君のことが知りたい


目を覚ますと其処は薄暗い部屋の一室だった。深く息を吸うと鼻孔を擽るい草の匂い。この時点で此処が何処なのか思い当たる場所はひとつしかなかった。行燈の優しいオレンジ色の明かりが室内をぼんやりと照らしている。無言で傍らに胡坐をかく雲雀の中途半端に伸ばされた指先が濡れているのを見て、名前は己が泣いていた事を知った。

「…ひばりさん」

「2日」

彼女の聞きたい事を手短に告げ、雲雀は盆の上に置いてある吸い飲みを手に取った。まるで思考を読まれているみたいだと無言の催促に大人しく口を開けて応え、名前はひっそりとそう思う。
常温の水がゆっくりと口内を潤す。こくりと嚥下と共に動く喉元をじっと見つめる雲雀が何を考えているのか皆目見当がつかないが、こうして世話を焼いてくれるあたり今回の件について多少なりとも彼なりに思うところがあったのだろうと名前はそう解釈した。2日間意識がなかったにしては身体にべたつくような不快感はないし、左腕に貼られている保護パッドの感触に点滴や輸血もしてくれたのだと部屋の提供のみならず、雲雀にしては随分手厚い対応だと胸中思う。尤も、それらをしてくれたのは雲雀ではない(と信じたい)だろうが、彼の指示なしには成し得ない事であるのに変わりはない。
「ご迷惑をお掛けしたようで…」久しぶりの水分を思う存分摂ったところでそう声を掛ければ、何を今更とでも言いたげに切れ長の瞳が射貫くように名前を見た。う、と思わず言葉を詰まらせるが、どうやら怒っている訳ではないようで無言で吸い飲みを盆の上に戻した雲雀を横目にホッと息を吐く。

「そういえばあの人と繋がっていたと思われる財団の方は…」

「僕が生かしておくと思う?」

「…まあ、そうですよねえ」

床に伏している間に綺麗さっぱり後片付けは終わってしまっていたらしい。その“彼”もどうなったのか意識が朦朧としていた名前は全く覚えていないのだが、生かしておく理由が現時点で思い浮かばないのでそういう事なのだろう。
名前は当事者である筈なのに結局は大事な部分を何一つ知る事無くすべてが終わってしまっていた。自分だけが蚊帳の外、ぽつんと取り残された虚しさ。これはすべては知らなくても良い、知らされないという事は知る必要がない事だと勝手に解釈し、興味を持たない選択をした結果だ。きっと詳しく聞いたところで目の前の雲雀も、マーモンですら詳細を教えてはくれないだろう。無関心でいる事は時に卑怯で何と迂愚な事か今回の件で名前は嫌と言う程学んだ。

「あ、雲雀さん」

「何だい」

「手、貸してください」

名前の突然のその言葉に訝しげに眉間に皺を寄せた雲雀だが、軈て諦めたように小さく息を吐いて言われるがまま手を差し出した。それを遠慮がちな手が掴み、感触を確かめるように触れる。名前の手よりも大きく、男性らしい骨ばった長い指先。温かくも冷たくもないその体温が心地よい。両手で雲雀の手を包み込むように触れるとぴくりと指先が小さく揺れた。
「嫌な気分になりますか?」その反応を見てか名前がそう問いかける。「……何も」
そういう割にムッとした顔をしているのは何故だろう。「私はなりません」名前の意図が読めず、何が言いたいのだと静かに視線が問う。それを受けても尚、雲雀が振り払わないのをいい事に手の甲をなぞったり強弱をつけて握ったり名前は好き勝手にし放題だ。

「あの人に手を握られた時、私はそれを振り払ったんです。考えるより先に身体が反応したって感じで。驚きとは別に何とも形容し難い気持ち悪さを感じて、如何してかなとずっと考えていたのですが」

「………」

「雲雀さんに触れられてもそうは思わなくて。あ、今触れているのは私の方なのでもしかしたら雲雀さんは気持ち悪いと感じているかもしれませんが…」

「……で、何が言いたいの」

「ある程度好意的に思っている人以外に触れられるのって、こんなにも気持ちの悪いものなんだなあって今回気付きました」

「ワオ。それって告白?」

「……え?」

ぱちぱちと、瞬きをふたつ。
雲雀に向けてと言うよりは自分の気持ちを整理する為に言葉に出したそれは、配慮と言葉足らずが原因で思わぬ火種を生み出した。少なくとも今この状況で言うべき内容ではなかったのだが、名前は事の重大さに気付かない。
雲雀の言葉の意味を咀嚼するよりも早く、好き放題にさせていた手を翻し、雲雀はいとも簡単に名前の両手を捕まえる。そのままもう片方の手で布団を捲り彼女の頭の上に両手を押さえつけながら馬乗りになった。あまりにも一瞬の出来事で名前は呆けた顔をしたまま何の反応も出来ないでいる。
「え、…え?」ゆっくりと近づいてきた雲雀の額がこつん、と名前の額に当たる。愉しげに揺れる瞳も、意地悪く歪む口角も名前からは見えない。
「ひば、ひばりさん」上擦った名前の声に「なに」と応える吐息が肌にかかって身体が震えた。

