弱さが招いた悪夢


ぴくりと瞼を痙攣させ、小さな呻き声と共に名前の意識は覚醒した。ぼんやりとした視界が徐々に周りの景色をはっきりと映し出し見慣れない天井の壁紙に勢いよく上半身を起こす。
は、と浅い息が動揺から零れた。恐らくホテルであろうそこはマーモンと名前が宿泊した場所のものではない。一体何があったと記憶を辿る中、さらりと髪が肩から流れ落ちた事で結んでいた筈のリボンが解かれていた事に気付く。
赤いリボンはすぐに見つかった。サイドテーブルにご丁寧に纏めて置かれている。その隣には備え付けであろうペンとメモ用紙があったが手に取らなくてもそれが白紙であるのはここからでも確認出来た。

見知らぬホテルの一室、名前の他に気配はない。気を失う前の記憶から此処に運んだのはマーモンではない事は明白だった。
取り敢えずベッドから降りようとしてある事に気が付いた名前は勢いよくシーツを捲る。そして目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。まず、己が身に纏っているのがシャツ一枚であるという事。武器の一切が手元にない事。──膝から足の先まで真っ白い包帯で包み込まれている事。しっかりと巻かれたそれは“彼”が処置してくれたのだろう。
流石にシャツ一枚は…と複雑な気持ちにもなるが、スラックスは恐らく再び履ける状態ではなかっただろうからここは目を瞑るべきだと早い段階で名前は諦めをつけた。治療での過程の事だし、いい歳をして騒ぐ方が恥ずかしい。
患部がどうなっているのか目視だけでは断定は出来ないがそこは包帯の上からでも分かるくらい異様に熱を持ち、少し動かそうとするだけで激痛が走る。怪我の具合が軽いものではないのは火を見るよりも明らかだ。濃度は不明だが浴びたのが酸なら包帯の下の皮膚は目も当てられないくらい爛れてしまっているのだろう。
元の皮膚に戻せるかはヴァリアーに居る同僚の力量次第ではあるが、期待はしない方がいい。最悪移植でも何でもして動けるようになれば見てくれは幻術で如何とでも誤魔化せると“自分”の事に対してはてんで無頓着な名前は包帯から目を逸らして部屋を見渡す。

「……報告書」

ぽつりと思い出したように呟き、思うように動かない身体を無理矢理引き摺ってベッドの縁へと腰かける。奥のテーブルの上に彼女の所持していた武器と隊服が見えたのでそこだろうと目星をつけ、這いずりながらそこまで行けばいいかと前のめりになった時だった。
ぐ、と腹部に予期せぬ圧迫感があり、左肩に不自然な重みが掛かる。ぞわ、と背筋を冷たいものが駆け抜け名前は目を見開いたまま身体を強張らせた。
ガサリと大きな紙袋が雑な音を立てて床に放るように置かれ、その動きに合わせて初めてスプリングが鳴った。

「ダメだよ、勝手に動いたら」

「……っ」

気配がまったく分からなかった。その事実は名前を酷く混乱させた。こんなに近寄られるまで気付けなかった。外傷を負って意識を取り戻したばかり、思考が鈍っていたとは言え、一介の殺し屋がこうも簡単に背後を取られるなどあってはならない事だ。
ぴくりとも動かない彼女の身体を五条は片腕で楽々とベッドの上に引き上げると俯いたままの顔に手を当て頬に貼られているガーゼを労わるように撫でる。

「はは、ウケる。お化けでも見たような顔してるよ」

「……」

言いたい事も訊きたい事もあるにはある。「…タブレット、持ってきてもらえますか」けれどその全てを消化不良のままで良いと切り捨て、要求だけを色の悪い唇が紡いだ。
「いいよ」と軽い返事と共にあっさりと解放され、そこでやっと名前は肩の力を抜いた。得体の知れない者に背後を取られ続けるのは唯々心臓に悪い。



