「じゃ、僕たちここで失礼させてもらうね」

長財布から皺ひとつない一万円札を取り出して五条悟はそれをテーブルの上に置いた。ざわついたのはそれだけが原因ではない事は特に、異性の反応を見れば一目瞭然だった。
無地の黒いタートルネックから覗く艶やかな唇、無造作に下ろされた白髪とサングラスから時折垣間見えるアイスブルーの瞳。白いスキニーパンツは彼のスタイルの良さを惜しみなく全面に押し出し、同性から見ても文句の付け所がなかった。
「ね、彼氏っ?!」興奮気味に唯一自由になっていた片手を久しぶりに再会した学生時代の友人に揺らされる。今日は貴重な休みの筈だ。なのに何故仕事仲間とこんなところで顔を合わせなければならないんだ。しかも偶然などではなく冒頭の言葉からも分かるように意図的、悪質の一言に尽きる。申し訳ないが彼女の好奇心が滲み出た問いかけに答える気力が今の私にはない。「ご想像にお任せしま〜す」語尾にハートマークでも付きそうなくらいおちゃらけた返事を私の代わりにした五条さんは、許可もなく私の荷物を引っ掴むと先程から掴んでいる私の腕を遠慮のない力で引き上げた。心地良い酔いも一気に吹き飛ぶ。

「さ、帰ろっか」

死んだ目をしている私を誰一人として気に掛けようとしないのは、すべての視線をこの男が掻っ攫っているからに他ならない。あれよあれよという間にコートを着せられ、彼らに一瞥も呉れる事無く店を後にした。その間に会話は一切なかった。
今日の同窓会という名の飲み会は仕事関係者には話していなかった。一体どこから嗅ぎつけたのか、本当に侮れない男だと胸中思う。凍えるような夜風が頬を撫で上げた次の瞬間には私は五条さんと共に宙に浮いていた。三秒前まで麻布に居たというのに、真横で爛々と赤い光を零すこの建物は紛れもなく東京タワーだった。
「ヒエッ!」情けない声と共に心臓が急速に脈打ち、寒さだけではない要因で足先から熱が逃げていく。片腕だけ掴まれているこの状況は、高所恐怖症である私にとって拷問以外の何物でもない。そして五条悟はそれを知っている。
眩暈がする。びゅう、と強い口調で風が声を荒げ、その風圧が私の恐怖心を一層煽った。限界はすぐに訪れた。目に薄い膜を張りながらガタガタと身体を震わせ、この状況下を作った原因でもあり、脱する術を唯一持つ五条さんの首に必死で縋り付いた。くつくつと喉を震わせて彼は嬉しそうに嗤う。

「地上に立ってる時もこのくらい素直で可愛げがあったらいいのに」

「……ひっ…ぅ」

「泣いてんの?でもこれお仕置きも兼ねてるから、もう少し我慢ね」

恐怖に支配された私は力加減なんて出来る筈もなく、殺す気だと疑われても仕方のないくらいがっしりと五条さんの首に抱き着いている。それなのに、当の本人は飄々とした姿勢を崩そうともせず私の背中に応えるように腕を回している始末だ。
眼下に広がる暗闇も、立っている感覚のない足先も、時折私たちを通り抜ける夜風も、すべてが恐ろしい。ぐず、と鼻を啜り止め処なく流れる涙がタートルネックに零れ落ちても五条さんは意に介する様子はなかった。
「それで、楽しかった?」耳元を掠めた冷えた声色に肩が強張った。この状況を愉しんでいるだけではないと、早急に気が付くべきだった。先ず何よりも先に謝罪を述べるべきだった。何と答えるべきかあらゆる言葉が一秒間の間に流れ星のような速さで脳内を駆け巡った。
「ごめ、ごめな、さい…ッ」結局上手く取り繕う事も出来ずに、何度も私は同じ言葉を繰り返した。これじゃあ僕が虐めているみたいじゃないかと五条さんが嗤う。思考が正常に機能していたらその通りだと軽口のひとつやふたつ返せていただろう。へらへら笑うそのご尊顔に触れられないと解っていても拳を振り下ろしていたかもしれない。

「じゃ、最後に百メートルくらい一緒にバンジーしよっか」

勿論命綱はなしねと付け加えられた言葉と、殺す気はないという確かな意思。けれど私にとってそれは最早問題ではなかった。
内臓が持ち上げられる感覚、呼吸すら儘ならない程の圧、心臓の軋む音。脳裏を過る身体に刻まれた嫌な記憶に聞き分けのない子どものように頭を振る。

「も…っ、行ったり、しないからぁ」

五条悟は彼氏ではない。家柄も申し分なく、容姿にも恵まれ、その気になればどんな女だって落とせる。なのに何故か彼は何一つ彼に並ぶような要素を持ち合わせない私という人間に随分前から執着を見せている。それは宛らお気に入りのオモチャを取られないよう威嚇する子どものようでもあった。
縋り付いていた身体を無理矢理起こされいつの間にかサングラスを取って曝け出されていたこちらを見下ろす瞳と目が合う。ゆるりと満足げに歪められたそのうつくしい瞳に涙の線を幾つも刻んだ情けない自分の顔が映っている。そして瞬きの間、私は五条さんと共に見慣れた部屋に居た──紛れもなく、私の家のリビングだった。
ずるずると力なくその場にしゃがみ込んだ私に合わせて、五条さんもゆっくりと片膝をつく。身体を突き破って出てくるのではないかと心配になる程、心臓が騒がしい。色々な感情が混ざり合って収拾がつかなくなり、またさめざめと泣き出した私を鬱陶しがる事無く、五条さんは出しっぱなしにしていた保湿ティッシュで目元を優しく拭う。私が大人しくされるがままなのを良い事に、五条さんは序と言わんばかりに化粧落としのシートを引き抜いて頼んでもいないのに僅かに残っている化粧を拭き取った。

「はいはい、もう泣かないの」

「一体、誰のせいだと…」

「そりゃ勿論、僕の所為でしょ」

すっかり血の気の失せた頬に長い指先を滑らせながら、恍惚とした表情で五条さんが肯定する。お互いの呼吸音が聞き取れてしまう程近くまで顔が寄せられる。

「僕はさ、意外と強欲だから。──誰かに横から掻っ攫われるのとか、我慢できねえの」

昔を思い起こさせるような口調の変化にひゅ、と息を呑む。わかる?と至近距離で見つめてくる冷えた瞳が今は何よりも怖い。これ以上彼の機嫌を損ねないよう、壊れた人形のように何度も頷いた私をうっそりと見つめ、五条さんは私の唇に容赦なく噛み付いた。
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