望みの果てに


自らの意思に反して手から拳銃が零れ落ちる。滑るようにしてあらぬ方向に転がっていったそれを拾う余裕が今の名前にはない。ドクンと心臓が大きく脈を打った後、耐え難い激痛と共に腹が異常な音を立てて凹んでいった。大きく咽込むのと同時に喉が焼けるように熱く、咄嗟に口元を押さえた手から赤黒い血液が零れ落ちる。数秒と経たずに立っていられなくなり、名前は満足な受け身も取れずに冷たい床にその身を投げ出した。
か細い呼吸をする度、ひゅう、と喉が鳴る。痛みで意識が朦朧とする中、名前の顔にそっと影が差す。リチャードが片膝をついて顔を覗き込んでいた。霞む視界の中、酷く嬉しそうに歪む口元だけが見える。血だらけで頬に張り付いた髪をそっと払い、彼は押し寄せる快楽にも似た感情にふるりと身を震わせた。

「僕の勤務する病院にはね、風紀財団の人間も多く出入りしているんだ」

「……ッぅ、」

「嗚呼、痛いよね。無理に喋る事はしなくていいよ」

一時的にあらゆるものを──通信機器は勿論、幻術すらも──遮断するこの白い球体を、以前雲雀の実験体にされた名前はよく覚えていた。けれど、あれはまだ未完成の筈で、更に言えば炎を注入しなければ発動しなかったものだ。見てくれこそ似ているものの、性能は決定的に異なっていた。あれから相当経っているし、非戦闘員向けに扱えるタイプも試作している可能性はあるが、問題はどうしてそれを彼が持っているのかだ。
雲雀が一般人に横流しするような真似をする訳がない。だとしたら、考えられる事はひとつだ。

「イイ、いいね。僕はね、名前、君のその瞳に夢中なんだよ」

血の滲む唇に触れれば、浅く開いた口から洩れる吐息が指先を掠める。そのまま頬骨のあたりに指を滑らせ、目の窪みをそっとなぞった。

「今まで何百人と絶望に染まる空虚な目を見てきたけど、名前。君以上の瞳には今までもこれからも出会える気がしないよ」

痛みや己の命の残数を知って絶望の淵に立たされている人間の嗟歎に満ちた仄暗い瞳の色は何物にも代え難い。そしてそれを己の手で治してやった時の、色を失った瞳が再び輝く瞬間を見るのが何よりも好きだ。縋るようにこちらを見て、それが治ればまるで神を見るように色を取り戻した瞳は欽慕に満ちる。それを向けられた時のあの快感は当事者でないと解らないだろう。
名前が運ばれてきた日の事を、リチャードは今でも鮮明に覚えている。意識が殆どなく、酸素マスクを付けられながら薄っすらと開いていた瞳を見た瞬間の電撃が走ったような指先の痺れが、忘れられない。

「でも君は、僕の力を借りずに輝きを取り戻してしまった。それが──とても残念でね」

僕は君の唯一、絶対的な存在になりたいんだよ

Dr.シャマルの手術の執刀、マーモンによる幻術を用いた臓器構築、それらにリチャードが介入する余地はなかった。それを何年も何年もその身の内で燻ぶらせ、やっとチャンスが巡ってきて今日という日を迎えられた。高まる感情と衝動が抑えきれないのは致し方ない事だった。
「もうあまり時間がないね」弱くなった呼吸音を聞いて、リチャードが愛おしそうに目を細める。

「ま、…ちゃ、」

「違うよ。君が縋る相手はこの僕だよ。さあ、生きたいと願って。僕を望んで。そうしたら僕が新しい臓器(もの)をあげよう。輸血パックもある。必ず助けてあげるよ」


そんな紛いものではなく、本物を。
今度こそ君の瞳の輝きは僕ひとりのものに──


バキッ、と背後のドアが大きな音を立てて破壊されたのはその時である。残骸を踏みつけ、ゆらりと入ってきた人物にリチャードが目を見開く。びゅ、と飛んできた木片が膜に当たって爆ぜる。

