」気配を消して近寄ってくるのはこの人の癖でもあるのだろうが、未だに私は慣れない。カチャリと抜き取られたコーヒーカップが夏油さんの手によって定位置に戻された。こくりと頷いた私を横目に夏油さんはスーツのポケットからハンカチを取り出して私の指に宛がう。

「痕が残ったら大変だ、冷やすものを持ってくるよ」

「いえ、温かったので大丈夫です。痛みもないし」

それよりもカーペットを汚してすみません、と謝罪を口にすると夏油さんはそんな事、とでも言いたげに緩く頭を振った。
砂糖はそんなに入れていなかったのでベタつきもなく、ヒリヒリと引き攣った感じもない。しかし私よりも一回り以上大きな手のひらが壊れ物に触れるみたいに優しく指先をなぞるものだから、私は気が気でない。

「すまないね。少し意地悪をしてしまった」

「働き続けたいとワガママを言ったのは私ですから。なので、その。倒産した、とかやむを得ない理由がない限りはこのままでいたいのですが…」

「……そうなったら働きに出るのは諦めるという事だね?」

「えっと、はい」

一体何の確認なのだろう。少しの間を置いて問われた言葉を疑問に思いながらも、私はそれを肯定する。マフィアである夏油さんのお世話になっている身の上なのに、今の会社を退職した後に素知らぬ顔で転職活動に励めるほど私の神経は太くはない。
私の指に触れるのに飽きたのか、夏油さんはあっさりと手を離して踵を返した。程なくして戻ってきた夏油さんのその手にはタブレットサイズくらいの箱がひとつ。某有名ショコラティエの店名が浮かぶ箱を目の前に私は一瞬思考が停止する。
彼の手によって開けられたそこには色とりどりのチョコレートが鎮座していた。食べるのが勿体無いくらい、チョコレートの一粒一粒がうつくしい。

「…頂いてもいいんですか?」

「貰いものなんだけどね」

一粒五百円はする高級品に眩暈がする。恐る恐る真ん中の真っ赤なハート形のチョコを口に含むととろりとしたラズベリーソースと濃厚なチョコレートが咥内に溢れ、一瞬で幸せな気分で満たされる。
OLの薄給ではこんな贅沢はそうそう出来はしない。このまま幸福な気持ちでいたいので夏油さんにこのチョコレートを贈った人が綺麗なお金で購入している事を切に願う。

「…海外ではね、男性から女性にプレゼントを贈るのが主流なんだよ」

「へえ、そうなんですか」

「まあ此処は日本なんだけどね」

「………」

含みのある言い方に、私は動きを止めた。夏油さんが言わんとしている事を理解出来ていない訳ではない。が、目の前の高級チョコレートに匹敵する品を私は所持していない。
無言でチョコの箱をテーブルに置き、傍らのバッグをごそごそと漁りながらまるでロシアンルーレットでもさせられている気分になる。これ、下手したら射殺ものでは?浮かんだ薄ら寒い思考を頭の隅に追いやり、目当てのものをそっと夏油さんに差し出した。

「お納めください」

ぱちりと瞬きひとつして夏油さんは己の手のひらに置かれたブラックサンダーを見てくつくつ喉を震わせて笑った。
「本当に、君と居ると飽きなくて良いね」と褒めているのか貶しているのか分からない言葉が添えられる。

「それで、これは“不特定多数”にあげたうちの一つなのかな?」

「?自分用に買ったものですが」

「そう。なら良かった」

余計な血を流さずに済んで、と突然飛び出した不穏な一言に背筋がピンと張った。一瞬失言をしたのかと目が泳いだが、夏油さんはどこか機嫌が良さそうで聞き間違いでもしたのかと小さく首を傾げる。しかし次の瞬間発せられた「うん、体調に変化もなさそうだし何も入っていなかったようだね」と顎に手を当てながら落された爆弾に細やかな違和感は余韻も残さずに吹き飛んだ。
ひくりと口の端が引き攣る。こんなに何の躊躇いもなくスマートに毒見させる人間なんて、この人しか知らない。綺麗なお金云々の話どころではなかった。
さあ、と顔を青褪めさせた私をうっとりと見つめる夏油さんはやっぱりイカれている。
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