ヘイトのお時間


洋館に足を踏み入れてから肌を撫でるような悪寒が止まらない。空気が重く、何かが蠢く大きな気配がする。目の前に「それ」が現れない限りは何処にいるのか名前には全く解らないが、人間よりも質が悪いものだと直感が告げている。
「その突き当りを右に曲がってすぐの部屋だよ。令嬢の他に3人」肩に乗ったマーモンが名前へ手短に指示を出す。五条という非マフィアが同行している手前リングや匣といった特殊兵器を使用する訳にもいかずもどかしさからつい溜息が漏れてしまう。道すがらそれなりの人数を相手にしてきたが一体あと何人居るのやら。蛆のように湧き出る手応えのない人間を相手にするのにも飽きてきたというのが本音だ。
ヴァリアーは少数精鋭部隊であるが故に、任務に於いて個人へ掛かる殺し(負担)は毎回多い。しかし此処まで骨がないとただの弱い者虐め、モチベーションが下がるのも致し方ない。

「あ」

「…いるね」

ペタペタと壁を這う蜥蜴のような見てくれの「それ」。声に反応したのか首があらぬ方向へと曲がり、ぎょろりとした目玉が不気味に細まってケタケタと嗤い声が響く。手にしている拳銃で頭部に一発発砲するが粘土のように弾が吸着し、血が吹き出る事もない。呪霊に武器が効かないというのは本当らしい。ならばと名前は屠坐魔を構え、躊躇なく距離を詰めた。
今度は確かな手応えがあった。肉を切り裂くリアルな感触と錆一つない刃に付着する人間ではあり得ない色の血液。ひとつ上がった奇声を最期に不気味な身体はみるみる崩れて消えていった。周りに気配のない事を確認してから素振りをして付着した血液を薙ぎ払い再びカバーを装着、目的の部屋の前で2人は立ち止まる。
こくりと小さく頷いた後、パチン、とマーモンが指を鳴らして中の窓を割る。派手な音と共に見張りの男の動揺の声を捉え、透かさず足でドアを蹴破って銃口を向けた。相手に得物を構えさせる隙は一切与えない。最低限の銃弾で息の根を止め、手錠で拘束されたまま床に転がされている華奢な身体をゆっくりと起こした。マーモンの超能力で手錠が一瞬で捻じ曲がり呆気なく床に落ちる。手首に指を当て脈を確認し、同時に外傷や衣類の乱れまでを目視で流れるようにチェックし名前は安堵の息を漏らした。

「見たところ問題なさそうだね」

「そのようで」

「……ぅ」

名前が隊服を脱ぎながら屠坐魔を傍らに置き、小さく呻いた彼女に掛けた。薄っすらと開いた瞳は焦点が合っておらず、天井をぼんやりと見つめている。
「スミレさん」彼女の右手をそっと握りながら名前を呼ぶと、ぴくりと指先が震えた。

「苗字……?ゆめ…?どう、し…」

「ご無事で何よりです。どこか痛いところは?」

「あたま、ぼーっと…する」

呼吸の仕方や瞳孔の開き具合から違法薬物による中毒症状は見られないので恐らく一時的なものだろうと判断し、名前は篠宮の身体を抱えて立ち上がる。苗字と譫言のように彼女を呼ぶ声に名前は目を細めて安心させるようにゆったりと微笑む。

「もう大丈夫ですよ、だからまだ寝ていてくださいね」

「ひとり、にしな…で、」

「お傍に居りますから。大丈夫です」

大丈夫、大丈夫とまるで小さなこどもに言い聞かせるように囁くと名前を見つめる丸い瞳が緩やかに閉じていく。次に彼女が起きた時は見慣れた自宅のベッドの中でなければならない。大元は未だ始末出来てはいないが彼女を抱えたまま動くのはリスクが高すぎる。
割れた窓から一度外へ出て待機している部下に彼女を託そうと窓辺に近づいた時だった。ズン、と下から突き上げるような大きな揺れを感じ、名前とマーモンはぴたりと動きを止めた。
「…地震じゃなさそうだね」マーモンの小さな手が振り上げられたのと彼女たちの足元に大きな亀裂が走ったのは同時だった。けたたましい轟音が鼓膜を震わせ、足場を失った身体が重力に従って勢いよく落下していく。人ひとり抱えていながらも器用に受け身を取って着地した名前は漂う気配に身体を震わせた。──居る。
真っ暗な闇は数秒もすれば目が慣れた。先程の蜥蜴とは比べ物にならない、ぞわぞわと背筋を這う死を連想させる圧。蠢く「何か」の足元で散乱しているモノは名前たちが始末する筈の残りだった。

「マモちゃん、スミレさんを──っ」

「名前!」

足首に巻き付いたモノが名前を思い切り引き寄せ、体勢を崩しながらも抱えている彼女をマーモンの方へと放り、屠坐魔のカバーを投げ捨てる。ぎらりと光る現れた刀身を彼女は迷わず振り下ろした。骨のような芯の硬さはなく、まるでハムを切ったような感触だった。
鼻を掠める焦げ付いたような臭いとじくじくと痛みを訴える足首に眉間に皺が寄る。ぬるりと現れた呪霊は幾本もの吸盤がついた蛸足を持つ化け物だった。ボールのように膨らんだ巨体の側面には人間の身体のパーツと思しきモノが飾りのように付いている。


