キスにほど近い出来事


ふう、と深い溜息をひとつ。蛇口から零れ落ちた水滴の水音が静かな浴室内に木霊した。
もくもくと立ち昇る湯気と身体を包み込む人肌より少し高めの湯が堪らなく心地よい。海外ではシャワーが主流だが、名前は湯船に浸かるのが好きで何も考える事無く只管ぼんやりと出来るこのひと時が彼女なりの休息のひとつだった。じんわりと身体の芯から温まっていくような感覚は湯に浸からないと味わえない。
アメニティとして置いてあったローズバスソルトを少量入れてみたがふわっと鼻腔を擽るバラの良い香りに凝り固まった身体だけでなく心までも解れるような気がしてくる。手のふやける感覚も時折やってくる眠気すら好ましく感じるから不思議だ。

足先でジャブジャブと湯を悪戯に弾きながら徐に露出した腕の古傷を爪先でなぞる。殆どは薄っすらとしたもので遠目から見て目立つような傷はないが、職業柄いつ死んでもおかしくない状況に身を置いているが故に日常的に生傷が絶えない。今触れている瘢痕もいつどのような状況下で負ったものだったか仔細に思い出す事は難しい。
例え傷が目立つところにあったとしても、幻術で隠してしまう事など造作もない事だ。引き攣るような違和感もないし、日常生活を送る上で何の支障もない。だからこそ名前は拵えた傷の事など何一つ覚えるつもりがない。

ぽたりと毛先から零れ落ちたそれが湯に小さな波紋を広げた。ふやけた指の腹を見て漸く長湯し過ぎた事に気が付き、名前はゆっくりと立ち上がった。火照り過ぎた身体を温度を低くしたシャワーで洗い流し重みのある真っ白なバスローブを手に取り、競り上がる欠伸を緩く噛み殺しながら気怠そうにそれを羽織る。
今夜マーモンは別件で出払っている。出来ればこのままポカポカと火照った身体を持て余しながら寝てしまいたいところではあるが、この後名前はある仕事を熟さねばならない。
予定時刻まではまだ余裕がありそうだ。それまでどう過ごそうかと水気を含んだ髪を弄りながらのんびりと考えていた名前はある異変に気が付いてぴたりと動きを止めた。

「………」

衣類の傍らに置いていたホルスターから拳銃を引き抜き、安全装置を外す。ひんやりとしたドアノブに手を掛け、気配を完全に消しゆっくりと体重を掛けた。外気が濡れた身体に纏わりつく中、静まり返った室内に揺らめく一つの気配。裸足のまま構わず名前は床を蹴って一気に距離を詰めた。

「や、名前。随分刺激的な恰好してんね」

「………不法侵入者は撃ち殺されても文句は言えませんよね?」

「やだなぁ、ここ日本だよ」

下顎に銃口を押し付け、自分よりも大柄な男性相手に怯む様子もなく壁に押さえつける動作に無駄な所作は一切なく、五条を見上げる瞳にも躊躇は見られない。相手が五条でなければ迷う事無く頭を吹っ飛ばしていただろう。

「こんな時間に、随分と不躾ですね」

「だって名前ってば全然連絡してくれないからさぁ、僕寂しくて」

「生憎と仕事が立て込んでおりまして」

「実は僕もゲロ吐きそうなくらい仕事三昧なんだよね。だから名前の気持ちは解るけど、」

時間は作るものでしょ

サングラスから垣間見えるアイスブルーの瞳がきらきらと輝いている。ゆるりと細められた綺麗なその瞳に魅了されない者など居るのだろうか。名前とて例外ではなく、うっと一瞬言葉を詰まらせるがするりとバスローブを捲り上げながら撫でられた太腿に即座に顔を強張らせ「五条さん!」と抗議の声を上げた。
なぁに、と暴れる名前に動じる事無く間延びした返事をしながら五条は虚を衝いて拳銃を手から弾き落すとそのまま身を翻して呆気なく名前の身体を片手で壁に縫い付けた。へらへら笑っている癖に、ゴトリと落ちたそれを拾わせてやる隙は見せない。
絡めた指先から伝わるいつもより高い体温としっとりと吸い付くような肌質に無意識に目が細まる。本人にその気はないのであろうが、正直目の毒でしかない。
む、と眉を寄せて五条を見上げる黒曜石の瞳、ぽってりとした唇、着崩れたバスローブから覗く白い首筋。少し顔を寄せれば甘い香りがふんわりと立ち昇り、すべてが扇情的なものに映る。このままペロッと食べてしまいたいのは山々ではあるが──ぽたりとカーペットに落ちた水滴を確認して五条は短く息を吐いた。

「本当ならこのままイチャイチャしたいとこなんだけど──」

「しませんっ」

「君に風邪でもひかれたら“あの子”に怒られちゃうからね。髪乾かして着替えておいで。続きはその後でしよ」

「しません」

緩められた拘束からスルッと抜け出した名前は拳銃を拾い視線を逸らした。「五条さん」その呼びかけに当たり前のように応じるも、逸らされた視線は交わる事はない。
しかし愛らしい唇から紡がれた思いも寄らない言葉に彼は珍しく瞠目した。

「い、イチャイチャはしません、けど、このホテルのバーでなら…少しお付き合いします」

てっきり早く帰れ消えろ等言葉は悪いがそれに似たようなものが吐き出されるとばかり思っていた五条は目をぱちくりとさせた。
他所の飼い猫がやっと主人以外に尻尾を振ってくれた奇跡的な瞬間である。例えそれに他意がなくても五条には十分だった。きゅう、と締め付けられる胸の苦しさをひとり噛み締めながら五条は背後から名前の身体を抱きしめた。

「服が濡れてしまいます、離してください!」

「そこでまず“やめて”が出ないところが本当に可愛い」

「……っ」

「名前は優しいね」

「…準備に1時間くらい、掛かりますが」

「全然、幾らでも待つよ。なんてったって初めてのデートだもん」

デートとは言っていない。不満そうな名前の顔など五条は知らん振りだ。しっとりと水気を含んだ頭をひと撫でして、五条は彼女を解放すると備え付けのソファに座って足を組んだ。背後からでも解る、鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌な様に訳が分からないと名前は唇を噛む。指先から心臓まで走った甘い痺れの正体を彼女は知らない。きゅ、と拳を握った名前は踵を返して逃げ込むように脱衣所に駆け戻った。

21.05.17
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