とどかぬ願い


燦燦と輝く太陽の光が目に染みてパラソルの下で名前は目を細めた。髪をそっと撫でる柔らかい風が心地よい。昼下がりのとあるカフェテラスで、名前は淹れ立てのカフェラテに口を付けながら始終にこにこと柔和な笑みを浮かべる目の前の男を見つめる。目が合うとアーモンド形の瞳が優しげに細められ、口元が緩やかに弧を描く。あの写真そのままの柔らかな物腰の男は唯々嬉しそうに名前を見つめていた。

「はじめまして、とご挨拶したら気分を害されますか」

「ふふ、全然。君と出会ったのはもう何年も前の事だしね。医者なんて白衣とマスクなんてしてたらそれこそ、みんな同じに見えて当然だよ」

茶化すように肩を竦めて見せた男──リチャード・グレンはそう言ってコーヒーを一口飲んだ。カップをソーサーに戻せばカチャリと陶器のぶつかる音が鳴るが、彼女たちの周りに居る他の客の話声がそれを自然に掻き消す。
「煩かったかな?」名前の様子に気が付いたリチャードが少しだけ困ったように眉を下げた。「いいえ」すっかり崩れてしまったラテアートを一瞥した名前が即座にそれを否定する。

「素敵なカフェですね」

「気に入ってくれたなら良かったよ。此処のコーヒーは僕も好きでね」

名前さん、と耳を擽るようなテノールが彼女の名前を紡ぐ。傍から見たら完全にデートそのものだった。ルッスーリアの仕立てたチュールスカートがふわりと風で揺れる。
最後に私服を着て出掛けたのがいつか思い出せない。拭い切れない違和感から思わず溜息が零れそうになるが、それは今許されない行為だ。
5回目にして漸く、リチャード・グレンはこうして名前と相見える事が出来た。それは沢田の温情でも憐憫でもなく、5回目にしてリチャードからマーモンへ提示された“金銭のやり取り”によるものだった。一体彼がマーモンに幾ら提示したのか名前は知らない。けれど、「ムム」とその紙をじっと見つめたマーモンの悩ましい横顔を彼女はしっかりと目にしていた。
こうして最終的にマーモンは名前を彼に貸し出す(・・・・)事にした訳である。その決定について、名前は首を縦に振る以外の選択肢はない。マーモンに言われるがまま、彼女は何も疑問に思う事無く今日此処に居る。

「大事な休日を使わせてしまって申し訳なかったね」

「お気になさらず。とても穏やかな時間を過ごせて嬉しい限りです」

普段あまり外には出ないので、と続けた名前にリチャードは目を瞬かせる。
名前はウィンドウショッピングにも、おしゃれなカフェにも、話題のレジャーにも大凡同じ年頃の子が好むようなモノには何一つ興味がない。情緒の薄い人間だといっそつまらないと失望してくれたらいいのに、という考えは決して顔には出さない。
飽きもせずにじっと名前を見つめるブラウンの瞳に、小さな違和感を抱いた。その瞳からは慈しむような柔らかい眼差ししか向けられていない筈なのに。気のせいかと名前はその違和感をすぐに消し去った。

「普段休日は何を?」

「…仕事の話になってしまいますから、さして面白くもありませんよ」

そう答えれば、彼はそれ以上踏み込むような事はせず、自然な流れで話題を変える。名前は主に聞き役に徹していて、話し上手なリチャードは時折相槌を打つ彼女をそれはそれは嬉しそうに見つめてくるものだから反応に困ってしまう。
「名前さんは、」──穏やかに流れる空気が少しだけ揺れる。

「何故僕が君を好きなのか、気にならない?」

妙な問いかけだとカフェラテに口をつけながら名前は思った。正直理由など如何でも良かった。彼が己に好意を寄せていても、そうでなくても。口を開きかけた名前は、それを声に出す事はなくそっと目を伏せた。ごくり、と喉の鳴る音がした。
不思議に思って名前が伏せた目を彼へと向けると何かに魅入られでもしたかのように瞳を丸くしてこちらを見ていた。しかしそれは一瞬の事で瞬きの間にその小さな変化は姿を消してしまっていた。それよりも──

「マーモン」

「──鬱陶しいね」

ゆらりと現れた赤ん坊が不愉快そうに鼻を鳴らして名前の肩に乗る。ちらりと四方から寄せられる僅かな殺気を追いかけてそっとスカートに手を這わせた。のんびりとした貴重な休日が台無しだ。
「え、あの…?」ひとりその状況についていけないリチャードはホルスターから拳銃を引き抜いた名前を見て目を丸くする。

「5人…でしょうか」

「い、一体何が…」

無言で粘写をするマーモンをオロオロと見つめるリチャードに名前はただ一言「狙われています」とだけ告げる。どんなに僅かな殺気でも、それを感知出来ないようではこの仕事は務まらない。名前と彼、どちらを狙ったのか現時点では判断し兼ねる。けれど、こんな街中で見て見ぬふりをする訳にもいかなかった。

「そんな…」

「──名前。一銭の金にもならないけど、今ちょっかいを出されても困るからね。手早くやるよ」

「はい」

マーモンの粘写によって細かな現在地がマモンペーパーに浮かび上がっている。そう遠くない距離に居るようだ。これなら大した時間を要さずに片が付くだろう。
少し席を外します、と安全装置を外しながら立ち上がった名前に慌てたようにリチャードは「待って」と声を上げる。