***



「このミミズ文字なに?」

「アラビア語です」

「これは?」

「トルコ語、その下はフランス語です」

「は〜?全然読めない」

「それは何よりです」

読まれたら困るので、と抑揚のない声に構わず五条は興味津々で名前の手元のタブレットを見続けていた。けれど、そうやって比較的大人しくしていたのも数分の事。どう頑張っても一単語も理解出来ないと知るや否や早々に見切りをつけたようで今度は退屈そうに名前の肩に顎を乗せる。
ベッドの上で長い足を放り出し、その間に名前を置いて無抵抗なのを良い事に彼は好き勝手し放題だ。背後の鬱陶しい男の存在は取り敢えずなかった事にしようと決めた名前は肩に乗せられた顎の重さも腹に回る重苦しい腕にも全て我関せずを貫き只管タブレットを弄っている。
盗み見されたところで何も問題はない。先程のやり取りの通り、余程の語学力がない限りはこの読解は容易ではない。ヴァリアーの入隊条件のひとつに最低でも7ヶ国語以上の言語の理解が必要というものがある。今現在名前が書いている報告書は6ヶ国語がランダムで混ざっており一見しただけではどこの国の言葉なのかすら解らない。メジャーなものからマイナーな国の言葉が巧みに混ざり合う文章はそれだけでも十分暗号の役割を果たしている。
後ろでペラペラと喋り続ける五条に名前は相槌どころか見向きもしない。傍若無人な態度に顔色一つ変える事無く最初に「無駄な事はしません」と言ったきり碌な抵抗を見せない彼女に五条が目隠しを下ろしながらさてどうしてやろうかとほくそ笑んでいる事を名前は知らない。

「名前って結構大胆だよね」

タブレットの電源を落としたところで耳元へ意図的に囁かれた低い声と、剥き出しの太腿をなぞるように触れる人差し指。
「はあ?」と語尾が上がったのは一言で表すのなら“不快感”。名前を呼ばれた事、不躾な態度──こんな短時間で他人を振り回せる人間もそうは居るまい。
眉間に皺を寄せながら振り返った名前の頬に薄い唇が寄せられる。ちゅう、とワザとらしく立てられた音に身震いした。涼やかなアイスブルーの瞳が愉しげに細まる。

「あれ、てっきりこのまま好きにさせてくれるのかと思ったんだけど」

「倫理観どうなっているんですか」

「抵抗出来ない子をどうにかする趣味はなかったんだけど、君相手なら悪くないかなって今思っているところ」

盛大に顔を顰めて視線を逸らし、名前は腹に回る腕を乱暴にどかしてサイドテーブルにタブレットを置く。覚束無い膝立ちでどうにかバランスを取っている名前の背後に回った五条が指通りのよい髪を掬い上げて露出させた耳に意地悪く呟く。

「トイレに行きたいなら言ってね。手伝ってあげるから」

この足じゃ一人で行けないもんね、と続いた言葉にぷつりと名前の中で何かが切れた。人の事をとやかく言えた義理ではないが、人間性というものが余りにも欠落している。デリカシーもクソもない。
一度だけ深呼吸した名前は動けないだろうと下に見ている隙を利用して振り返り際右肩に思い切り体重を掛けた。ベッドの上という不安定な足場という事も相俟って呆気なく五条の身体が傾きそのまま倒される。右肩を片手で押さえ付けたまま馬乗りになった名前は右手を大きく振りかぶった。

「ざんねーん。いい動きしてたけど、当たらないんじゃ意味ないよね」

「この…っ」

ギリ、と奥歯を噛み締め喉元まで出かかった罵声を無理矢理呑み込む。「女の子に押し倒されたのっていつ振りだったっけ」と飄々とした態度を崩さない五条が死ぬほど憎らしい。
眉間目掛けて躊躇なく振り下ろされた筈のボールペンは数センチ手前で止まったままぴくりとも動かなかった。屠坐魔の時と同じ現象だ。
ぐらりと視界が大きく揺れた。「熱あるのに無茶したらダメだよ。コレ没収ね」呆気なくボールペンは奪われ乱暴に投げ捨てられる。床に敷かれている分厚いカーペットの所為で落下音すらしない。手の届く範囲に凶器になりそうなものはもうなく、その様子では素手で首をへし折る事も叶わない。
「そういえば」するりと五条の手が太腿を這い上がり辛うじてシャツに隠されている下着を撫でた。

「いつも履いてるの?紐パン」

「は…、」

結び目に指が引っ掛けられる。ゾッとする程綺麗な顔立ちの男から零れたその言葉は名前の思考を奪うには十分すぎた。
右肩を押さえつけている手首を大きな手が包み込みグッと横に引っ張る。下着に触れていた手がいつの間にか腰を掴んでおり、成す術なくそのまま倒された。「形勢逆転だね」愉しそうな声が真上から降ってくる。両手は頭の上で一纏めにされて片手で押さえ付けられている為身動き一つ取れない。

「さて、と。ゆっくりお話ししよっか」

性差をまざまざと見せつけられ、視界いっぱいに広がる暴力的なまでに美しい風貌に恐怖すら覚えた。

21.03.24
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