嘘を吐く心臓


どうぞ、という声と共に名前の目の前に出された紅茶の水面が緩やかに揺れ、しんと静まり返った室内に陶器の音が良く響いた。やや緊張の色を滲ませた空気の中「僕にはないの〜?」と五条は平然と己の欲求を遠慮なく訴える。ソファの背に全体重を預けていただらしない姿勢から一転、目の前に置かれたお茶請けの焼き菓子のフィルムを剥がす姿は贔屓目に見ても随分と幼く見えた。只今お持ちします!と口元を引き攣らせた男の振り回されっぷりには同情の念を禁じ得ない。

お茶の準備に手間取っている所為で一向に本題に進めていない。スーツを身に纏った男は給仕係ではないから仕方のない事なのかもしれないが先程から何度も往復する姿は目に余るものがある。非効率だなと胸中思いながら名前はちらりとソファに座る事もせずに今も尚ひとり壁に寄りかかりながら手にしたタブレットを弄るマーモンの姿を視界に捉える。マーモンが何も言い出さないという事は今はその時ではないのだろうと名前は大人しくテーブルに鎮座している紅茶に角砂糖をひとつ入れた。真っ白いそれは浸した瞬間に赤褐色に侵食されティースプーンで軽く突くだけで呆気なく形を崩して消える。

「…甘いもの、お好きなんですね」

「うん。頭回す為に意識して摂ってたらいつの間にかね」

それにしても限度というものがあるだろう、と名前は目を瞬かせた。思わず声を掛けてしまう程、その光景は彼女にとって衝撃的なものだった。軽い会話を交わす最中でもマグカップのように厚みのない陶器に間を置く事なく入れ続けられる角砂糖に眩暈すら覚える。飽和状態一歩手前で止まったそれは飲んでもいないのに見ているだけで胸やけがしそうだった。その感覚を払拭するように名前は薄っすらと湯気の立つ己のティーカップに口を付ける。角砂糖はひとつしか入れていないので余計な甘さはない。
「…へえ」ゆるりと弧を描いた形の良い唇が挑戦的な色を滲ませた。その変化を機敏に感じ取った男の肩が強張った。「お、お口に合いませんでしたか」何か粗相をしたのかと声を上擦らせた男に柔和な笑みが向けられる。

「いいえ、美味しいですよ。とても」

「そ、それなら良かったです。──あの、何故容姿を変えられていたのか伺っても?」

余程信用されていないのだろうかと複雑な感情がありありと浮かんでいる。正直な人だと素直な感想を抱きながら名前は慎重に言葉を選ぶ。意図的に逸らされた話題は未だ言及する時ではない。

「信用云々の話ではなく飽く迄私たちは裏方の人間ですから、正体を明かさないで済むのならそれに越した事はないという事です。あとは単純に話し合いを手早く進めたかったというのがあります」

「…と、仰いますと?」

「殺しの依頼で派遣されてきたマフィアが25にも満たない女一人だったらどう思います?」

「ククッ。上の連中は頭が岩より固いからねぇ」とマドレーヌを口に運びながらやりとりを聞いていた五条が茶化した。ぐっと言葉を呑み込んでしまった男を見るに、その解釈は間違ってはいないのだろう。
嚥下したアッサムの赤褐色の水色を見つめながら気にしていない様子で名前は続ける。

「まだまだ日本は古い考えの方が多いですからねえ。──でも結局「こんな若造が?」みたいな目をされたので折角ならもう少し年上設定にしておくべきでした」

からからと歳相応に笑う名前と五条に同調するべきか否か迷って、男は苦笑いをするに留めた。キリキリと胃が締め付けられるように痛む。上からの指示には逆らうという選択肢はそもそもないのだが、それにしたって今回の件は男には荷が重すぎた。
細やかな疑問が解決したところで、男はテーブルに置いてあるタブレットからひとつのファイルを選択し、2人に見えるように置く。両者ともに事前に内容は把握済みであるので今更最初から説明をする必要はない。飽く迄も確認作業だ。

「決行は3日後、任務に当たるのは苗字さん、こちらからは補助監督1名、特級呪術師五条が同行します。苗字さんは組織の解体、こちらは関わっている呪詛師及び呪霊の祓除。
事前に申し上げた通り、呪いは呪いでしか祓えませんので苗字さんはこちらにはノータッチでお願いします」

