月すら溶かせられるさ


「今夜は少し冷えるね」

びゅう、と吹き荒れるビル風が頬をすり抜け髪を無造作に舞い上げる。2人が身を置くビルの屋上は人気もなく真っ暗だが、街中のネオンがギラギラと目を刺激して不快極まりない。日中鳴りを潜めていた繁華街は夜が深まれば深まる程その存在を惜しげもなく主張してくる。煩わしそうに視線を外し、マーモンは身じろいだ。露出している部分だけでなく、隊服の隙間から忍び込んだ風が徐々に体温を奪っていく。
「すみません、すぐに終わらせます」申し訳なさそうに眉を下げた名前に小さく首を振りながらマーモンは口を開いた。

「急かしてる訳じゃないよ」

「ですが」

「失敗したら元も子もないんだから慎重にやりなよ」

「…はい」

彼女にとって何よりも最優先にすべきなのはマーモンの事に関してなのだが、当の本人にそう言われてしまったらぐうの音も出ない。背負っていたガンケースのジップを開け、素早くそれを組み立てていく。
このバレットM82はコロネロが名前へと勧めた得物だ。コロネロはマーモンと同じく世界最強の7人と謳われたアルコバレーノのうちの1人で元軍人だ。ライフルなどの武器の扱いには一等詳しい。

「やっぱりセミオートは重いですねえ」

「今回は動き回る訳じゃないしどちらかと言うと性能重視だからね」

名前は僅か10秒で作業を終わらせ、二脚を立てて地に伏せた。スコープ越しにターゲットを確認する。
バレットM82はコンクリートすら打ち抜ける程の高いポテンシャルを持っている。加えて装填されているのは特殊弾、より強化された弾はそこらの防弾ガラス程度ではまったく太刀打ち出来ない。

「問題ありません。いつでも行けます」

手元の端末を操作しながらマーモンは「いいよ」と呆気なく命の刈り取りを許可した。直後空気を切り裂く弾音がひとつ。ふわりと鼻を突く発砲煙の臭いには慣れたものだ。放たれた一弾は狙い通りターゲットの身体を貫いていた。スコープ越しにそれを確認し、名前が顔を上げる。

Missione completata(任務完了)

「ご苦労様。特殊弾の手応えはどうだい?」

「感覚はそんなに変わりませんね。ヘッドショットを狙わずとも掠りさえすれば確実に仕留められるという点、炎の属性を問わず使用出来るという点は確かにメリットかと」

試作品として提供されたこの特殊弾は雨の属性を模した死ぬ気の炎が内臓されており、被弾と共にそれは中へと入り込む。雨の性質は“鎮静”──例え掠り傷でも一度身体の内側へと入り込めばその効果で身体のあらゆる機能が徐々に弱体化し、最終的には死に至る。反面炎に耐性がある場合はその例外となる事、生成に莫大な資金が掛かる事、生成されてから効果の持続時間が極端に短いなどの致命的な部分も含めた改善点が挙げられる。
因みにこの特殊弾の開発にもアルコバレーノの一人が関わっているが、マーモンは基本的にどのアルコバレーノとも馬が合わないので今回のように明確な金銭のやり取りが発生しない限りは自ら関わる事は決してない。

「今処理班を向かわせた。併せて報告させておくよ。現段階で量産出来ないのは惜しいね」

「死ぬ気の炎については未解明なところもまだありますからね」

人ひとり殺したばかりだというのに、2人に動揺の色はない。これが彼女たちにとっての当たり前であって、日常でもある。このたった一発の弾で、たった一人の命でどれだけの金が動いているのか興味のない名前は知ろうとも知りたいとも思わない。自分はただマーモンが望むがままに成すべき事を淡々とするだけだ。
ライフルを解体してケースに仕舞う名前の横でマーモンは何度か端末をタップして“何か”を送信すると一つ息を吐いて顔を上げた。ジップを閉めて立ち上がった名前からそれをそっと奪うと驚いたように丸くなった目が瞬きを繰り返した。

「…これは僕が貰うよ」

「ええ、急にどうしたんですか?重いですし私が持ちます」

「……僕は先に帰るよ。名前は5分経ったらこの場から動いていいから」

彼女の返事を待たずしてマーモンは真っ暗な闇の中に溶けるようにその姿を消してしまい、手持ち無沙汰になってしまった名前は困ったように首を傾げた。マーモンの口ぶりから何か粗相をした訳ではないというのだけは解る。5分間此処に待機、という言葉が何を意味するのか──不自然に揺れた空気と気配に名前は反射的に太腿のホルスターから拳銃を引き抜いた。構えて振り返るのと同時に銃口が“それ”を捉える。目と鼻の先にいる予想外の人物に名前は驚きで目を見開いた。

「や、相変わらず良い動きするね〜」

「どうしてあなたが……」

「どうしてだと思う?」

乱暴なビル風に煽られる白髪は闇に溶け込む深い色で統一された装いに良く映えていた。緩やかな弧を描く唇が紡ぐ意地悪な問いかけに思い当たる節は一つしかなかった。

「マモちゃん…」

「せーかい!“コネと金は使う為にある”いい言葉だよねぇ、僕もそう思うよ」

いつかの篠宮スミレとのやり取りで言われたそれを思い出し、名前は盛大に眉を顰めた。マーモンと五条悟の間でどのようなやり取りがあってどれだけの対価が支払われたのかは定かではないが、両者ともにこの調子では口を割る事はないだろう。恐らく今頃マーモンは入金されたであろう金の確認作業に夢中の筈だ。
「それで、何の御用でしょうか」諦めたように細まった黒曜石の瞳を満足そうに見下ろしながら鼻先に突き付けられたままの拳銃を大きな手が撫でるように触れる。どんな得物も彼の前では等しく無意味であると身を以て知っている名前はそれに合わせて力を抜いた。
するりと引き抜かれた拳銃は五条の手へ。空いた手には当たり前のように五条の手が重ねられ恋人のように指が絡みつく。不本意なぬくもりにぴくりと震えた指先。敢えてそれには触れずに五条はぐっと身体を折るように屈むと名前の太腿のホルスターに拳銃を差し入れた。その際にスラックスを這った厭らしい指先に容赦なく膝が上がるが呆気なく掴まれ未遂に終わる。

