「い…っ」

ぴり、と唇に小さな痛みが走った。反射的に指でそこを押さえると薄ら血が滲んでいる。残暑も過ぎ去り、季節は秋に入ろうとしている。私はこの時期の乾燥に滅法弱い。唇の切れから始まり、乾燥肌という厄介な特性を持っているので全身に不調が現れる。嫌な季節だ。
仕分けていたプリントを一度テーブルに置き、鞄からリップクリームを取り出す。我が校は規則にとても厳しいので可愛いデザインや流行りの香りものは所持出来ず、有名メーカーのシンプルな無香料のものだ。
ついでにティッシュで押さえて軽く止血してから付けようとポケットティシュを掴む手が伸びてきた手に捕まえられる。あまりの予想外の出来事に手からポケットティッシュが零れ落ちた。

「血、出てるね」

「は、はい…」

取り敢えず問い掛けに対して返事をする事に精一杯で、上擦った声が出た。驚きで飛び出しそうなくらい心臓が音を立てている。
先程まで椅子に座って出席簿に目を通していた人物が突然目の前に移動していたら誰だって驚く筈だ。ただの一般人相手に気配を消して近寄ってくるのは止めていただきたい。が、それを言う度胸を生憎と持ち合わせてはいなかった。私だって命は惜しい。
雲雀さんの片膝が革張りのソファに沈む。座ったまま微動だに出来ない私は宛ら、蛇に睨まれた蛙だ。
ゆっくりと伸ばされる手の意図が分からず、本能のまま逃れようと身体を後ろへとずらすが、背凭れの所為で限界は早い。私を見下ろす雲雀さんの浮かべる笑みに背筋が凍る。

「い、委員長…何を」

「黙って」

唇に爪を立てられたのはそのすぐ後だった。恐らく切れた患部に爪が突き立てられている。私は勿論それを見る事は出来ないが、想像しただけで恐ろしい。ぞわ、と鳥肌が立つ。じくじくと痛み出した唇に涙で視界が滲む。ギラギラとそれを見下ろす切れ長の瞳が邪魔をするなと威嚇する所為で悲鳴ひとつ上げられない。
軈て唇から離れた親指の爪先に着いた赤いものを視界の隅で捉えて目眩がした。取り敢えず悲惨な事になっているであろう唇を一刻も早くケアしてあげたいのだが、雲雀さんはまだ満足していないのか退いてくれないので私も動けない。
ひょいと私の手からリップクリームが抜き取られ、それを繁々と眺める彼の意図がまったく読めないが返せなんて言う度胸もない。手の中でそれを弄びながら、雲雀さんは口を中途半端に開けて呆けた顔をする私を可笑しそうに見下ろした。

べろり、と赤い舌先が私の唇を這う感覚に卒倒しそうになった。犬に戯れられているのとは訳が違う。何考えてるんだこの人は。「甘いね」と目をうっとりと細めて笑うその人はゾッとするくらい美しかった。
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