キスにほど近い出来事


「あれ、そういえばお仕事だったのでは?」

エレベーターを降りて、部屋までの道すがら名前は思い出したように己の手を引きながらゆったりとした足取りで前を歩く五条の背に問いかけた。長身に見合わないそのスピードは足元が覚束無い名前に合わせてくれているからだろう。ふわふわと動きに合わせて揺れる白髪が蒲公英の綿毛のような柔さを連想させて、突発的な触れたい衝動に駆られるのは彼女の中で今も尚猛威を振るうアルコールの所為か。
振り返った五条とサングラス越しに目が合う。きゅう、と手を握る力を少しだけ強めて彼は不敵に笑った。

「そんなのソッコー終わらせたに決まってんじゃん」

僕を誰だと思ってんの?僕だよ

正確な時間は何とも言えないが、五条が席を外してから戻ってくるまで体感で30分以上1時間未満くらいだったように思う。移動時間を加味してもこんな短時間でどうにかなるような任務を態々休みを取っている人間に宛がうとは考えにくい。五条でしか扱えない案件か、彼が言うように(通常ならすぐに終わるはずのない任務を)速攻終わらせてきたのか…どちらもあり得ると思ってしまうのは五条悟が自他共に認める最強呪術師だからに他ならない。
込み上げてきた欠伸を噛み殺しながら、態々戻ってきて部屋まで送ってくれるなんて意外と律儀な人なんだなあと呑気に思っていた名前は五条が怒っている事をすっかり失念していた。彼がそれを消化せずに未だ胸のうちで燻ぶらせ続けている事を、指先から伝わるぬくもりに誤魔化されて油断しきっていた。

名前から預かったままのカードキーを彼は迷う事無くドアノブの上にあるセンサーへと翳す。緑色のランプが一瞬点灯して何の抵抗もなく開いたドア。「送って頂きありがとうございました。それじゃあ──」離れるべき筈の手は、ここにきてとんでもない拘束力を発揮する。手を繋がれてから初めて容赦ない力で引っ張られた。不自然に言葉を途切れさせて、名前は部屋に入ってすぐの壁に背を打ち付けて思わず咳き込む。
「ごじょう、さん?」滲む視界の先、後ろ手でドアを閉め、ロックの掛かった小さな音をBGMに彼が一歩足を進める。名前、とワントーン低い声が鼓膜を震わせ伸ばされた手が顔の輪郭をなぞるように触れたかと思うと、顎を掴んで強引に顔を上げさせた。
ズラされたサングラスから覗く瞳が獰猛な色を宿し、熱に浮かされた彼女の瞳を見下ろしている。

「まだ話は終わってないよ。ひとつもね」

「お、怒って…?」

「そりゃ勿論。どのくらいかって言うと、今すぐここで君をブチ犯してやろうかと思ってるくらいには、ね」

するりとワンピースの裾をたくし上げて太腿に骨ばった指を這わせると大袈裟なまでに名前の肩が揺れた。ストッキングのつるりとした感触も悪くはないと思っていると程なくして指先が異物に触れる。彼女らしいとククッと喉の奥で笑いながら五条は指先に当たったホルスターを躊躇なく外した。ごとりと無機質な音が響き、屈んだ五条との距離の近さに名前は指一本たりとも動かせない。
彼女の足元へと手を伸ばした彼は手慣れた様子でパチンとパンプスのストラップを外し、上体を起こしながら彼女を器用に抱え上げた。空気を揺るがす怒気と急な視界の変化で気が動転したのか名前は上擦った声を上げる。

「ご、ごめん、なさい」

「ふふ。お酒の所為かな?食べちゃいたいくらい素直で可愛いね」

「五条さん…」

「言い訳はあっちで聞いてあげる」

何とか逃れようとアルコールで碌に言う事を聞かない身体で僅かな抵抗を見せた彼女に牽制の意を込めて耳朶に歯を立てると「ひっ」と息を呑んでそれっきり大人しくなってしまった。
備え付けの冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを一本引っ掴み、五条は夜景を一望出来る大きな出窓に足を投げ出して座り、太腿の上に名前を下ろした。片腕を腰に巻き付けてしまえばもう彼女は逃げられない。

「はい、お水」

「ありがとう、ございます」

ぱき、と軽い音を立ててキャップが開栓され、ペットボトルが差し出された。喉の渇きを覚えてはいたので彼女は大人しくそれに口をつける。こくりと嚥下する白い喉元を五条は何も言わずに見つめている。
冷えた水が喉を通り過ぎ胃の辺りに回ったのを感じながら名前はキャップを握るその手にそれを返した。蓋を閉める大きな手をぼんやりと見つめながら無意識に己の頬に触れるとペットボトルを持っていた所為か異様に熱く感じる。鈍る思考は相変わらずで油断したら瞼が下りてしまいそうだ。しかしそれを彼は許さない。ペットボトルと己のサングラスも一緒に傍らに置いて遮るものが何もなくなった瞳を名前へと向けた。

