懇意の裏側


自分の与り知らぬところで、何かが起きて事態はゆっくりと変化している。
マーモンは珍しく名前に何も教えてはくれない。だから、名前も自ら聞く事はしない。マーモンが何も言わないという事は自分が知る必要がないという事だと名前はそれを信じて疑わない。ただ言われた事を与えられたものをマーモンの望むがままに──それが今の苗字名前にとってのすべてだ。
リチャード・グレンと会うのは今日でもう3度目になる。前回は食事、その前は美術館へ。たった数時間、時を共にするだけ。何を話したか覚えていないくらい、取り留めの無い会話をし、手すら繋ぐ事はなく健全な時間を過ごす。その中で唯一名前が覚えているのはこちらを見つめる時の彼の瞳だ。その瞳に色濃く浮かび上がる感情の名前を、名前は知らない。恋慕にしては仄暗く、憎しみにしては足りない。何を考え、彼が名前に情を寄せているのか、結局その一切が解らないまま今日を迎えた。
いつもと違う事と言えば、初めてリチャードの家に呼ばれた事、マーモンが留守にしている事の2点。行き先を告げず、ただ今日は着いていけないとだけ言ったマーモンに名前はそれ以上聞く事なく返事ひとつで頷いた。ただ漠然と、その様子から彼と会うのは今日が最後であると名前は感じ取った。

医者というものは随分と儲かるものなんだなあ、と下世話な考えがつい名前の脳裏を過った。
笑顔で名前を迎え入れたリチャードがこの別荘はお気に入りの一つなのだと庭に咲き誇る花々に目を向けながら言った。自然に囲まれ、広々とした土地に建つこの建物は恐らく彼の持つ私有地のひとつなのだろう。彼の勤務地からお世辞にも近いとは言えないこの場所に頻繁に来ているようには見えない。しかし建物の中は隅々まで手入れが行き届いており、彼が気に入っているという庭もまた然り。それなのに、使用人のひとりも2人の前に現れる気配がなかった。
応接間に通され、エスコートされるがまま座ると目の前のテーブルの上にはスコーンを始めとしたアフタヌーンティーが静かに鎮座していた。
「素敵なワンピースだね。よく似合っているよ」ロイヤルコペンハーゲンのティーカップに温かな紅茶が注がれる。随分と丁寧にもてなしてくれるものだと名前はぼんやりと思う。自らのティーカップにも同じようにそれを注ぎ入れ、リチャードはにこりと笑みを浮かべた。

「私が選んだ訳ではないのですが」

「ああ、ではこの前の彼が?」

「…同僚です。ファッションには煩くて」

誰とは言わないが、リングや隊服のデザインについて己が納得するまで口を出すような人だ、少なくとも名前よりは流行に敏感であり当然センスも悪くはない。ただ拘りが強すぎるが故、着ていくたった一着を決めるのにそれ相応の時間を掛けるところに難がある。同僚と言われ意外だと目を丸くする彼を視界の片隅に置いて、そんな事を考えた。
湯気の立つ紅茶を一口飲みホッと息を吐く。目の前ではリチャードがクロテッドクリームをたっぷりと付けたスコーンに噛り付くところだった。

「そのハーブティーはね、僕の最近のお気に入りなんだ。癖がなくて飲みやすい」

「そうですね。初心者の私にはちょうど良いです」

「ふふ。ねえ名前さん、もっと君について教えてくれるかな?」

「具体的には何を知りたいのですか?」

「君の事なら、なんでも。苗字名前という人間をね、僕は知りたいんだ。誰よりも」

「誰よりも?」

「そう、誰よりも──君が最も信頼を寄せる人よりもね」

ああ、まただ。ゆらりと瞳の奥で揺れる影が名前を手招く。苗字名前に異様に関心を寄せる男と、それに無関心を貫く女。リチャードと名前の間に流れる絶対的な温度差。何をしようとも、それは調和する事はない。
「マーモンよりも?」その声色がリチャードの背筋を撫で上げる。ごくりと生唾を飲んで、彼は小さく頷いた。浮かべている笑みはそのままなのに、雰囲気が明らかに変わった名前からリチャードは目を離せない。ただ単に畏れているのか、それすらも興味の対象なのか或いは──。

「──紅茶のお代わりはどうかな?」

「いただきます」

空っぽになったカップがソーサーに戻されたタイミングでリチャードがそう声を掛けた。少し失礼するよとティーポットを持って出て行った彼の背を静かに見送り、名前は椅子に寄りかかりながら片肘をついた。いい加減化かし合いにも飽きてきたところではあるが、どうやらそれは彼も同じようだと先程の会話を思い返しながら胸中思う。盗聴器の件と言い、この紅茶(・・)の件と言い、一体リチャードが何をしたいのか名前には分かりかねる。それを泳がせておけの一言で片付けてしまう己の主も同様に。──ただ単に搾り取れるだけ金銭を搾り取りたいだけなのかもしれないが。
さて、そろそろだろうか。時間稼ぎに出て行ったであろうリチャードがこの後どう行動するつもりなのか、想像するに難くない。迫りくる複数の足音と気配に名前は目を細めた。

「随分躾のなっていない使用人のようですね」

ドアを蹴破るようにして入ってきた男たちに名前が大きな溜息を吐く。向けられている銃口を視界に入れても動揺している素振りはない。
「お嬢ちゃんこそ」纏うワンピースが一瞬にして隊服になったのを見て大柄な男が口を開いた。

