うさぎが飛ぶ条件


一通りの身支度を済ませ、名前は今一度ワンピースを見下ろし裾を摘まみながら小さな溜息を吐いた。決してこの服が悪いという訳ではない。勝手にこの服を購入し、着せた人間に対して思うところがあるだけである。替えの服も持ち合わせていないし、五条が居る時点で幻術は使えない。仮に幻術が使えたとしても裸同然の恰好で堂々と彷徨ける程開き直った性格はしていない。
憂鬱な気分ではあるがこのまま帰ると腹を括って、隊服を小脇に抱えながら名前はカーテンを開けた。家入の姿は見当たらず五条だけが備え付けのパイプ椅子に踏ん反り返るように座ってこちらを見ていた。目隠し越しに目が合ったような気がして心臓が不穏な音を立てる。それに気づかないフリをして努めて表情を崩さずに名前は小さく頭を下げた。

「そろそろお暇します。お世話になりました」

「もっとゆっくりしてけばいいのに」

「仕事が終わった今、私はただの部外者ですから。長居は無用です」

ギィッと錆び付いた音を鳴らして五条が立ち上がり、名前の前で小さく首を傾げる。そっと伸ばされた男性特有の骨ばった手が頬をすっぽりと包み込んだ。予期せぬ他人の体温に肩が強張る。
「顔色悪いよ。本当に大丈夫なの?」その声があまりにも真剣みを帯びていて名前は反応に戸惑う。確かに失血による貧血で末端は冷え切っているし軽い眩暈はあるが逆にその程度で済んでいるのだから問題はないと言える。頷きながら、この人もこんな顔が出来るのかときゅっと結ばれた口元を見上げながら名前は胸中思った。

「……そういえば、この服のお支払いは──」

「え、いいよそんなの。僕が勝手に買って着せたんだし」

「ですが、」

「名前って意外と律儀なんだねぇ。じゃあ代わりに今度その服でデートしてよ」

「今すぐお支払いします」

「ひどい」

こんなグッドルッキングガイに対して物臭な態度を取るなんて!という主張をする大男は本当に数十秒前と同一人物なのだろうかと疑問すら湧いてくる。
「それから、屠坐魔もちゃんと回収したから心配しなくていーよ」──この人は考えている事も解るのか。
名前の怪訝そうな顔を見て五条が吹き出す。莫迦な考えではあるが、何分五条悟という人間は得体が知れないのだあり得なくもない。バツが悪そうにふいっとそっぽを向いて五条の手から逃れる様子にくつりと喉の奥が鳴る。

「名前はさ、分かりやすいよね」

「そうでしょうか」

「うん。かわいい」

「…は」

五条の軽口にギョッとしたように目を瞬かせるその姿は年相応の何処にでも居る“普通の”女の子のような反応でとてもじゃないが他人の命を平気で奪える側の人間とは思えない。
五条も呪霊の祓徐に於いて時には非術師に対して命の選択と犠牲を払う事もあるが名前の場合は殺しを当然に、生業にしてしまっている。呪術とは違う稀有な能力を使いこなし、繰り出される体術は相手の命を確実に奪うものでこんな線が細い身体の何処にそんな力があるのか甚だ疑問だ。そして自らの命よりも最優先にすべき命が明確にあり、死に際でも揺らぐ事のない断固とした意志。一個体として、アンバランスな人間。
自分以外は全て“殺さないように”常に気を配っていなければならない現世にあらわれた同じように弱い人間のカテゴリの中でも毛色の違う彼女、苗字名前に五条は単純に興味を抱いていた。

何かを感じ取ったのか名前がじりじりと五条から距離を取っている。それが小動物の仕草を連想させてむくむくと意地悪心が湧いてきた。適度に保たれた距離は五条のたった一歩で大きく崩される。互いに無言ながらも徐々に壁際に追い詰められる名前はこの意味の解らない状況に困惑するしかない。
そんな逼迫した中ドアの外からはコツコツとヒールが床を打ち鳴らす高い音が響いていた。少しずつ大きくなる音は確実にこの部屋へと近づいている。聞き慣れない足音だなと五条がドアへと気を遣った瞬間、乱暴にそれは開かれた。ノックなどお構いなしでズカズカと中に入り込んできた彼女は目的の人物を見つけると目を吊り上げた。

「こんな辺鄙な場所まで私を出向かせるなんて良いご身分ね」

「ス、スミレさん。お元気になられたんですね…」

「もっと!他に!言う事はないの!?」

「ひえっ」と鼓膜を容赦なく刺激する声量に名前が怯む。白を基調とした無機質なこの部屋に真っ赤なハイヒールは良く映える。カツン!とそれを威嚇するように打ち鳴らし篠宮スミレは腕を組んだ。
因みに五条は彼女が入って来た時点で名前から距離を取って肩を竦めながら我関せずを貫いている。