「私、一応怪我人なのですが…」

「もう治ってるでしょ」

「いやでもですね、あの…!」

「煩いな。誘ってきたのは君だよ」

ちゅう、と軽いリップ音と共に唇に自分のものではない熱が押し当てられる。動揺の色を隠せない瞳を顔を上げた雲雀が愉しげに見下ろしている。まるで獲物を捕らえた肉食獣のようだと、舌なめずりをする様に背筋が震えた。行燈の明かりに照らされる赤い舌も、褐色の着流しの合わせから覗く素肌も息を呑むくらい凄艶に映る。

「雲雀さん…っ!」

「情事の最中は名前で呼ぶように教えた筈だよ」

「さ、最中じゃありません!」

「これからするから同じ事だよ」

そ、そんな!!と慌てふためく名前に構わず雲雀は白い首筋に顔を埋める。ざらついた舌の感覚に大きく身体を震わせ、何とか逃れようと手に力を込めるが体勢が悪くビクともしない。日頃から鍛えているだけあって女性の中でも非力な部類ではないにしろ、頭の上で手首を押さえられ全体重を掛けられてしまっては文字通り打つ手がない。
「僕とのキスは嫌い?」まるで先程の問いかけに対する仕返しのようだ。果実のように艶やかに色づく唇にそっと指先が這う。なんて狡い聞き方だと名前は言葉を詰まらせる。そのままだんまりを決めて逃れようかと悪い考えが一瞬過ったが、それを声に出してしまっていたかと疑う程タイミング良く耳朶に歯が立てられる。「ひ、あ…!」痺れるような痛みの後にやってくる熱が徐々に身体を蝕んでくる。
「生娘じゃあるまいし」羞恥心で頬を赤く染めてやり場のない感情を溢れさせる様子に雲雀は目を細めた。きゅ、と唇を結んで目尻に浮かんだ涙にじわじわと高揚感が押し寄せてくる。
で、どうなの。と呼吸すらまともに出来ない状態の名前の顎を掴み、無理矢理目線を合わせる。その瞳に浮かぶモノが雲雀の加虐心を煽る事を、彼女は知らない。

「嫌じゃ、ないです」

「そう」

興味がないとでもいうような無機質な声色に対して口元は満足げに弧を描く。
浴衣の帯を掴む手に、愈々逃げられないと名前が腹を決めたその時だった。「失礼します」という声と共に襖が開けられた。──正確には「失礼し──」で不自然に言葉が途切れてしまっていたのだが。
その声によって緩んだ一瞬の隙を名前は見逃さなかった。

「ちょ、苗字さん…!」

脱兎の如く雲雀の拘束から抜け出した名前は衣類の乱れも気にせず草壁の胸に飛び込む。この際形振り構っていられない、今この状況を打破出来るのなら名前としては何でも良かった。
まさに情事が始まる瞬間のような場面に立ち会ってしまい思考が停止する無防備な状態の中勢いよく飛び込んでも、草壁が体勢を崩す事はなかった。反射的に腰に手を当ててその震える身体を支え、どういう事かと雲雀に視線を向けた草壁はその行為をとても後悔した。
「きょ、恭さん」動揺する草壁が雲雀の視線に気付き身体を硬直させる。背中に突き刺さるような殺気を感じ思わず名前の口から情けない声が飛び出したが、草壁の首に縋り付く力を緩める気配はない。

「…哲」

「へ、へい!」

「それ、ちょうだい」

“それ”が何を差しているのか、分からない程愚かではない。雲雀の言う事は絶対であるが、重傷で丸2日寝込んでいた名前の体調を鑑みると──そしてこの心底怯えた様子を見ても──良心が痛むのが本音だ。己のタイミングの悪さに絶望している時間は残念ながらない。
「う、ぇ…っ」草壁に縋り付きながら嗚咽を漏らして震えている名前を引き剥がせる程、鬼にはなれなかった。半殺し覚悟で腹を括った草壁が出来る限り刺激しないよう言葉を慎重に選びながら口を開く。

「恭さん、苗字さんもその、こんな状態ですし今日のところは…」

「………」

無言でゆらりと立ち上がった雲雀の圧がびりびりと肌を刺激する。
たじろぐ2人から視線は逸らさず、雲雀が一歩前に出る。その気配にこれ以上此処に居たら殺されると直感した名前は腹を決め、息を大きく吸い込んで何とか気を落ち着かせると振り返る事無く一目散に開きっぱなしの襖目掛けて駆け出した。今の雲雀は怒り狂ったXANXUSより恐ろしい。
突然身体を動かした事による反動で眩暈が酷いが、そんな事に構っている場合ではなかった。半泣きでマーモンを探しその胸に飛び込むまで、名前は生きた心地がしなかった。彼女のその様子から色んな事を察したらしいマーモンは、今回ばかりは小言も零さずに彼女が落ち着くまでその背を撫で続けた。

21.02.01
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