「デートの服にしちゃあ、可愛げがねえなァ」

「仕事ですから」

とん、と隊服に刻まれたエンブレムを指さすと何人かが怖気づいたように息を飲む。その反応から、一応誰を相手にしようとしているか解ってはいるようだ。ただ金で雇われただけの可哀想なチンピラかと思えばそうでもないらしい。

「油断はするな。が、絶対に殺すなよ」

その言葉に思わず名前は口元に手を当ててくすくすと笑い声を漏らす。足を狙って発砲された弾を身を翻して避けた彼女はコートのポケットに手を突っ込みながら彼らをぐるりと見渡す。

「殺すな、とは。ヴァリアーも舐められたものですねえ」

見たところ誰もリングを装着しておらず、武器と呼べるものは各々が構える拳銃のみ。名前のような特殊な理由でもない限り、炎を灯せる人間がターゲットを目前にしてリングも匣も持たずに挑もうなど無謀なだけだ。もし殺してはいけないと出し惜しみをしているのなら、驕りにも程がある。
こつりと足音を立ててテーブルの前まで戻った名前はその上に乗るティーカップに指先を這わせる。その様子に彼らは身体を揺らして警戒の色を濃くするが発砲には至らない。嫣然とした佇まいを崩す事なく、空になったティーカップのハンドルに人差し指を引っ掛けて男たちの前で意味深に揺らす。そのまま視線を応接間の天井の角に設置してある防犯カメラに移し、見せつけるように何の躊躇いもなく指を放した。
一瞬にして落下したティーカップの破片が床に飛散する。静かな応接間に陶器の悲鳴が響き、「残念ですが」と名前は首をこてんと横に傾けた。

「幾ら待とうとも、何も変わりませんよ」

「な…っ」

「病院で調達出来るようなレベルの投薬は私には効かない、と申し上げているのですが?──それから」

先程から何処を見て話しているのですか

その言葉の意味を理解するより早く、一発の銃声と共に放たれた鉛玉が男の米神を貫く。目を見開いたまま血飛沫を上げて倒れた男は、己の身に何が起こったのかも分からなかっただろう。彼らの目の前で喋っていた筈の名前は、まるで瞬間移動でもしたかのように男たちの真横に居た。

「そちらがそうでなくとも、私は始めから誰一人として生かすつもりはありませんので」

内臓を引き摺り出されるような感覚が全身を駆け巡り、指先が小刻みに震える。こんなにあっさりと突き付けられた“死”とそれを刈り取る事に一切の躊躇のない様に誰一人として声が出なかった。呼吸をする事すら許されないようなこの威圧感と殺気を、二十そこらの小娘ひとりが発している。
彼らはヴァリアーという組織と、苗字名前を相手にした事を、自らの死を以て後悔する事となる。
ただ威嚇するだけに留めていたお飾りの銃口を武器と呼ぶにはもう手遅れだった。


***


「お代わりはどうかな?」

「もう結構です」

好みでもないので、と笑みを崩さずに言い放ち、迷いなく引き金をひく。「それは残念だ」テーブルに置かれているリチャードの手から数センチ横のポットが粉々に砕けても、彼が驚く様子はない。
「その姿の君も実に愛らしい」恍惚とした表情のまま、小さく吐息をついたリチャードにぴくりと眉が動く。腹の底から湧き上がるような言い知れない違和感。見えない何かが名前の喉元を緩やかに絞め上げる。

「しかし薬が効かないとは誤算だった。いっそ始めから麻酔でも打ち込んでしまった方が早かったかな?」

「私が貴方如きにそんな醜態を晒すとお思いで?」

「気付いているかい?出会ってから君は一度も僕の名前を呼んでくれていないんだ」

とても悲しい事だよ、と伏せた瞳の睫毛の翳りを見ても、名前の表情が変わる事はない。グリップを握る手に力が籠められる。
今日を以て漸くリチャードとのお遊びが終わりを迎える。もう欠伸が出そうなくらい下らないままごとに付き合う理由もない。マーモンは今日この場には居ないが、名前に「好きにするといい」とそう言った。判断を委ねられたのなら、名前にとっての選択肢はとてもシンプルなものだ。生かす理由が見つからないなら、それが答えだ。

「今も呼ぶ必要性は感じませんね」

「そうかな?…名前。君とはこれから長い付き合いになるよ」

「この状況で“これから”があると思っているのですね」

「──あるさ。僕は君を誰にもあげるつもりはないからね」

リチャード・グレンはボンゴレの息の掛かった医療機関に勤務する、限りなく一般人に近い人間だ。しかし非戦闘員にしては、聊か肝が据わり過ぎている。名前に銃口を向けられても尚、浮かべる笑みも見つめる瞳の色も揺らぐことはない。
応接間に転がる物言わぬ彼らも、あのカフェの刺客も恐らく金で雇っただけの手駒。もう持ち得る駒はない筈なのに、この態度は何だ?──得体が知れないもの程、気を抜いてはいけない。
決して間合いに安易に踏み込もうとしない名前に、恐らく彼は気付いている。

「貴方は…私の何を見ているのですか」

「嗚呼、漸く僕に興味を持ってくれたんだね。嬉しいよ」

きらきらと無邪気に輝く瞳を、名前は直視出来ない。背筋を這うこの嫌悪感が堪らなく不快だ。
「ちゃんと話をしないとね」ころりと何かが名前の足元に転がった。野球ボール程の大きさのこの球体には見覚えがあった。──なぜ、こんなものが此処に。起動力である炎を注入されていないのに、それは外側がぱっくりと割れ、瞬時に飛び出してきた薄い膜が名前とリチャードを包み肥大化した。

21.01.13
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