「あ、やっぱり君は視えるだけなんだね」

「はい。私が相手をするのは人間のみです。そちらのお仕事の手伝いも邪魔もしません」

「続けます。報酬は後日指定の口座に振り込みます。…主な事後処理は、」

「こちらに全て任せて頂いて結構です」

淀みのない返事に男はホッと息を吐く。
イタリアでその名を轟かせているボンゴレファミリー。その中でも最強と謳われているのがマーモンと名前が所属している独立暗殺部隊ヴァリアーだ。請け負う仕事は殺しがメインではあるが報酬次第で多岐に亘りどれもSランク以上が常、たった一度の失敗=死という非常にシビアな実力主義で任務の成功率は9割以上、人間業とは思えない戦闘能力を持つプロの殺し屋。
そんなヴァリアーに持ち込まれた仕事が今現在日本で暗躍している、人身売買と違法薬物の横流し組織の殲滅。日本の組織の殲滅はマーモンと名前、大元であるイタリアのファミリーは彼女の同僚がそれぞれ請け負う事になったのだが、ジャパニーズマフィアの中に呪詛師が絡んでいる事が発覚してから事態は一変した。

調査で潜入したヴァリアーの隊員が全員不可解な死を遂げている事が発端となった。綺麗な死体がひとつとしてない、それ自体は“よくある”で済まされる事もでもあるのだが、無名のファミリー相手に末端とは言えヴァリアーを名乗る隊員が全滅というのは余りにも不自然過ぎた。
一部残っていたデータの解析と持ち帰った遺体の解剖中、そこに偶然居合わせたマーモンと名前が遺体に残っていた残穢に気付き、尚且つそれが彼女たち以外視えなかったという紛れもない事実にボスは難色を示した。
基本的にヴァリアーは成功率9割以下となる見込みの仕事は受けない。今回のそれは断るには十分な材料を有しており、その判断が下されるのも時間の問題だった。
そこへ持ち込まれた高専からの依頼。それは正に両者にとってwin-winの関係だった。
呪術師は呪いを祓う事が目的でその過程において時に一般人の犠牲者が出るのは止む無しとしているが、人間を殺すという行為に何の抵抗もない訳ではない。法的に認められた組織でもないので表立って行動する事も出来ず、呪詛師を始末したところで──生かすにしろ殺すにしろ──それに関わった人間、生存者を含めた被害者の処理までを考えると手に余る案件であるのは明白だった。人身売買、薬物の始末なんて以ての外、警察に任せるにしても事が大きすぎた。
誰もが視認出来るものではないが故に、証明が難しい。しかし見て見ぬフリをし続ける訳にもいかないと手を拱く中、彼らは独自の情報網からマフィアという存在を知ったのだった。──そのマフィアもこの件をどう処理するのか考えあぐねている事も。
本来なら交わる事がないマフィアと呪術師。今回の案件は両者にとって前例のないすべてに於いてイレギュラーなものだった。

「死者及び倒壊した建築物の処理、押収品に至るまで全て公的機関の介入は一切させずにこちらで片付けます。呪霊の祓除以外でそちらに負担を掛ける事は何一つありません」

「──ご協力感謝いたします」

「いえいえ。ボランティアという訳でもないですしきちんと対価分は働きますよ」

「…本当に貴女おひとりで?」

その一言を発した瞬間に揺らいだ空気の変化に当の本人は気付いた様子はなかった。
指先に付着した菓子の跡をぺろりと舐めながら、五条はサングラスの奥の瞳を細めた。口元はこれから起こるであろう事に期待を寄せているのか吊り上がっている。
「正確には2人ですけど」肯定しながら、名前は五条とその隣に座る男、対照的なその態度をじっと見つめている。

「当日現場で直接任務に当たるのは私とマーモンの2人です。しかし殲滅後のその他諸々の処理をするのは厳密に言うと私たちではなくボンゴレの然る可き機関に任せます。腕は確かなのでご安心を」

「とても大きな組織だと伺っています。一体──」

「ねえ」

ぴり、とその一言で空気が一気にひりついた。冷水を浴びせられたかのように背筋に冷たいものが走り、肌が粟立つ。遮られた言葉を再び紡ぐ事は許されない。
タブレットから顔を上げたマーモンは深く被っているフードの所為でその表情は窺い知れない。けれど確かにそこに隠れている双眸が男を射貫くように見つめていた。

21.03.08
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