酸味すら溶かす甘ったるさ


「名前、こっち向いて」

サンドイッチに齧り付いたまま、呼ぶ声に反応して視線を向けた瞬間チープな機械音がした。小さな手が握るスマートフォンを凝視しながら彼女は写真を撮られたのだと気付く。角度から名前を撮ったのは間違いないだろうが、マーモンのその不可解な行動に彼女は首を傾げる。
思えば最近似たような事がよくある。場所は屋内だったり屋外だったり、シチュエーションはバラバラではあるが撮られるのは必ず名前一人だけだ。今までこんな事はなかったし、撮影した写真を同僚に送りつけている様子もない。そもそも彼らとはそんなに気やすい関係ではない。もぐもぐと口を動かしながらレモネードを啜るマーモンを見やる。「マヨネーズが口の端についてるよ」親切に教えてくれるのは大変有難いのだが、喋っているその瞬間にも再びシャッター音がしているのであまり心穏やかではいられない。

「何か面白いものでも?」

「ああ、あまり気にしなくていいよ。副業みたいなものだからね」

その言い回しに妙な引っ掛かりを覚えて思わず名前は眉間に皺を寄せる。タイミングを見計らったかのようにスーツのポケットに忍ばせている端末が震えた。直感が奴からの連絡だと告げるのと同時に彼女の中で疑問が徐々に確信に変わっていく。

「……それってもしかして、ここ最近私の口座に振り込まれている心当たりのない入金と関係があります?」

「金の価値はそれ以上でもそれ以下でもない。金は金だから価値があって、見返りとしては一番相応しい対価だ。だからこそ大事な部下に僕が無賃労働を強いる訳にはいかないんだよ」

「詰まるところその副業の取引相手は五条さんですね…?」

「こんな小さな島国で羽振りの良いビジネスパートナーに出会えるなんて、僕はツイてる」

「………」

涼しげな顔でずず、とレモネードを吸い上げる小さな口はとても愛らしいのに、喋っている内容は一切笑えない。ひくりと口の端が引き攣るのを感じながら名前は遠くに視線を向けてサンドイッチを咀嚼した。
ヴヴ、と再びポケットの中で震えたそれが通知を知らせる。道理で知らないうちに連絡先に五条悟が追加されていた訳だ。個人情報や合法的盗撮の取引なんてチープな事にマーモンが手を付けるのは意外ではあったが、それをする価値があると思わせる絶対的な対価を五条はマーモンに提供しているのだろう。恐らく小銭稼ぎの域は超えている。当事者である筈なのにどこか他人事のように名前はそう推測した。
それならば連絡先の件も任務終わりの絶妙なタイミングで顔を合わせるのにも納得がいった。金銭が発生してしまっている以上、五条からの連絡を無視は出来ても拒否したり消せないのは大変残念だ。まあ仕事に支障が出ないのならいいかとそうアッサリと結論付けて名前は冷めかけのコーヒーに口を付けた。

「それじゃ、今日も精々頑張りなよ」

「え」

レモネードを飲み切ったマーモンが放った一言は宛ら死刑宣告のようなものだった。
「マ、マモちゃん…」この人はこんなに非情だっただろうか。否、お金がマーモンの全てだったと名前は脱力する。「君の取り分はもう入金済だから」と小さな手が励ますように肩を叩いた。意図せずお小遣い稼ぎに参加させられているこの気持ちを一体誰が理解してくれよう。身体を明け渡せと言われるのも時間の問題かもしれないと恐ろしい事を思い浮かべてしまって名前は顔を青褪めさせ、それが現実となる前にイタリアへ帰れる事を心の底から祈った。



***



マーモンが居なくなってしまったのでソファ席に一人は寂しく感じてしまう。一気に食欲が減退してしまったが食べ物に罪はないとサンドイッチの最後の一口を口に放り込むと「あの、」と真後ろから声を掛けられた。思わず五条かと目つきを鋭くさせて振り返ると見知らぬ男性が一人おどおどした様子で彼女を見つめていた。あまりにもタイミングが良かったものだからつい態度が悪くなってしまい、相手に少しの罪悪感が募り、感情の波を即座に打ち消した。
名前の口元が動いているのを見て食事中だったと気付いたようで早口で謝罪が述べられる。