「やあ。生きているようで何よりだよ」

「ど…、…して」

「な、なんでお前たちが…!」

こつりと靴音を響かせて彼は入ってきた。霞む視界で顔の判別は出来ないが、纏う炎の色と気配を名前が間違う筈がない。
「名前!!」彼──雲雀恭弥の肩から飛び降りたマーモンが小さな手を伸ばした。途端、リチャードと名前を包んでいた膜が歪にうねり、縦に大きく割れた。「な…っ!」炎注入タイプよりも格段に強度が上がっているのに、実に呆気ない。それもその筈だ。
アルコバレーノ()を誰だと思っているのさ」ぐ、と拳を握れば窓ガラスに亀裂が入り、大きな音を立てて弾けた。びりびりと肌を突き刺すような殺気が惜しみなくリチャードに降り注ぐ。ゆらりと歪んだ浮かぶ赤子は、軈て本来の姿を見せた。フードを深く被るその姿に目が合った訳でもないのに気圧される。
「これが、」最強の赤ん坊の一人、バイパーの超能力。軽く手を払う仕草をしただけで、リチャードの身体はいとも簡単に吹っ飛ばされ、そのまま壁に磔にされる。

「ちょっと」

ム、と眉間に皺を寄せた雲雀がトンファーの先をマーモンに向ける。どうやら怒っているのはマーモンだけではないようで、ふつふつと身を焦がすような殺意を滲ませた雲雀が大きく咽る獲物に鋭い視線を送る。

「あれは僕にくれるっていう約束だよ」

「分かってるよ。僕が彼に手を出すのはこれっきりさ」

フン、と鬱陶しげにトンファーを片手で押しやり、マーモンは名前の元にしゃがみ込んだ。「……ッ」ゆっくりと動く唇が言葉を紡ぐ事はない。あっという間に幻術で元の状態に戻った名前の腹部を見て、マーモンが珍しく安堵の息を洩らした。あと少し来るのが遅れていたら、分からなかった。
「マ、モ…」血の気のない顔、途切れ途切れの呼吸。意識が朦朧としながらも縋るように呼ぶその名前に冷たくなった手をそっと握ってマーモンはそれに応える。
遠くから複数の足音がこちらに向かって近づいてくる。雲雀が手配した風紀財団の人間のものだろう。尤も、生存者はマーモンに抱きかかえられている名前ひとりだけとなる筈だ。
今回の件は彼らが大きく関わっているお陰で後始末をしなくても良さそうだ。元々首謀者に手を出さない事を条件に雲雀と手を組んだマーモンからしたらこの後の面倒事を処理しなくて済むのだから好都合だった。
草壁が手配した医療班が担架を運んできた時には既に名前の意識はなかった。



***



何度体感しても不思議なものだと名前は目を開けて思う。真っ暗だった意識からの覚醒。しかし此処は現実世界ではない。それを目が覚めたと表現しても良いものかと彼女は長らく悩んだ。
腹部に手を当ててもそこにはいつも通りの呼吸に合わせて上下する腹があるだけ。喉の奥に血が張り付いた不快な感覚も今は何もない。
大きな木の幹の根元で上半身を預け、座る名前は静かに上を見上げる。遥か上の方で風もないのにゆらゆらと生い茂る葉が気持ち良さそうに揺れていた。

「気分はどうだい」

「……マモちゃん」

はらりと大樹から落ちてきた葉が水面に浮かぶ。
腕を組んで名前のすぐ隣で大樹に寄りかかるマーモンは顔こそ見えないものの姿は本来のものだ。力なく後頭部をこつんと大樹に預け、そっと瞳を閉じる。聞こえないフリをするには大きすぎた胸のざわめきも腹の底を這うような不快感も今はない。

「やっぱり此処は落ち着きますね」

名前はシャツ1枚羽織っただけの装いで力なく曝け出した足先は透明な水の中に飲み込まれている。この水が満ちた時、意識は戻る。
「でも、」名前は、この場所を知っていた。──最後に此処に来たのはマーモンと初めて会った時だ。

「何と言ったらいいのか、分からなくて」

「君にしては曖昧な物言いだね」

「…すみません」

色々な感情が体内で勝手に渦巻き、時には名前の分からない得体の知れないものが競り上がってくるものだから名前はほとほと参っていた。あの感覚を思い出すと喉元を締め付けられているような気持ちになる。
ちゃぷ、と悪戯に指先で水を弾くと心地よい音が耳元を掠める。いつの間にか水位が上がってお尻まで浸かっているが冷たいという感覚は一切ない。
「わたしは、」上手く纏まらない思考に声を詰まらせた名前の頭にひんやりとした手が添えられる。そのままそこに腰を下ろしたマーモンは頭に置く手に少しだけ力を入れて自らの肩に名前の頭を寄り掛からせた。大人しくされるがままの名前はそのマーモンの行動に目を見開く。けれどすぐに安心したように息を吐いて、許された甘えを享受する。