「そこに居てって僕言ったよね?」

「頷いた覚えはありませんが」

チッと舌を打つ不穏な音が聞こえ、名前は困ったように目線を下げる。
普段の彼女なら貴方にそんな事を言われるような気安い関係ではないだろうと突っ撥ねていた。しかし正常に物事を判断・処理が出来ない今彼女は至近距離で見つめてくる瞳に気圧されるがままだ。全面的に責められる謂れはないが、唯一挙げるとするならば──。
両手の指同士を胸の前で意味もなく絡ませながら、バツが悪そうに名前は言った。

「あなたを仕事の出しに使ったのは、謝ります」

「…別にそれに関してはいいよ。どんな理由であれ、名前と一緒の時間を過ごせたんだし。
あと本当に悪いと思ってんなら次こそは仕事抜きできちんと僕とデートして」

「恐らくその可能性はないかと…」

「僕今機嫌悪いから、これ以上損ねるような事言うと問答無用で服引ん剥くよ」

地雷を踏んでしまったとぎゅっと手を握って逃げ腰になった名前を腰を掴む手が許しはしない。寧ろ引き寄せられた事で更に距離が近くなってしまい、すべてを曝け出した端正な顔は最早暴力と言っても良いくらいだ。
彼女の服からか髪からか、ふんわりと香った煙草の臭いに五条は盛大に顔を顰める。名前は自分のものではない──勿論あの男のものでも。それなのにこの不快なにおいがまるでマーキングのようで押し寄せる殺意に似た激情に胸やけがしそうだった。
突如急降下した五条の機嫌の原因が解らず恐々とする名前のキラキラと煌めく目許と挑発するかのように色っぽい唇を見て抑揚のない声が問いかける。

「この可愛いメイクはあのオッサンの為にやったの?それとも僕のため?」

「………五条さんの為です」

「ん、今度は間違えなかったね。いい子」

後頭部に回された手が髪を結う赤いリボンに触れ、擦れ音とともに締め付けが消えた。無情にも床に落とされたリボンを名前は視界の隅で確認する事しか出来ない。さらりと肩から滑り落ちた濡れ鴉のような黒髪を一房掬い上げ、勿体ぶるように耳に掛ける。指の腹が耳の裏からうなじまで絶妙な圧を掛けながら這うと背筋がぞくぞくと震えた。

「アイツ名前の事えっろい目で見ててさあ、殺してやろうかと割と本気で思った」

「…殺すのはその、私のお仕事なので……」

「って事はまたあのオッサンに会うんだ?──ねえ。どこまで触れて、どこまで触れさせたの?返答によっては容赦しない」

心臓が底冷えするような物言いは決して冗談で言っているのではない。“どちらを”容赦しないのかはっきりと五条は言わなかったが、返答次第では名前にも確実に被害が及ぶ言い方だった。
「手を、最後に手を握ったあれだけです」この悪い流れを何としてでも変えなければいけないのに、五条からの問いかけに答えるのが精いっぱいで頭が回らない。今の五条は宛ら浮気を問い詰める恋人だ。こういう経験が実年齢に伴わず著しく乏しい彼女は正にお手上げ状態だ。
怒ってはいても、目の前で揺蕩う湖のように澄んだ瞳の美しさは変わらないままで殆ど無意識に手を伸ばし五条の耳の下に指を挟み入れ包み込むように頬に触れた。ぴくりと名前の後頭部を押さえている指先が僅かに動いた。

「疲れてしまうのでしょう。サングラス、ちゃんとしないと」

「今はいいの、アレがあるとキスの時邪魔だから」

「…しませんよ」お互いの体勢からしても、そう捉えられても仕方がないのかもしれないが、少なくとも彼女にはその気がない。それは五条も想定内だったようでけれど納得するかはまた別、即座に不満そうに唇を尖らせた。

「僕はしたい」

「ダメです」

「なんで?」

「五条さんは、そういう対象では、」

「アハハ、はっきり言うね」

その割にショックを受けている様子はない。この距離ならば無理矢理してしまう事も可能であるのに、五条はじっと名前を見つめたままだ。
先に視線を逸らしたのは彼女の方だった。彼の頬から手を離した名前が口を押えて欠伸を噛み殺し、それによって目に薄っすらと滲んだ涙もそのままに小さな唇が「まだ、怒っていますか?」と不安げに言葉を紡いだ。

「…いーや、もう怒ってない」

「……なら、私は眠たいので」

「そうだね。もう遅い時間だし、一緒に寝よ。大丈夫今日は何もしないから安心して」

笑顔で畳みかけるようにそう言い放った五条は名前の返事を待たずに彼女を再び抱え上げた。アルコールと眠気のダブルパンチで文句も抵抗もないのを良い事にこれくらいは許されるだろうと頬に口づけをひとつ。頬を撫でた白髪が擽ったいのか片目を瞑って小さく身を捩った名前に気分が良くなりながらも不安が過る。
「僕のいない所であんまりお酒飲まないでね」残念ながらその懇願は彼女の耳を通り抜けただけのようだった。諦めを含んだ溜息をひとつ吐いて、五条は化粧落としを探しに洗面所へ向かうのだった。蒔いた種が芽吹くか否かは今後の彼の出方次第である。

21.06.26
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