「……私に何か?」

「っ、あの!これ、良かったら…!」

サンドイッチを飲み込んだ名前が問いかけると頬を紅潮させ、緊張した面持ちの男性が勢いのままに一枚の紙を差し出した。殺気もなく、挙動からして素人に間違いはなかったので反射的に受け取ってしまったが、それはレシートだった。名前の視線が彼とレシート、交互に向けられる。
「裏に、その、」意図が伝わっていない事を理解した彼が気まずそうに視線を逸らした。言われた通りに裏返したそこには数字の羅列──ああ、連絡先か。困ったなあと眉を下げた名前をちらりと見る彼はどこをどう見ても一般人だった。
どちらかと言えば大人しい部類に入るような、落ち着いた服装に黒髪と眼鏡は真面目な印象を持たせた。だからこそ対応に困ってしまったというのはある。グイグイ来るような人間をあしらう方が簡単だ。

「失礼に感じたらすみませんが」此処に、ソースが付いていますと自らの口の端を指さしながら彼が遠慮がちにそう言った。マーモンから指摘されるのと赤の他人からのそれでは受け止め方がまるで異なる。「えっ、あ」と動揺した名前を柔らかい眼差しが包み込み、そっとペーパーナプキンが差し出された。
礼を言ってそれを受け取ろうとした名前は直後感じた気配に思い切り振り返る。それを想定していたかのように伸びてきた手が彼女の口を塞いだ。

「待たせちゃってごめんね?」

「……っ」

「もー、ソースなんて付けちゃって相変わらず可愛いんだからぁ〜」

「……む、っ」

「で、そこのキミはこの子に何か用?」

ペーパーナプキンが唇に宛がわれ、その上から大きな手が覆っている為名前は言葉が発せない。ワザとらしく間延びしてワントーン高い声を出した五条に文句の一つも言えない。さも待ち合わせていたような雰囲気を違和感なく醸し出しているところが更に癇に障る。その癖最後に突っ立ったままの男性に向けて放たれた言葉はやけに挑戦的だった。
ひくっと顔を引き攣らせた彼は蚊の鳴くような声で「え、えっと、その…っ!すみませんでしたッ」と早口で捲し立てると踵を返して足早に店内から出て行ってしまった。

「駆除かんりょーっと」

随分な物言いだ。へらっと笑った五条が満足そうにそれを目で追って当然のように名前の隣に腰を下ろした。ソファがその重みで軽く沈む。これは委縮もするな、と解放された名前は彼の装いを視界に入れて名も知らない彼に同情した。
態々外したであろうサングラスから露出した澄み切った色素の薄い瞳も宛ら、190を超えるすらっとした長身に店内の照明を吸い込む眩い白髪、真っ黒なスキニーに白のVネックから覗く色気を孕んだ鎖骨。この容姿に真っ向から立ち向かおうとする人間は少ないだろう。
「ご注文をお伺いします」いつの間にか呼んだらしい女性店員の頬も先程の男性のように赤く染まっている。

「このスペシャルパンケーキと苺パフェ、あとクリームソーダで。名前は?」

「…カフェラテのホットを」

「畏まりました」と上擦った声と共に彼女は足早に去っていった。
邪魔者を追っ払って満足したとでもいう風に折り畳んでいたサングラスを再び着用し、窮屈そうに長い足を組む。彼の身長だと日本での暮らしはさぞ手狭に感じる事だろう。
店内に流れているオルゴール調のBGMは居心地の良さを確かに提供してくれている筈なのに五条に向けられている不特定多数の好奇の視線がそれ以上の不快感を名前に与える。本人は今に始まった事でないと意に介した様子はない。
再度ペーパーナプキンで名前の口を丁寧に拭ってやりながら五条の口元が緩く弧を描く。途端色めき立つ周囲の空気に名前は指先をぴくりと揺らした。自分の顔の良さを自覚しているあたり本当に質が悪い。