「ええと…どうして此処に?」

「いい、苗字。コネとお金は使う為にあるのよ」

「はあ…?」

イマイチ要領を得ないやりとりに名前の中で疑問は増すばかりだ。
「……貴女それ、どうしたの」上から下まで品定めでもするように視線を往復させた篠宮が口にしたブランド名に名前は一瞬頭が真っ白になった。もしそれが本当なら名前が今身に纏っているワンピースはとてもじゃないが普段着にするモノではない。名前の金銭感覚は世間一般と同程度なので桁を想像して思わず震えた。
死んだような目で五条へと視線を向けた名前を追って、篠宮は一人納得したように頷いた。名前との付き合いはそれなりだが今までスーツ姿しか見た事がないのだ、だから第三者の介入があったとなれば納得する他ない。
相手が自分より確実に年上であっても、彼女が態度を崩す事はない。ふうん。五条を見つめて篠宮はたった一言告げた。

「悪くないわ」

「はは、それはドーモ」

その“悪くない”が五条の容姿に対してなのか彼のセンスに対してなのかは彼女にしか解らないが、どちらの意味であっても五条の返答は変わらなかっただろう。
それっきり興味をなくしたようで再び名前に向き直った篠宮は固まる彼女の手を掴む。

「いつまで突っ立っている気なの?時間は有限なの。急いでちょうだい」

「もしかしてお仕事ですか?」

「…あなた、“あの子”から聞いてないの?」

「すみません。つい先ほど意識が戻ったばかりでして…」

道理で話が噛み合わない訳だと呆れたように大きな溜息が吐かれた。あの子という言葉が差す人物はマーモンしか居ない。そして篠宮スミレ相手の仕事となると十中八九護衛任務だ。
「何処までお供すれば宜しいので?」子細は知らずとも察しの良い名前のその言葉に彼女は満足そうに口角を上げた。

「まずは表参道。折角新作を見ようと思っていたのにアレの所為で予定が台無しになったから仕切り直しよ」

「普通に死にかけていたのによくお買い物に行こうと思いますね」

「もう過ぎた事でしょう。家で缶詰めになっていたって何の意味もないわ。お父様の許可は取っているし、その辺のボディーガードが如何に役立たずなのか今回の件でよ〜く解ったの。だから傍に置くなら貴女って決めたのよ。何か問題ある?」

「いいえ。お仕事ですからね、命に代えてもお守り致しますよ」

掴まれている手を緩やかに握り返すと篠宮がグッと唇を噛んで思い切り顔を背けた。──耳が薄っすらと赤く染まっている。
相変わらず素直じゃないなあと微笑んでいると「何よ!」と鋭い目が名前を睨み上げた。「着替えたいので少しだけお時間頂けますか」当然のように言われたその言葉に篠宮ははあ?と語尾を高くする。

「いいじゃないそのままで」

「護衛には不向きですよ」

「スーツ姿の“如何にも”って女に付き纏われる私の身にもなりなさいよ」

「ええー?今までずっとスーツだったじゃないですか」

「とにかく!今日はこのまま!いいわね」

う〜んと渋りながらも最終的には雇用主の言葉には逆らうべきではないと判断したのか大人しく名前は頷いた。
恰好がどうであろうと有事の際に動けないようであればヴァリアーを名乗る資格はない。
早く行くわよ、と背を向けた篠宮にぽつりと名前は問いかける。

「…スミレさん、この依頼っていつしたんですか?」

「昨日の夜よ。…それが何?」

「いいえ」

漸くすっきりとした。喉の奥のつっかえが消えたような感覚に名前は肩の力を抜く。今自分が生きていられるのは単なる偶然に過ぎない。もし篠宮がマーモンへ依頼をしなければ、その依頼をマーモンが断っていたら。名前は確実に昨日死んでいた。恩情などではなかった。まだ己に生きる価値があるのだと知らされたようで無性にホッとした。
彼も名前と篠宮のやりとりで気が付いた筈だ。意味深に名前へと向けられる五条の視線に応えるつもりはない。
鬱陶しそうに入校証を外しながらドアを開けた華奢な背中を追いかける名前に「またね」と軽い声が掛かる。“また”などある筈がない。返事の代わりに振り返ると、閉まりつつあるドアの隙間から名前は確かにこちらを見つめる蒼い片目と目が合った。

21.04.12
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