「私は、何を犠牲にしても貴方の為に生きたいと思っています」

「……」

「私にはマーモンの言葉がすべてで、貴方の望むがままに生きる事が私にとっての生きる理由です」

「……」

「初めて会ったあの日から今も、これからもそれは変わりません。でも今回──縁談の話が出た時から時折、苦しくて」

「……名前」

「貴方の期待に応えなければならないのに、時折出てくる知らない感情が身体を鈍らせるんです」

「わたしは、」一番聞きたい事を、名前は言葉に出来ないでいる。もしそうだと肯定されたら、不穏に軋むこの心臓は今度こそ鼓動を止めてしまうだろう。
「名前」と、寄り掛かる彼女の肩を支えてマーモンはまるで小さな子どもに諭すようにその名前を呼ぶ。

「僕は操り人形が欲しい訳じゃないんだよ」

「………」

「苗字名前というひとりの人間を僕は必要としているんだ。聞き分けが良いに越した事はないけど、だからと言って自分の感情を殺す必要はない」

「…感情ひとつ満足にコントロール出来ない私を、これからも必要としてくれるんですか?」

「馬鹿な子だね。不要なら今此処に君は居ないよ」

小さく笑ったマーモンの隣で言われた言葉の意味を理解するのに随分と掛かった。震えを誤魔化す為に固く握られた手を緩めると瞬きの合間にぽろぽろと涙が零れ落ちた。
腹まで浸かる水に小さな波紋が広がる。
ただ言われるがままに、与えられる用意された答えに身を任せて生きるのはとても楽で簡単な事だ。貴方の為に生きると決めたから、と自ら考え行動する事を放棄した上でのその言葉は、尤もらしい理由のこじつけだ。それに気づきながらもマーモンは彼女が自分で答えに辿り着くまで静かにその時を待っていた。

「生きるっていうのは存外面倒くさいものなんだよ。金もかかるしね」

止め処なく頬を滑り落ちる涙を拭ってやりながら、マーモンはひっそりと初めて名前に会った日の事を思い出す。
理由は違えどあの時も、名前はこうして泣いていた。
生気のない何の色も宿さない空虚な瞳から流れ落ちる涙をどんな気持ちで流していたのか。とてもじゃないがナイフ一本満足に振り回す事も出来ないような貧相で頼りない体躯は弾避けの価値すらないように見えた。戦場に放り出されでもしたら3分と持たないうちに呆気なく命を刈り取られてしまうだろう。
それでも、この場所に足を踏み入れる事が出来たのだから、そういう事だ。金と労力を掛けるだけの利用価値がこの惰弱な命にはあった。
この小娘を使えば自分に足りない体術(もの)を補えると思ったから。使えそうだから涙を拭ってやり手を差し伸べた。
その目論見は見事に成功し、思っていた以上に名前はマーモンの手足として申し分ない働きをしている。
今、この涙を拭う指先に込められた感情はあの時とまったく同じものなのか、マーモン自身にも解らない。少なからず愛玩動物に向ける程度の情はあるのだという自覚はあったが、それ以上を知ろうとは思わなかった。

「さあ、直に水が満ちるよ」

その言葉に名前はこくりと小さく頷く。マーモンに腕を引かれるがまま、名前は大人しくその胸に頬を寄せる。
「バチが当たりそうです」「…この分はきちんと身体で返してもらうから問題ないよ」マーモンらしい返しに名前は小さく笑う。
後頭部と背中に回された手が緩やかに撫でる。それだけで不思議と身体が軽くなった気がした。情けない弱音も嫌な気持ちも全て此処に置いていってしまおう。
利用価値があるから生かされ、大事にされているのだと自覚はある。それで良いのだと、名前は改めて思う。理由がはっきりしているマーモンの優しさが名前には心地良かった。
無償の愛だとか、損得勘定を抜きに向けられる情程得体の知れないものはない。どうしたらいいのか分からなくなるから、名前の目にはそれがとても恐ろしいものに映る。
押し寄せてきた波が名前とマーモンを飲み込む。ゆっくりと沈んでいく身体に抗う事無く、名前は目を閉じた。

21.01.22
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