ただの差


不規則に揺れる車内に会話は一切ない。後部座席で足を組みながら片肘をついて、窓から絶え間なく流れていく大して面白味のない景色をぼんやりと見やる。
はあ。“彼”が何の気なしに漏らした一息で車を運転する男はハンドルを握る手に必要以上に力を籠めた。ぎり、と小さく軋んだ音に聞かれてやしないかとヒヤヒヤと胆を冷やしている事を後ろの彼は気が付いているだろうか。

「コンビニでも寄りましょうか?」

運転席から飛んできたその言葉に「お気になさらず」と間を置く事無く返答があった。柔らかい声色なのに、それ以上の会話をする余地はない。バックミラー越しに見る最低限の愛想笑いを浮かべた一人の優男。時折込み上げる欠伸を噛み殺しながら酷くリラックスしているように見えるが、その胸中は解らない。何せ“彼”は一般人ではないのだから。
今この瞬間にも、この呼吸の後に、信号で停車した時に、後部座席に座る“彼”によって殺されるかもしれない。頸動脈を掻っ切られるのか、それとも懐に携帯している拳銃で米神に一発。想像するだけで心臓が破裂しそうになるくらい速くなる。車内に漂う徒ならぬ緊張感、尤もそう感じているのは運転手の男だけだった。
漸く見えて来た目的地に自ら提案していてアレだがコンビニに寄らなくて良かったと男は心から思った。──これ以上は自分の情緒が持たない。



***



「わあ、歴史のありそうな建物ですねえ」

「見かけ以上に所々年季が入っているので修繕が大変なんですよ」

車内の息の詰まるような空気は車から降りた事で当然だが随分と改善された。二度程深呼吸をした男は揺れる感情の波を何とか落ち着かせて同じく車から降りた彼と表面上は穏やかなやりとりをした。
「苗字さん」軽く伸びて腰を押さえる彼は何処から如何見ても好青年にしか見えない。

「お疲れのところすみませんが、このまま打ち合わせをしても?」

「勿論です。その為に来たのですから」

淀みのない返事にホッと安堵の息を吐き、男は「こちらです」と右手を軽く道を示しながら数歩先を歩き始めた。
「学校というよりは神社って見た目ですよねえ」左右に目を凝らしながら間延びした口調で染み染みとそう呟いた言葉は独り言などではなかった。「金目のものがありそうな気配はするね」彼の肩にちょこんと乗る赤ん坊はほかの人間には視認出来ない。深く被ったフードから覗く逆三角の文様、への字に歪んだ小さな口元はお世辞にも愛嬌があるとは言えない。

「まったく、何もかもが手間だね。報酬が良くなかったらこんな面倒くさい仕事絶対引き受けないよ」

「でしょうね。肩が凝りそうです」

「名前、此処をどう見る」前を歩く男に目を向けながら、問いかけられたその言葉を名前と呼ばれた“彼女”は静かに咀嚼する。まるで何かに守られているかのように、この広大な土地からは一切あの気配がない。不自然なくらいに澄み切っている。
「本物でしょうね」日本に2校しかないという呪術高等専門学校。世に蔓延る呪いを祓う呪術師と呼ばれる人間の育成を目的とする教育機関であり、輩出された術師たちの多くが此処を拠点に活動していると聞く。ボンゴレの情報網を以てしても障り程度のそれしか手に入れられないのは偏にその“呪霊”と呼ばれる呪いが誰にでも視認できるものではないからだろう。表であって、表ではない限りなく裏に近い組織。日本もいつの間にやら物騒になったものだと名前はそっと息を吐く。

「表社会にも色々とあるんですね」

「カタギの人間ってだけで殺しもやっているようだから殆どクロだけどね」

「私たちに態々依頼してくる必要ありました?」

「飽く迄も彼らの目的は呪霊を祓う事。ひとりふたりなら兎も角、今回のような殺しメインの組織潰しで大義を盾に正当化する程の度胸はないって事さ。汚れ仕事の部分は金を積んで“専門”に任せてしまえばいい。…まあ、賢明な判断ではあるよ」

「私たちの方も今回の案件は梃子摺りそうでしたし、利害の一致ってやつですね」

こちらです、と立ち止まった男によって会話は強制的に終了した。コンコンと控えめにノックをする行為は中に先客が居る事を示している。どこか緊張した面持ちで失礼しますと続けた男の横顔を盗み見ながら名前は彼を追って応接室へと足を踏み入れた。

「おっそいよー。僕を待たせるなんて偉くなったもんだね」

ただの文面にすれば厭味ったらしい刺々とした言葉でしかないが、そこに怒りの色はなくどちらかど言えば揶揄いを含んだそれだった。
皮張りのソファにだらしなく寄り掛かり、片腕を背もたれの後ろへと回し、室内にも拘わらずサングラスを身に着けたままの一人の男。ソファと低いテーブルの間で窮屈そうに大きく開かれた足からして、中々の高身長のようだ。全身黒ずくめの服装の所為か、緩いVネックのカットソーから覗く首筋がやけに白く映った。
「すみません、五条さん」名前の横に立つ男はソファに踏ん反り返る男よりも年上であろう筈なのに、過剰なくらいに腰が低い。日本名で日本語も流暢ではあるが、色素の抜けた白髪からして外国人という可能性も考えられる。どちらでも名前は構わなかった。彼らの中の複雑な上下関係にも五条と呼ばれた人間の国籍にも正直興味はない。

