キスにほど近い出来事


誘いを断られるという危惧は始めからしていなかった。
名前に声を掛けられたターゲットの男は立ち昇る紫煙と灰皿を遠ざけ、彼女の想定通り座る場所を快く提供した。腰かけるや否や、じっとりと舐めるような視線が彼女の身体を何度か往復する。不遜なその態度に不快感をおくびにも出さずににこりと目許を緩めて名前はその視線に応えた。

「折角の出会いだ。一杯奢ってあげよう」

「わあ、嬉しい」

名前の微笑みを受けて蓄えた口髭に触れながら男がそう提案した。両手の指を合わせて語尾を上げた名前の態度を気に入ったようで、透かさずバーテンダーが差し出したメニューを機嫌よく受け取る。大ぶりな宝石のついた、一言で言うなら趣味の悪い指輪をこれ見よがしに幾つも付けた太い指が勿体ぶりながら薄っぺらいそれを捲る。
男の手元に置いてある重厚感のあるロックグラスの中、琥珀色の液体に浮かぶ丸い氷がカランと清涼な音を立てた。

「好みはあるかな?」

「実はお酒はあまり得意ではなくて…」

ほう、と吐息と共に吐き出された相槌には男の下心が嫌と言う程滲み出ている。「アレキサンダーを、彼女に」畏まりました、とメニューを恭しく受け取り、バーテンダーからおしぼりと小さなプレートに盛られたオリーブが名前へと提供される。そのまま席を外したバーテンダーに目も呉れず、男は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると片肘をついて名前を見つめた。

「こんな美人に声を掛けて貰えるなんて、私もまだまだ捨てたものじゃないな」

「ふふ、褒めるのがお上手なんですね」

「勿論本心だよ。──私なんて君が連れていたあの色男の足元にも及ばない」

「ええ、嫌だ、見られていたなんて恥ずかしい」

紅潮した頬を華奢な手が隠すように触れて名前は目を伏せる。照明で照らされた煌めく目元とぽってりとした唇に男は無意識に生唾を呑んだ。

「君たちのような美男美女、そうそうお目に掛れるものじゃない。私を含め、フロア中の視線を掻っ攫っていたよ。素敵な彼氏じゃないか」

「彼氏じゃないんですよ、実は」

「…おや、それは意外だな」

「ふふ。よく言われます。私、特定の人じゃ満足できないみたいで。…ああ、ごめんなさい。はしたないですよね」

煽るように細められた黒曜石の瞳に男の背に甘い痺れが走った。良い歳をして性に飢えている様を表に出す訳にはいかず、誤魔化す様にウイスキーを嚥下する。喉を焼くような心地よい感覚と体内を回るアルコールが男の理性を上手く繋ぎとめた。

「お待たせしました、アレキサンダーです」

ことりと名前の前にグラスが置かれ、彼女の意識が一時的にそちらに向けられた事は男にとっては救いだった。初対面の取り分け異性相手に余裕のない姿は誰だって晒したくはない──勿論腹の底で燻ぶる劣情も。
細い指先が楽しげにステムに絡み男もそれに合わせるようにロックグラスを持ち上げた。

「素晴らしい出会いに」

「なんだか照れちゃいますね」

控えめに鳴ったグラスの音。胡桃色のとろりとした液体が小さな唇に吸い込まれていく。こくりと動いた白い喉元に男の目が細まる。
「チョコレートみたいです」「気に入ったなら嬉しいよ」パッと顔を輝かせて感想を述べた名前を見てオリーブを摘まみながら控えめに男は笑った。

「貴方のお陰で寂しい夜にならなくて済みそうです」

「…嬉しい事を言ってくれるね。いい歳をして、期待してしまいそうだ」

「して、くれないんですか?これでも結構頑張っているんですよ、私」

2口目をのんびりと口に運んで、名前は男を流し目で見た。ワザとらしく舌先をちろりと出すと面白いくらいに男の気配が揺れる。おしぼりで口元を拭うフリをしながらチョロいなと内心名前は吐き捨てた。
そこからは簡単だった。一度席を外す時に酔っている体で意図的に身体を密着させ、男の服にGPS付きの超小型盗聴器をつける。マーモンに言われた“仕事”は此処までだ。誰も居ない化粧室でハンカチで口元を押さえながら名前は一人鏡を睨む。
──とんでもないモノを飲まされた。摂取するのは最低限にした筈なのに、それでも視界が不自然に揺れ、思考が鈍る。身体に滞留するアルコールの不快感に支配される前に名前は早々に切り上げ自室に戻る事を決めた。
男の元に戻ってすぐにやんわりと今夜の誘いを断ると彼はあからさまに落胆した。「具合が悪いならアルコールを勧めてしまった私にも非がある」と部屋まで送るとまで言い出し、それをどう不審がられずに躱すか正常に機能しない思考を無理矢理働かせていると、背後から伸びてきた温かな手が名前の肩を抱いた。

