馬鹿なこと


カチャリ、とその場に似つかわしくない陶器の音が異様な程に静まり返った室内に木霊した。
僅かに意識が逸れた事で、男は喉を鳴らして大きく咳き込む。何とか取り込んだ酸素に軽く眩暈がした。息をするのを忘れるという経験を男はこの時初めてした。酸欠なのか恐怖から来るものなのか、指先が小刻みに震えている。
空っぽになったティーカップのハンドルに人差し指を引っ掛けて口元に変わらぬ笑みを湛えたまま、名前はじっと男を見つめていた。そして視線に気が付いた男の怯えるような瞳と目が合った瞬間、名前は何の迷いもなくティーカップを床に落とした。陶器が砕け散る小気味好い音が鮮明に耳元を駆け抜ける。
「な、」酷く困惑した様子の男の耳にマーモンの抑揚のない声が更なる追い打ちをかける。


「絶対不可侵。約束をもう忘れたのかい」


本来は交わる筈のない存在同士が今回は特例で手を組む。
お互いの住む世界に不用意に立ち入らないこと。
それは各々の為でもあった、超えてはならない明確な一線。

ぞわ、と背筋が怖気立つのと同時に、男は物理的な痛みを直後に感じた。初動が全く分からなかった。
テーブルを挟んでお互い座っていた筈なのに、一体どうして自分はテーブルにうつ伏せに倒されて身動き一つ取れないのだろう。ひんやりとしたテーブルの感触と不自然な視界、強かに打ち付けた頭がズキズキと痛む。「ひっ!!」目の前に突き立てられたナイフに死という絶望の気配が男を縛り付ける。

「な、なに、するんですか…ッ」

「身に覚えがないとでも?」

僅かに上げた目線が確かな殺意を滲ませた闇色の瞳を捉えた。心臓が大きく脈打ち、呼吸が乱れる。背に乗せられた名前の膝が骨をめきめきと軋ませ、臓器を圧迫する。ひゅ、と声にならない音が男の口から漏れた。
ちーん、と鼻をかむ場違いな音がした後「15人か…僕らも舐められたものだね」というマーモンの呆れたような独り言がやけに大きく響いた。15人という単語に心当たりがない訳ではない。

「盗聴器がひとつ、隠しカメラ5台」

「ひっ…ちが、違うんです、これは!」

男の言葉を遮り、テーブルに押さえつけたまま名前は器用に袖に仕込んでいるダガーを4本投げる。空を切って投げられたそれは仕掛けられたカメラを寸分の狂いなく破壊した。
「コッワ!」花瓶や絵画に突き刺さったそれを見て五条が大袈裟に手を上げる。恐怖と殺意が色濃く漂う混沌とした空気に動じる様子はない。
男の顔の真横に突き立てられたナイフの柄を強く握る擦れた音に全身から血の気が引いていく。パキッと名前の足先がティーカップの破片を踏みつける。

「表社会で出回っている程度の自白剤では、効きませんよ」

「……っ!」

「仕事柄、薬物には多少耐性があるんです。残念でしたね」

「マモちゃん、もう殺しても良いですか?」真上から聞こえた世間話でもするような声色は男の恐怖心を益々煽った。
全ての種明かしが終わった今、例えただの手駒だとしても実行犯に変わりはないこの男を生かしておく理由もない。許可が出次第こんな小物──と、滲む殺意の中、名前はナイフを疎ましげに見下ろす。これを突き立てた時、確かに名前は皮膚一枚裂くつもりで振り下ろした。それがどうだ、男の顔には掠り傷ひとつない。
素人相手に手元が狂う筈もなく、考えられるとしたらただ一つ。我関せずで欠伸を洩らしながら騒ぎに乗じてテーブルの上に足を投げ出しているこの男──五条悟の仕業としか思えない。殺しの邪魔はする癖に、直接的な行動を起こそうとはしない。現に今も五条に乞うような視線を向けている男など見えていないかのような振舞いをしている。腹の内もその実力も不透明。無防備そうなフリをしてその実名前たちが入室してから一度として彼は隙を見せてはいない。
「怜悧な子だね」得体の知れない人間相手に安易に踏み込まない名前の姿勢を五条はそう評価した。その言葉が妙に引っ掛かり名前は眉間に皺を寄せて不快感を露わにする。存外彼女も思っている事が表情に出やすい。ククッと笑った五条の笑い声に紛れて「名前」とそこに含まれた行動を制する声に彼女は即座にナイフを引き抜いて身体を起こした。

「状況が変わった。この件は見逃すよ」

「…承知しました」

大きく息を乱しテーブルに伏せる男をマーモンは冷めた目で見つめる。ソファに座り直す事はせずに、静かに武器をホルスターに収めた名前はマーモンの次の指示に耳を傾けるのみだ。

「だけど、条件が一つある。決行は明日に変更」

「あ、明日、ですか。そんな急に、」

「それが呑めないのなら取引は白紙、外で待機している人間共々それなりの報復も覚悟してもらうよ」

「僕は別に構わないよ。ま、ここでゴネれば顔を真っ青にする上の連中が見れるだろうから多少惜しい気はするけどね」

「…わかりました、では明日に変更という事で……」

五条の言葉で男の腹は決まったようだった。上の指示を仰ぐまでもない。そもそも、先に約束を違えたのは高専側の方であって、どう考えても提示された条件を呑む以外の選択肢は与えられていない。返事の保留など以ての外だ。
男の返事を聞くや否や、マーモンはタブレットを名前へと放り「帰るよ」と一言告げて背を向ける。タブレットを片手に五条たちに軽く会釈をした名前がそれに続く。ドアノブに手をかけたマーモンが少しだけ振り向いた。

「解っていると思うけど、見逃すのはこの一度きりだ」

「ゆめゆめお忘れなきよう」

ドアノブを掴んでいない方の手が振り上げられたのと同時にコンセントが爆ぜる。そして発砲音がひとつ。背を向けたまま拳銃を後方に向けた名前が発砲したのだ。それは最後の隠しカメラを見事に打ち抜いた。
「喧嘩売る相手、間違えたんじゃない?」その場に崩れ落ちた男の肩を雑に叩きながら、五条は溌剌と笑った。

21.03.08
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