そして滑り落ちるように


「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え」

不敵な笑みを浮かべてこちらを見下ろす五条が聞き覚えのある言葉を唱えるのを名前は黙って見ているしか出来なかった。初雪のように真白な睫毛の翳りが如何にも良からぬ色を彷彿とさせて耐え切れず名前は意図的に目を逸らす。
「帳にはこんな使い方もあるんだよ」もう逃げらんないね、とにこやかに笑う顔がこの上なく恐ろしい。試してもいいけど痛いよ。どうする?とやけに口の回る五条とは対照的に名前は一言も声を発する事はない。
痛い痛くないは別として帳というものがどんな効果を齎すものなのかが不明瞭な現状、どちらにせよ安易に触れる事は出来ない。下半身も碌に言う事を聞かないし退路はこれで完全に断たれた。人工的に創り出した夜を背景に五条悟は星のようにきらきらと瞳を輝かせて何処までも無邪気に嗤う。

「黙ってたらお喋りにならないでしょ。ほら、何か言って」

「……何が、知りたいのですか」

「定番の“ご趣味は?”なんてどう?」

それこそ趣味の悪い冗談に思い切り顔を顰めた彼女の反応を大層お気に召したようでくつりと喉が鳴る。こんな下らないじゃれ合いに付き合っている程暇ではない。いい加減退いてくださいとそれが言葉に成るより早く異常なまでに整った顔がグッと近づいてきた。
咄嗟に顔を横に向けてそれを回避した名前は剥き出しの首筋を無遠慮に這うざらつた舌の感触に短い悲鳴を上げて身を竦ませた。しっとりとした白髪が視界の隅で揺れている。


「どうして僕に助けを求めなかったの?」


首筋に吹きかけられた熱い吐息と共に問われた言葉に、すぐには答えられなかった。
空いている手が驚く程優しく包帯の上をなぞるものだから、まるで「もっと早く呼んでくれたらこんなに傷つく事もなかったのに」と言われているようで不思議な気持ちになった。
どうしてかと言われたら、明確な答えは正直持ち合わせていない。目の前の呪霊に必死でそこまで思考が追い付かなかったというのもあるし、単純に誰かに助けを求めるという行為に慣れていないのもある。危なくなった時に手助けをしてもらえる程、名前は優しい環境で生きてこなかった。自分を含め、身を挺して同僚を助けようなどという気は申し訳ないが毛ほどもない。死んだらそれまで、空いた席に誰かが座る。そこはお互い様だ。強ければ生き、弱ければ死ぬ。誰かに助けを求められる状況はある意味幸せな事だ。「忘れていました」そんな事を考えながら名前は素っ気なくそう答えた。
ふーん、と自ら訊いておいてまるで興味がないという風な相槌を打って、顔を上げた五条は見透かすようにアイスブルーの瞳を細める。

「君にとっては等しく命は軽いものなんだね。──自分の命さえも」

「……たった一人を除いては」

「…嗚呼、だからあの時自分だけでなく大事な仕事も簡単に投げ出したんだ?」

口元は機嫌良さそうに笑っているのに、瞳は何の感情も宿してはいない。それが酷く不気味に映った。
随分と良く見ていたものだといっそ関心すら覚えた。ヴァリアーに於いて任務の失敗が何を意味するのかを知っていて、ああいう言い方をしている。
五条は恐らく名前がないよりマシだと幻術を篠宮スミレにかけたのにも気づいている。結果的に任務は成功、彼女は無事ではあったが、結局呪霊に幻術が有効だったのかは謎のままだ。
節くれ立った指先がシャツの上をゆっくりと這い、臍の下あたりでぴたりと止まる。何かを確かめるように服の上から皮膚を押す不快感に眉間に皺を寄せる名前を無感情な瞳が捉えた。


「オマエ、普通なら疾っくに死んでる」


鼓膜を揺らす一段階低い声のトーンにぴくりと拘束されている手が僅かに反応を示した。カマかけでも憶測でもない、恐らく“視えている”。名前の身体の中に在るモノも幻術だ、最初から五条悟の目には彼女が別の生き物に見えていたのかもしれない。それくらい科学的にあり得ないモノで苗字名前は今現在もこうして生きていられるのだから。

「任務よりも自分の命よりも大事なあの子と君のその身体、どう関係があるのか教えてくんない?」

「…立派な“約束”違反ですよ」

「その約束をしたのは上層部とでしょ?僕はしてないから無効でーす!」

「私がペラペラと喋るとでも?」

ぷつりと音を立ててシャツのボタンが2つ弾け飛んだ。目を見開いて身体を硬直させた名前をククッと喉の奥で笑って五条は口角を上げる。

「随分とウブな反応だけどこんな仕事してんだしハジメテじゃないっしょ?それとも乱暴にされるのは初めて?優しくして欲しかったらちゃんと言ってね」

前屈みになった五条が徐に己の膝を包帯の上に宛がい遠慮のない力を掛ける。抉られるような痛みに肌が粟立ち名前は唇を噛んで無理矢理声を殺した。歯が唇を傷つけ咥内に鉄の味が広がるがそんな事を気にしている場合ではない。薄っすらと目に溜まった水の膜を見て五条はうっそりと息を吐いた。

「この傷はさ、“呪い”がかかってるから普通の怪我じゃないんだよね」

「…つまり、」

呪術師(僕ら)じゃないと治せないって事」

無遠慮に傷をぐりぐりと圧迫する足が退けられても痛みはすぐには治まらず、脈打つように悲鳴を上げる患部を労わってもやれない。
反吐が出るような軽薄さ、ここまで追い詰められても尚彼女に屈するという選択肢はない。

「……でも、貴方に治す事は出来ない」

「あれ、どうしてそう思うの?」

「帳もそうですけど、やり方がまどろっこしいです。私が目を覚ました時点で怪我の話を引き合いに出せば良かったじゃないですか。足の現状を把握させた方が効果はよりあるのに態々応急手当をしたのも解せません」

「う〜ん。ま、正解かな。僕は他人は治せない( ・・・・・・・ )。でも、治せる人のところに君を連れて行けるのは僕だけだから同じ事でしょ」

「…治してくださいとは言っていません」

「なんで?このままだと最悪足腐り落ちるよ?ね、“助けて”ってお願いしてみなよ」

まるで子どものようだと熱に浮かされ鈍る思考の中名前はそう思った。何故ここまで固執するのか、彼女には理解が出来ない。
「…くだらない」単なる気紛れか、気の強い女をねじ伏せたいという卑俗な性癖でもあるのか兎に角名前はこれ以上五条に付き合う気はなかった。
「そ、じゃあ再開ね」するりと剥き出しの太腿を撫でた手がシャツを捲り、指先が下着の紐をゆっくりと解いた。

「……五条さん」

「なぁに?」

「今から貴方が一番嫌がる事をします」

五条悟に他人の傷は治せない。それを聞けただけで僥倖だった。この期に及んでまだ抗う気らしいとまるで何処までも懐こうとしない野良猫を相手にしているみたいでその言葉に少しだけ笑った。
「マーモン」と血の滲んだ唇がこの状況下で別の名前を紡いだ。別の人間の名を呼びながらも、名前の目は真っ直ぐ五条を見上げている。漆黒の瞳に浮かぶ明らかな拒絶の色はもう揺らぐ事はない。


「殺してください」


一瞬身体を駆け抜けた「何か」に五条は反射的に名前から手を放し身を起こした。不気味な気配は確かに名前の“中”から感じたものだ。
ごほっと名前が大きく咽込んだ瞬間、風船が萎むように異常な速度で下腹部が凹んでいった。真っ白なシーツに血が迸る。口から零れ落ちる血は止まる気配がない。ひゅう、という呼吸音で漸く五条はその事態の深刻さに気が付いた。

「ッおい!」

「……あ…た、に、好き…され、るなら、死…ほ…がマ、シ」

「…クソ、ナメやがって」

名前の内臓の殆どが幻術で創られている事は初見で見抜いていた。問題は、彼がそれを彼女自身が創っていると思っていた事だ。
五条は反転術式を他人に使えない。それ以前にシャツの上からでも見て取れる、その異様な凹みは今から病院に運んだとしてもどうこう出来るレベルの話ではない。
やられた、と今度は五条が唇を噛み締める番だった。帳を上げ、虫の息の名前の傍らでどうするか思案する五条は第三者の気配にぴくりと肩を揺らした。

「やあ、五条悟。邪魔してるよ」

「……オマエ」

ソファの肘掛けの部分に腰を下ろしたマーモンが抑揚のない声でそう言った。深く被るフードで顔の半分が隠れてしまっている為その表情は窺い知れないが怒っているような雰囲気ではなかった。寧ろその逆のようで、その態度が五条の神経を逆撫でする。

「思い通りにならない人間は詰まらないだろう」

「これから良いとこだったのに邪魔しておいてよく言うよ」

「残念だけど、名前は君のオモチャじゃないよ」

ぱちん、とマーモンが指を鳴らすと名前の腹部が見る見るうちに修復していく。意識は戻らないが呼吸も安定し、吐血も治まった。

「名前は僕の為に生きて、僕の為に死ぬ。そこに君が入り込む余地はないよ」

「子どもの執着はコワいねぇ。こうやって命握って服従させてるだけでしょ」

「好きに捉えればいいさ。君が本当の事を知る術はないんだから」

「…かっわいくねぇガキ」

フンと鼻で笑って一蹴して、マーモンは素知らぬ顔でサイドテーブルのタブレットを手に取った。こんな状況下でもすべき事はきちんと終わらせている彼女をマーモンはそれなりに評価している。
「ああ、一応言っておくけど」くるりと振り返ったマーモンの指先が血の気のない名前の身体を指し示す。

「殺さなかったのは君への牽制じゃないよ。その子への恩情でもない。ちょうど今しがた生かす理由が出来たから殺すのを止めただけ」

「あー、萎えるねホント。可愛げもクソもあったもんじゃない」

「それは何よりだよ。意識のない女を抱く趣味が君にあるならそれはそれで結構だけど、金はきちんと貰うからね」

五条の返事は待たず、瞬きの間にマーモンは名前を残したまま姿を消した。
口の端についた乾きかけの血を指の腹で拭ってやりながら血塗れのシーツをフロントにどう説明するか悩む。ふとサイドテーブルへ目線を移すと一枚のメモが置いてあった。振込先と請求金額の書かれたそれに言葉より先に舌打ちが飛び出し、五条は思い切り枕をぶん投げた。

21.03.27
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