「へぇ」けれど──感嘆の意が籠められたその短音に釣られて顔を上げた名前の視界に入ってきたその瞳の色に、一度だけ心臓が大きく脈打った。
長い指先がサングラスを少しだけずらし、そこから垣間見えた涼やかなアイスブルーの瞳。それを縁取る柔らかな初雪のような長い睫毛が人間離れしたうつくしさを更に引き立てていた。

「苗字と申します」

にこりと笑みを作って名前はその瞳を真っ向から受け止めた。腹の内を探ろうとする不躾とも言える視線には慣れている。
「五条悟」手短に自身の名前を告げたかと思うと、五条は手元に持っていたタブレットに一瞬だけ目線を戻し、徐にそれをテーブルに投げ出して上体を起こし顎に手を当てた。

「こんな可愛らしい子が、ねぇ」

「五条さん、初対面で流石に可愛らしい、はちょっと…」

独り言とも取れるその呟きに流石に思うところがあったのか、慌てたように男が小声で口を挟んだ。窘める言葉に気分を害するどころか、まるで聞こえていないかのように男に一瞥も呉れず、挑戦的に目を輝かせ五条は口を開いた。


「ねえ、君は“どっち”なの?」


ぴくりと人差し指が痙攣したように動いた。名前が適当にはぐらかすか否かを思案するより先に、「ふうん」と好奇の色を含んだその声が本来の姿で出現した。突然現れたように“見える”だけで、マーモンはずっと名前と共に居た。
「え…っ?!」と動揺する男と正反対に余裕そうな姿勢を崩さない五条はやはり気付いていたようだった。マーモンが本来の姿で現れたというのなら、最早名前も隠す必要も意味もない。ゆらりと一瞬揺らいだ空気と共に現れた“彼女”に今度こそ男は悲鳴を上げた。

「改めまして、苗字名前と申します」

「…マーモン」

先に動いたのは名前だった。瞬きの間に音もなく五条の前に移動した彼女は一見無防備にも見える彼をじっと見下ろす。微動だにしない五条に構う事無く、小首を傾げながら名前は小さく腰を折った。緩やかに細められた瞳が照明の明かりを吸い込んで煌めく漆黒の瞳を静かに見返した。
立っている名前と座っている五条、本来の目線の位置が逆転しているのは至極当然の事であるが分かっていても誰かをこうして見上げた事などいつぶりだろうかと五条はひとり新鮮な気持ちに浸る。

「一般人に初見で見破られたのは初めてです」

「僕も僕を一般人で括る人間に初めて出会ったよ」

「良い目をお持ちなんですね」

「そ。詳しくは教えてあげられないんだけどね」

企業ヒミツ、と人差し指で×を作って気の抜けた笑いを零した彼の返答は予想の範囲内だったようでこれ以上の追求はない。けれど中々の至近距離で観察するように五条の瞳を覗き込む名前に、初対面ながらも意地悪心が首を擡げた。
「男をそんなに熱っぽく見てると、良からぬ事をされちゃうよ」キョトンと丸くなった瞳に意地の悪い笑みをした男が映り込んでいる。浮かべる笑みはそのままに大きな手のひらが頬に触れる目前、「名前」と彼女を強かに呼ぶ声がそれを阻んだ。弾かれるように退いた彼女に結局触れる事は叶わず、骨ばった男らしい指先が虚空を滑った。

「残念だけど、君の実力じゃ無理だよ」

「そのようですね。あの方、もしかして有名人ですか?」

「五条悟。世界で5本の指に入る賞金首だよ」

「へー!全然見てなかったけど、今そんなになってるんだ?」

獲れない首に幾ら積んだって意味ないのにね、と喉を鳴らしてせせら笑う五条がただの自己評価が高いだけの自惚れた男ではない事は幻術を呆気なく見破られた時点で解っていた。拳を交えるまでもない、時間にしてたった数秒で着いてしまった勝敗。疑心が残るのは当然ではあるがマーモンに断言されてしまえば納得する他ない。
マフィアを前にしても崩れぬ姿勢、凪ぐ感情、涼しげな瞳の奥にある確かな矜持。五条悟は紛う方なく絶対的な強者だった。
残念ながら今回の目的はこの賞金首の命ではない。一銭にもならない無駄な戦闘で非マフィア(一般人)に手の内を明かすのは避けたいというのがマーモンの本音だ。
お茶をお持ちしますと慌ただしく出て行った男と部屋を見渡しながら、マーモンは壁に背を預けタブレットを取り出した。判断を仰ぐ名前の視線には敢えて応えなかった。

21.03.08
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