《ア"ァア…イ…ィタァイ》
《イヤァア"ア──》
《ィタ…クルシ…ゥ》
《…ドコ、ママ…カエ、リ》


四方八方から漏れる言葉とも形容し難いそれに視界が霞む。先程の呪霊とは比べ物にならない威圧感と禍々しい空気。ギョロギョロと忙しなく回る大きな目の玉が名前を捉えた。彼女が呪霊の持つ雰囲気に気圧されたのはそれが最後だった。
ふう、と深呼吸をひとつ。相手が人間であろうとなかろうと、己が成すべき事に変わりはない。霧が晴れたように頭の奥がすっきりとして視界が開ける。指先から足先に至るまで神経を研ぎ澄ませ変則的な動きで伸びてきた蛸足を躱し迷うことなく切断していく。頬に付着した返り血が痛い。
ぽたぽたと先端から零れている体液は恐らく酸の一種だ。触れても捕まってもいけない。手際よくそれらを切り落しながら後退した名前は、壁に凭れ掛かる篠宮の前で静止した。出入口は崩れた瓦礫で埋まってしまった為上から出るしかない。幸いにも目で追えない速さではないので名前が時間稼ぎをしている間にどうにかなるだろう。

「マーモン、スミレさんを連れて上に」

ひゅ、と名前は息を呑んだ。影に紛れてもう一匹、首が異様に長い呪霊がマーモンのすぐ傍まで迫っていた。彼女は判断を迷わなかった。マーモンを護る為に投げられた屠坐魔は狙い通りその呪霊の首を容易に刎ね、黒い靄が燻ぶりながら形を失っていく。
意識のない篠宮には目も呉れず名前は幻術で彼女の存在を隠しながらマーモンの前に立ちはだかった。伸びてきた蛸足が標的を名前へと変え、今度は両足膝までぐるぐるとそれが巻き付き思い切り身体が本体へと引っ張られる。逆さ吊りにされながらも、マーモンが彼女を抱えて離脱するのを確かに見届け場違いにも肩の力を抜いた。
距離が近くなった事で呪霊の「叫び」がより鮮明に聞こえる。

「…言いたい事があるなら一人ずつ(・・・・)にしてもらえませんか」

うんざりしたような嫌味は通じているようには見えない。ジュウ、と皮膚の灼ける嫌な音と襲ってくる痛みにぐっと歯を食い縛る。
幸いにもこの呪霊は目の前の餌に集中する事にしたらしく蠢く蛸足もマーモンを追う気配はない。──そして現在進行形で高みの見物をしている五条悟が動く気配もない。マーモンも気付いてはいるだろうが彼に助けを求める事などしないだろう。
「助けてあげてもいい」そう言い放った憎たらしい程に整った顔立ちを思い起こして胸が悪くなる。──そんな醜態を晒すくらいなら死んだ方がマシだ。
目玉のすぐ下に切れ目が入り、横に大きく裂ける。そこから覗くギザギザの歯を見て嫌な想像が脳裏を過り名前は盛大に溜息を吐いた。もう抵抗しないと踏んだのか、そこまでの知性はないのか、呪霊は動けない名前の首を圧し折ろうとはせず両手も自由なままだ。

「残念、まだ諦めてはいませんよ」

右手の袖に仕込んでいたワイヤーをぐいと引っ張ると勢いよく引き寄せられてきたのは手放した筈の屠坐魔だ。ワイヤーを巧みに操り、勢いを殺さずに大きく湾曲しながら屠坐魔は狙い通り剥き出しの目玉に突き刺さった。紫色の血液のようなものが周囲に飛び散る。
奇声を上げて怯んだ呪霊に構う事無くそれを再び手繰り寄せ、手首を使って回しながら回転スピードを極限まで上げていく。ひゅんひゅんと空を切る音が耳元を通り抜け、手首を前へ突き出すと屠坐魔は回転しながら先程よりも深く、広範囲に傷をつけた。
どこまでの攻撃を与えたら呪霊が消滅するのか彼女は知らない。しかし致命傷を与えた事に違いはなく、両足を溶かしている蛸足が緩んだ。支えを失った身体はいとも簡単に落下していく。
頭に血が上って身体が思うように動かない。そうでなくても両足が使い物にならないこの状態では満足な受け身など取れないだろう。高さがどの程度あったか、鈍る思考の中取り敢えず頭をガードしようとした片腕が何かに掴まれた。
──なんで、今更。それが言葉になったかどうかは彼女自身も解らない。

「素直じゃないねぇ、ホント」

くつくつと喉を鳴らす笑い声と優しく身体を包み込むような不思議な感覚を最後に名前の意識はぷつりと途絶えた。

21.03.19
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -