キスにほど近い出来事


テーブルの周りを仄かに照らすキャンドルの火がゆらゆらと揺れている。薄暗い照明の奥から流れるジャズは生演奏によるもので、耳障りにならず会話の邪魔にもならない絶妙な音量。流石それなりのサービス料を取るだけの事はあると名前はぼんやりとそんな事を考えた。
当然のように夜景の良く見えるソファ席──所謂カップルシートと呼ばれるもの──に案内され、渋る訳にも行かず大人しくそこへ腰を下ろした名前は現在進行形でそわそわと気持ちが落ち着かない。バーの空気が苦手だと感じてしまうのは彼女がそもそも酒をあまり嗜まないのもあるが、この場所が醸し出す独特の雰囲気に依るところが大きい。最近では女子会と称して手軽に同性同士で足を運ぶ機会も多いと聞くが、海外での格式高いこういった場所では大抵男女同伴で“それなりの関係”である事が圧倒的に多いからだ。

窓ガラス越しに注文したデザート盛り合わせを食す五条を盗み見て名前は気を紛らわす為にカシューナッツを口に運ぶ。
ナイフとフォークを使うその悠然とした仕草に育ちの良さが滲み出ている。そっと伏せられた白雪の睫毛の翳りと、それに縁取られた宝石のような淡い青眼がそのうつくしさを更に引き立て、先程から彼に向けられている複数の視線の理由にも頷ける。まるで人形のように整ったすべてのパーツに寒気すら覚えた。
そんな事を考えているのを見透かしたように、くすりと小さく笑って音も立てずにカトラリーを置いた五条が流し目で名前を見た。

「なぁに、見惚れちゃった?」

「そうですね、容姿に関しては否定の言葉を吐く余地すらありません」

「褒められた気がしないんだけど」

肩を竦めて、名前は静かにグラスを傾けた。五条が注文してくれたプッシー・キャットと名付けられたノンアルコールカクテルはオレンジの程よい酸味と後からパイナップルの甘さが追ってくる。一口飲んで彼女はそれを気に入ったようだった。
「僕下戸なんだよね」とメニューを見ながらぽつりと零されたそれは中々に衝撃的なカミングアウトだった。人を見た目で判断してはならないとは思いつつも、正直意外でしかない。
周りに居る人間が酒豪揃いという特殊な環境の所為か、一滴も飲めない五条が名前の目には新鮮に映った。下戸とは言わずとも酒が得意ではない名前はその手の知識は殆どなくメニューに目を通してもずらりと並ぶカクテル名に毎度げんなりとしていた。ご丁寧にカクテル名の下に小さく説明書きがあっても味の想像までは及ばず、色んな意味で悩ましくも煩わしくもあった。それが今日はどうだ、飲めないが故にノンアルコールにはとても詳しい五条が居るお陰でスムーズ且つ彼女から聞いた好みに寄せたカクテルを彼は選んでくれた。
口角を上げて時折ミックスナッツに手を伸ばしながらグラスを口に運ぶ名前をアイスブルーの瞳が優しく見つめる。

「僕のも飲んでみる?」

「五条さんのは赤いですね。ベリー系ですか?」

「そ。甘酸っぱくて美味しいよ」

隣に座る相手次第ではその一口が命取りになる可能性もあるので迂闊にシェアなど普段なら出来ないが、ノンアル同士ならそれも気軽に行える。クランベリーキューティー、とカクテル名を教えてもらってもやっぱり名前にはピンと来ない。差し出された華奢なグラスを受け取り口に含むと名の通りまずクランベリーの甘酸っぱさが口内に広がり仄かなレモンの香りが鼻を掠めていった。
「こっちも美味しいです」「そうだね」手渡されたプッシー・キャットを嚥下する五条もそれに同意する。
五条よりも一回り以上小さい手がナッツを摘まみ淡いリップグロスに彩られた艶やかな唇の中に消えていく様はこの雰囲気に酷くマッチしており、かりかりと砕く音が小動物を彷彿とさせて五条は吹き出しそうになった口許を気取られないよう手を当てて誤魔化した。
ハーフアップに纏められた黒髪に赤いリボンはよく映える。風呂上がりで少し時間が経ってしまってはいたが、丁寧にブローされたようで跳ね一つ見当たらない。指通りの良さそうなそれに触れたい衝動に駆られるが食事中の小動物に手を出して威嚇されるのは本意ではないので五条は思うだけに留めた。チャンスは幾らでもある。それこそ事と次第によっては髪に触れる以上の事も出来るかも、しれない。

デートという名目であっても、横並びに座って些細な会話をしながらゆったりと過ごす2人の間に恋人のような甘い空気は流れない。五条の飄々とした態度は変わらずでも、彼女が嫌がるような過度なスキンシップをしてはこないし、名前も彼に対してぞんざいな態度を取っている訳でもない。寧ろ名前は酒を好まない彼に対して一種の親近感を持ったようで初期に比べたら随分と物腰が柔らかくなった。それを機敏に感じ取りながらも五条は敢えて指摘はしない。
この愛らしくも飼い主以外には靡かない難しい性格の飼い猫が差し伸ばした余所者の手に自らすり寄ってくるまで、あとどのくらいだろうか。五条が華奢なグラスを何食わぬ顔で傾けながらそんな打算的な思考を巡らせている事を彼女は知らない。
お互いのグラスが空になった絶妙なタイミングで、五条のポケットで沈黙を守るだけだった携帯端末が震え出した。取り出した液晶に浮かぶ馴染み深い補助監督からの着信に五条は盛大に顔を顰めた。

「ごめんね、ちょっと行ってくる」

「どうぞ、私の事はお気になさらずに」

ちゃんと、そこに居て。まるで子どもに言い聞かせるようにそう釘を刺して席を立つ辺りが実に彼らしい。素早く端末を耳に当てながら出入口へと踵を返した背に謝罪の意味を込めて小さく手を振り、名前も立ち上がった。
どんなにおちゃらけた態度を取っていても、五条悟という人間は“仕事”を軽んじてはいない。何時如何なる時も矜持は揺らぐ事はなく、それは名前を目の前にしても変わらない。そんな彼の姿勢を名前は少なからず評価している──中身の空っぽな人間程つまらないものはないから。
薄橙の淡い照明は夜の雰囲気と相俟って露出した肌をより一層美しく魅せてくれる。コツコツと控えめにヒールの音を響かせて、名前はカウンターで一人酒を煽る男に向かって微笑みかけた。

「お隣、よろしいですか?」

21.05.30
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