「ほらほら、怒んないで。お話しよ」

「……ッ」

グッと腰を引き寄せられ今度こそ文句を言おうと口を開いたまま、名前はひゅっと息を詰めた。先程よりもずっと空が近く、地面が遠い。地に足が着いている感覚がないのは当然だ。今五条と名前は空中に浮遊している。
密着している身体から抜け出そうとする名前の耳元で「僕から離れると落ちちゃうけど、いいの?」と低いテノールが囁きかける。落ちる様を想像して冷えた心臓に、反射的に絡まる指に力を入れると嬉しそうに握り返された。

「相変わらず可愛い反応するよね、名前は」

「如何いうつもりですか」

「ん?此処なら誰にも邪魔されないし、名前も逃げらんないでしょ」

強硬手段にも程がある。けれど確かにこれ以上ないくらい有効な手ではあった。流石の名前も此処から落とされたら着地する事は容易ではない。それはマーモンを呼んだところで同じ事だろう。
五条が満足するまで付き合わなければ永遠とこのままだ。今度こそすべてを放棄した名前は身体の力を抜いて五条に凭れ掛かった。こつん、と頭部が胸板に当たるとそれを合図に苦しくない程度にぎゅう、と抱きしめられる。
「煙いにおいがする」旋毛に顔を埋めながらすん、と鼻を鳴らした五条に名前は呆気らかんと言い放つ。

「さっき、人を殺したので」

「お、僕もついさっき仕事が終わったんだよね」

「…あなたとは違って私は、」

「僕だって人殺しだよ。君とおんなじ」

呪術師だって時には人を殺めねばならない時がある。それは名前も知っていた。「違い、ます」だが五条と名前は根本的に生き方が異なる。五条は人を助けるという過程に於いて止む無く殺生をする。でも名前は殺人そのものを目的としている。意識して他人の命を奪っている。
「違わないよ」ふふ、と耳元で優しい笑い声がした。

「人を殺した事がありますか?って問いに対して僕も名前も答えは“yes”。人殺しはどんな理由があれど人殺しに変わりはない」

殺しに善悪も何もあったものではないという意見は名前とて同じだった。けれどどうしてか五条の言葉に素直に同調したくないという思いが勝ってしまった。不毛な会話をし続ける程疲れるものはない。ドクドクと規則正しく鼓動を刻む心音を聞きながら名前は思った。
腰に回されていた手が放れ、俯いている彼女の顔の半面を大きな手が覆う。「冷たいね」頬と耳、大して意識はしていなかったが彼がそう言うのだからそうなのだろう。

「五条さんの手はあたたかいですね」

「もっとあったまるような事しちゃう?」

「遠慮します」

「こんなナイスガイを目の前に、名前はシャイだねぇ」

夜風が名前の髪を結うリボンを悪戯に巻き上げる。ふと顔を上げると隠されていた瞳が静かに名前を見下ろしていた。吸い込まれそうな程きらきらと輝く瞳としっかりと目が合う。何てことない真っ白な長い睫毛の翳りはその美しい顔を引き立たせる要因のひとつでしかない。
見つめ合う事数秒、当たり前のように近づいてきた唇を自由な片手がそれを阻む。たったひとつ、手のひらに感じた彼の唇の感触と体温だけが誤算だった。てっきり触れられないとばかり思っていただけに、心臓がどきりと脈を打った。
不満そうな色を宿したアイスブルーの瞳を見て名前は口角を上げる。

「今のはする流れでしょ」

「しませんよ」

「お金払うって言っても?」

「私はお金には執着していませんから。そういう交渉はマーモンとしてください」

「へぇ?じゃあお金積んだらその先もさせてくれるの?」

「マーモンがそれを了承したのなら、私は従うのみです」

あの子どもの一声で己の貞操すら差し出せる。裏社会で生きている以上任務に於いて時にはそういう行為が必要になる事もあるかもしれないし、そもそも自らの命さえ軽んじているのだ、そういうスタンスで生きていても可笑しくはない。解っていても、五条は名前のその態度が面白くなかった。
あれだけ怯えていた癖に、命令ひとつでそれを許容出来る程の度胸があるようには見えない。初めて出会って任務を共にし、戯れでちょっかいを掛けた時の名前の反応を思い出しながら五条は思った。最強の称号を持つ五条にとって苗字名前は唯々か弱い女の子の域を出ない。
五条の唇を押さえていた手が退き、今度はするりと冷えた指先が彼の頬を緩やかになぞった。

「五条さんはその強さ故に、今この瞬間も気を抜けないんですね」

気を抜いたら殺めてしまうから

あと少しで唇が触れ合う距離で囁かれたその言葉に初めて涼やかな瞳が揺らいだのを確かに名前は見た。動かないのか将又動けないのか微動だにしない五条を仄暗い色を灯した瞳が見上げている。
こくりと動いた喉元を合図に名前はその艶やかな唇に己のそれを寄せた。


「きっとあなたが抱える孤独や疎外感はこの世界の誰にも解っては貰えないんでしょうね」


かわいそうに、と紡いだ言葉を最後に名前は容赦なく五条の唇に歯を立てた。

21.04.16
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