揺れて目を覚ます


「生きてる……」

そう呟いた筈の言葉は酷く掠れていた。頭上で光る電球の味気ない薄橙を見上げながら生きている事に対して悦びよりも先に疑問が脳内を飛び交った。恩情では決してない筈だ。──そんな事、あってはならない。名前は真っ白いシーツを握った。そんな生易しい関係ではないのだ、マーモンと名前は。
カツカツとヒールが床を叩く規則的な音の後、色味のないカーテンが勢いよく引かれた。恐らく先程の名前の声を聞いていたのだろう。
右目の泣きぼくろと濃い隈が特徴的な女性だった。「起き上がれるか?」抑揚のない声が唐突にそう問いかけた。返事の代わりに名前はすっかり修復している腹に力を込め重い身体をゆっくりと起こした。くらりと一瞬眩暈がしたのはずっと横になっていたからか。
軽く息を吐いた名前の目の前に紙コップと小さなプラスチック製の桶が差し出される。初対面の相手に対し、随分と優しい心遣いだ。気怠げな雰囲気を漂わせておきながらも薄情という訳ではないらしい。親切心に感謝をしながら水の入った紙コップに口を付けて名前は思った。
咥内で少量含んだ水をグヂュグヂュと音を立ててこびり付いたままの血を洗い流す。ぺっと桶に吐き出すと透明な水は薄赤に染まっていた。何度かそれを繰り返し、漸く喉までの不快感が消えた頃合いを見計らって女が名前の手からそれらを攫っていく。「ありがとうございます」やっと言葉と呼べる程度の声量が出た。嫌な顔ひとつせずにこちらを振り返った瞳は凪いでいる。

「調子はどうだ?」

「まだ少しぼんやりしますが何とか」

「足は」と端的に述べられたそれに思い出したように名前は勢いよくシーツを捲った。ぱちりと時間を掛けて瞬きをひとつ。
曝け出された足には爛れひとつなかった。唯々いつもの見慣れた足先がじっとそこに鎮座している。あまりにも違和感がなかったからすっかり忘れていたが、膝から下が腐り落ちていてもおかしくない状態だった筈だ。力を入れれば足先がぐっと曲がり、膝も立てられる。当然痛みもない。
「その様子じゃ大丈夫そうだな」名前からの返事がなくても気にせずに動きをじっと見ていた女が白衣のポケットから手を出して顎先に触れながら呟いた。その佇まいから五条悟が言っていた“治せる人間”とは彼女の事なのだろうと漠然と名前は思った。

「申し遅れました、苗字名前と申します」

「家入硝子。呪術高専で医師をしている」

「…お世話になったようで、本当にありがとうございます」

「仕事だからな。そう畏まらなくていい。足の方は問題なく治しておいたけど、腹部の方」

指さされたその行為に名前は肩を強張らせた。きゅっと喉元が締め付けられたように苦しい。名前の中の幻術は言わばマーモンと名前の絆の表れだ。
「それは私には如何にも出来ない」──続けられたその言葉に心の底から安堵した。
幻術が変わらずそこに在るのは解ってはいたが、何かしらの介入をされていたら正気ではいられなかったかもしれない。それくらいこの絆は名前にとって大切なものだった。

「傷もないのによくお分かりになりましたね」

「ああ、そこだけ“流れ”が違ったからね。どういう原理なのかは知らないけど、そこまで私がお節介を焼く義理はないから」

深入りするつもりはないと白衣に手を突っ込みながら告げられた言葉に突き放すような冷たさは孕んではおらず、名前は飽く迄部外者、己の職務は全うするが余計な詮索はしないという意思がはっきりと見て取れた。明確に線引きをしている態度はこれまでに会った高専の人間の中で一番好感が持てた。
「この服、」不意に浮かんできた疑問。視線を下へ落としながら名前は思ったままを口にする。