「嗚呼、此処に居たの。さっきはごめんね。お詫びに君が欲しがってたバッグを今度プレゼントするから、機嫌直して」

「…もう、私の事置いて行ったりしない?」

「しないよ。だから、ね?」

優しげな声に惹かれてこれ幸いと安っぽい芝居に乗っかりながら安易に振り返ってしまった名前はその事を深く後悔した。心配そうに、困ったように笑う目の前の優男はその実、恐ろしい程に感情というものが抜け落ちた目で名前を見下ろしていた。サングラスを取っ払って晒された瞳の美しい色彩はそのままに、目に入った全てのものを凍り付かせるような確かな冷たさを孕んでいる。
ね?に籠められた五条の思いは今の彼女では量り切れない。引き攣りそうになった顔をなんとか押し留め、名前は男に向き直ってその手をそっと握った。──無心になれ、無心になれと自らに言い聞かせながら。

「…また、次の機会に」

此処まで来たらもうヤケだった。幸い相手もアルコールが回っている身、五条からの静かな圧に屈するどころか気付いている様子もなく彼女からのスキンシップに機嫌よく答え、表面上は穏やかにその場は収まった。
問題はここからだった。静かに名前の後ろをついてくる五条をこれ程恐ろしいと感じたのは今日が初めてだった。その饒舌な口で捲し立てられるよりずっとずっと後味が悪く、不気味だ。
何も後ろめたい事なんてない。そもそも五条と名前は懇意な間柄ではないし、あの男に接近したのも仕事が絡んでいるからに過ぎない。五条に責められる謂れもなければ、それをする立場ですらない。なのに、どうして。同じ疑問がぐるぐると頭の中を巡り、段々と気分が悪くなってくる。

注意が散漫になっていた視界に突然飛び込んできた呪霊に名前は声こそ上げないものの身体が動揺を処理しきれずにバランスを崩した。倒れなかったのは後ろから両肩を支えて抱きとめてくれた五条のお陰だ。
その呪霊はすれ違った人間の上半身から首周りにかけて蛇のように巻き付いていた。「あ…」目が合ったと認識した瞬間、甲高い叫び声を上げながらこちらに飛んできたそれは、名前が身構えるより早く五条が手で埃でも払うような所作ひとつで呆気なく消し去ってしまった。

「すみ、ません」

「…いいよ。それより具合悪いんでしょ、早く戻ろう」

視えるが呪霊を祓う術を持たないというのは難儀なものだと名前はほとほと思う。酔っていたとは言え上手くやり過ごす事が出来なかったのは己の失態だ。
エレベーターホールは閑散としていた。程なく到着したその中も誰も居らず、いつの間にか名前の手を握っていた五条が優しくその手を引いて2人して乗り込んだ。
「ん、」と催促するように手のひらが名前の目の前に差し出され、彼女は抵抗する事もなくその手にカードキーを乗せる。動き出した静かなエレベーターの中、ぽつりと五条は呟いた。

「視えてるって解るとさっきみたいに襲ってくる雑魚も居るから、あんま凝視しない方が身のためだよ」

雑魚、と五条はあの呪霊をそう位置づけた。確かに身体を突き抜けるような圧を感じはしなかったが、それは彼女の感覚の問題で現れた呪霊がどの程度なのかを判断する材料を彼女は持ち得ていない。
エレベーターの僅かな揺れがアルコールの回りを緩やかに加速させる。堪らず五条の二の腕に身体を凭れ掛からせながら名前は重い息を吐き出した。

「だから五条さんはいつも目を隠しているのですか?」

「僕の眼は特殊だからさ、視え過ぎると疲れちゃうの。隠すのはコンディションを整える為であって、雑魚対策じゃない」

五条が特殊なだけであって、大抵の術師は名前が推測した通り呪霊対策で目を隠している場合が多いと言う。
もう着くよ、と労わるように未だ熱を持つ名前の頬を撫でる手に確かな性差を感じる。いつの間にかサングラスをしていた五条がその涼やかな瞳に今どんな感情を浮かべているのか、名前には解らなかった。

21.06.06
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