「ハイ、これは没収ね」

「あ」

「…なに、名前には僕というナイスガイが居るんだから他所の男との交流なんて必要ないでしょ」

「誤解を与えるような物言いは謹んでくださると有難いのですが」

「間違った事言ってなくない?」

グシャ、と五条の大きな手の中で潰されたレシートの無残な悲鳴が聞こえた気がした。どことなく漂う不満そうな空気は直後にやってきた苺パフェとクリームソーダのお陰で霧散した。
名前の目の前には可愛らしいウサギのラテアートが施されたカフェラテが置かれる。パンケーキはもう少し掛かるみたいだが生返事をした五条の意識は既に目の前に鎮座するパフェに注がれている。
パフェ専用の長いスプーンでイチゴソースの掛かったソフトクリームを抄うその表情はまるで少年のようにきらきらと輝いて見えて思わず名前は小さく笑ってしまった。

「ん、名前も食べる?」

「いえ、私は結構で、」

す、と言い終わる前に冷えたスプーンが無理やり彼女の口に突っ込まれた。拒否権が聞かれた側にないのなら問いかけなど無意味だ。金属部分が歯に当たって痛い。甘酸っぱい味が口に広がり飲み込むと胃の辺りまでひんやりと冷たくなった。

「美味しいでしょ?」

「…まあ」

「クリームソーダのサクランボってさぁ、このチープ感が何とも言えないよね〜」

名前は突然振られ、こうして勝手に切り替えられる会話に既に慣れつつあった。どこまでも自由な人だ。慣れるつもりも二度と相見える事もない筈だったのに一体何故──人と人との縁とは実に厄介なものである。
しゅわしゅわと泡立つソーダの上に乗るアイスを真っ赤に染まったサクランボにたっぷりと付けてぱくりと五条はそれを口に運ぶ。何の変哲もないその仕草がやけに様になっているのはやっているのが他の誰でもない五条悟だからか。
「パフェは一番上が間違いなく美味しいけど、溶けたアイスや甘いソースが染み込んだ下層のフレークも良い仕事をしてる」という至極くだらない会話を真顔でする五条を彼女は遠い目をして聞き流した。何口目かになるカフェラテに描かれたウサギは疾っくにその姿を消してしまっていた。

「はい、名前。あーん」

「いえ、もう本当に結構です」

「あーん」

「…やだ」

思わず口を突いた言葉に五条がうっとりと目を細めた。「今のグッと来た。もう一回言って?」変なスイッチを押してしまった。
パフェの御裾分けを皮切りに後から運ばれて来たパンケーキまでも「あーん」してくる五条に彼女の胃袋は悲鳴を上げていた。口を開けるのも喋るのも嫌だと真一文字に結んで首を振った名前を見て漸く諦めてくれたようで、口どけの良いパンケーキは五条の口の中に消えていく。彼が現れる前に既にサンドイッチとコーヒーを胃に入れていた名前はもう限界だった。
テンポ良く皿から消えていくパンケーキにこの細身のどこにそんな容量があるのだろうと不思議でならない。あっという間に皿は綺麗になり、満足そうに残りのクリームソーダを啜る彼を横目に名前はある事に気が付いた。ストローを口から放したタイミングでペーパーを手にした彼女が少しだけ上半身を寄せる。
ぱちりとお互いの目が合った時には既に名前の持つそれはクリームが付着した彼の口の端に触れていた。

「五条さんも人の事は言えませんね」

「…あ、うん」

反射的に零れたであろうその言葉には彼にしては珍しく何の感情も籠っていなかった。軽口を叩かれるよりはずっと良く、物珍しい反応に名前はふふっと笑い声を零してしまった。
刃物を振り下ろしても拳銃をぶっ放しても絶対に触れられなかったのに、今はこんなにも簡単に触れられた。どういう仕組みなのか不思議なものだと一人思案する名前の手からナプキンを攫い、五条はパッと顔を背けた。

「五条さん?」

「んー…いや、何でもない」

薄っすらと赤くなっている耳に幸いにも彼女が気付く事はなかった。

21.04.26
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