「家入さんのものですか?それとも高専の方が用意してくれたものですか?」

「……此処に運ばれて来た時には既にその恰好だったけど」

「──え?」

名前は眩暈も忘れて思い切り顔を上げた。聞き間違いであって欲しかった。一縷の望みは呆気なく砕かれ、考えたくもない残る可能性に絶望をありありと顔に滲ませた名前を見下ろしながらすべて察してしまった家入は「あのクズ」と少しだけ表情を崩した。
真っ白い生地の七分丈のワンピースは膝より少し上の丈でやや短さを感じるものの下品さはない。肩には大きな花をモチーフにした刺繍が施されており、肌触りもよく寝ていたにも拘らず皺ひとつなかった。
己の身に纏う見覚えのない清楚なワンピースを呆然と見つめながら名前は頭を抱える。「……それで、あの人はどこへ」絞り出すような声だった。会って間もない赤の他人ではあるが流石に同情の念を禁じ得なかったようで家入の細い指先が慰めるように肩を撫でた。

「あいつなら学長に報告しに行ったからそろそろ──」

「いやぁ参っちゃうよね〜。学長ったら相変わらず話が長くてさぁ。それで具合はどうー?」

家入のそれは派手な音を立てて開かれたドアと能天気な声に掻き消される。噂をすれば。煩いのが来たと家入が面倒臭さを隠そうともせず怪訝そうな顔で五条を見た。
意識が途切れる前と寸分違わぬ姿の五条悟が片手を挙げながら悠然と微笑んでいた。
不意に名前の肩に触れていた指先の感覚が消える。それに気づいた家入が視線を下ろした時には距離を詰めた名前が五条に上段回し蹴りを入れるところだった。
情報処理が追い付かずぽかんと血色の良い唇を薄っすらと開けて立ち尽くす家入の視線の先では蹴り上げた名前の太腿に手を当てた五条がへらへらと笑っている。

「お、元気そうじゃん。ちゃんと治って良かったね。流石硝子〜」

「……おまえ、さっさと謝ってやれ」

「え?なんで?」

すっ呆けている訳ではなく、心底理解出来ないという表情を浮かべた五条に家入は意図的に目線を逸らした。どうやら彼女は存在自体を視界から消すという選択をしたらしい。我関せずで乱れたシーツ片手に背を向けた家入にこれ以上絡む事はせず、五条は目下眼光を鋭くして今にも噛みつかんとしている様子の名前にずいと顔を寄せて意地悪く笑った。

「こんな短いワンピースで蹴りなんてパンツ見てくれって言ってるようなもんだよ」

「…ど、どうして、服、サイズも……」

「んん〜?だってあんなボロボロの服着せる訳にいかないでしょ?サイズは脱がしたの僕なんだから見りゃ大体分かるよ」

段々と小さくなっていった言葉もこの至近距離でなら拾う事は造作もない。
「……っ」と声を詰まらせて赤く染めた頬を揶揄うように長い指先がなぞり上げた。昨日と打って変わって随分と可愛らしい反応をするものだと胸中思いながら五条は掴んだままの剥き出しの太腿に意識を向けた。陶器のようなハリを持ちながらも指先にしっとりと吸い付くような柔さは癖になりそうだ。
どうも名前のこの反応は自分の奥深くに巣食う加虐心をじくじくと刺激する。ぶるぶると小刻みに震えてすっかり大人しくなってしまった彼女を五条は難なく抱え上げた。

「はいはいベッドに戻りますよ〜。まだ病み上がりなんだから大人しくしてないと。ね?」

借りてきた猫のようだと喉を鳴らして五条は名前の寝ていたベッドの前へ移動した。彼の長い足ではたった数歩の距離だ。
ベッドの縁へと下ろすとギシッとスプリングが小気味好い音を立てた。それに合わせて家入が大きな紙袋を持って来て彼女の前に差し出す。ずしりと見た目以上の重みを持つそれは中を見てすぐに納得した。綺麗に折り畳まれた隊服、ブーツ、髪留めの赤いリボン、武器一式すべて揃っていた。駄目になったスーツは恐らく処分してくれたのだろう。

「ありがとうございます」

「うん」

ここで漸く名前は素直な気持ちで五条に御礼を言えた。満足そうに笑う五条の腕を無表情の家入が掴む。

「おまえはあっち」

「え?なんで?」

「ずっと見ているつもりか?察しろ」

「え?だめ?」

「クズが」

有無を言わせずカーテンがきっちり閉められた。本当に出来た人だと手を合わせ、名前はホルスターを太腿へ装着した。

21.04.02
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