「狙われているんだろう?そんな堂々と銃なんて出していたら一般人にも被害が及ぶかもしれない」

「ご安心を。あちらには私たちが談笑しているようにしか見えていませんよ」

どういう事なのかと問おうとした時には名前もマーモンも彼の前から姿を消していた。気を付けて、という言葉を言う時間すら与えてはもらえなかった。呆然としながら挙げていた手をそっと下ろして彼は残念そうに瞳を揺らした。もっと、見ていたかったのに。そう漏らした独り言は彼女の耳には届かなかった。



***



名前が戻って来たのはそれから10分程経ってからだった。「お待たせしました」と頭を下げる彼女に「怪我は?!」と血相を変えたリチャードが立ち上がって彼女の手を握る。ぱしん。反射的に振り払ってしまったその行為に何よりも驚いたのは名前自身だった。名前よりも一回り大きな彼の手が触れた瞬間のあの感覚の名前を、彼女は知らない。
「すみ、ません」珍しく動揺して言葉を詰まらせた名前に軽く首を振って気にしないでと告げ、リチャードは椅子にそっと腰を下ろした。怪我をした様子も、衣類の乱れもない。10分前と何ら変わりない様子に一般人との違いをまざまざと思い知らされる。

「…冷めてしまったね。頼み直そうか?」

「いえ、大丈夫です」

気持ちを落ち着かせようと半分以上残っているカフェラテに口を付ければ、案の定唇につく液体は冷え切っていた。こくりと上下する喉元をリチャードはじっと見つめている。不意に彼がスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。着信を知らせるバイブ音は名前の耳にもしっかり届いた。
「失礼、」席を立った彼の背を静かに見送りながら名前はハンカチで口元を拭った。どくりと心臓が不穏な音を立てている。
「すまない、急患が入ってしまって」程なくして慌てた様子で戻って来たリチャードの言葉の先を察した名前はにこやかに頷く。内心ホッとしている自分が居る事を彼に悟られてはいけない。

「お仕事、大変ですね。今日は楽しかったです」

「僕も、久しぶりに年甲斐もなくドキドキしてしまったよ。素敵な時間をありがとう」

財布を出そうとした名前に「私にも少しだけいい恰好をさせてくれないか」とそれを軽く制止する。そういえばテーブルの上にあった伝票は名前が戻ってきた時には見当たらなかったと彼の言葉で気付かされた。会釈をする名前を視界に捉え、嗚呼と何かに気付いたのかそう小さく呟いたリチャードは自分の肩を軽く指先で触れる。

「ここ、糸くずが付いているよ」

「…?」

中々それを見つけられないでいる名前に見兼ねた彼が助け舟を出す。今度はきちんと触れても良いかと許可まで取って。
「ありがとうございます」節榑立った指先が肩に触れてすぐに離れていったのを視界の隅で確認して名前はほっと息を吐いた。

「また、会ってくれるかな?」

「……お約束は出来ませんが」

「それじゃあ──また、誘っても?」

「それはご自由に」

ありがとう、と嬉しそうに目元を緩ませて彼は足早に店を出て行った。
きちんと気配が遠ざかったのを確認して、今度こそ名前は大きく息を吐き出して椅子に凭れ掛かるように座る。バチッと小さな音が名前の肩口でして何かが爆ぜる。「まったく、何を考えているのやら」「同感だよ」現れたマーモンの手には今しがた破壊したばかりの小型の盗聴器が摘ままれている。

「如何致しますか?」

「いいさ、まだ泳がせておこう」

「珍しいですね」

「まあね。どうやら動いているのは僕らだけじゃないみたいだし」

マーモンのその言葉の意味を問おうと口を開きかけて、名前はやめる。マーモンもそれには気が付いていたようでフンと鼻を鳴らした。
「覗き見とは趣味が悪いね」途端、ぐにゃりと空間が歪み名前たちの隣の席に座っていた女性が霞む。軈てクフフ、と独特の笑い声と共に見知った人物が姿を現した。
「生身でお会いするのは久しぶりですね」という名前の言葉にカプチーノを口に運びながら六道骸は目を細める。

「風の噂で貴女に縁談があると聞いたもので。成程随分と貧弱そうな優男ですがああいうのがタイプなんですね」

「態々冷やかしに来るなんて、ボンゴレは余程暇なんですねえ」

名前の嫌味なんてなんのその、涼しげな顔のまま後ろで一つに結ぶ髪を揺らして骸は長い足を組み替える。名前とリチャードのおままごとのようなやり取りを特等席で始終見ていたらしい彼は何を思い出したのかくつくつと喉を鳴らして笑う。
オマケに束縛も強そうだ、と盗聴器に目をやる骸は相変わらず良い性格をしている。

「あんな小物、捻り潰してしまえば話は早いでしょうに」

「それを判断するのは君じゃないよ、六道骸」

名前の膝の上で運ばれてきたレモネードを飲みながらマーモンはぴしゃりとそう言い切る。「おやおや」随分と棘のある言い方に骸は口角を上げる。先程のマーモンの言葉は骸を差していたのだろうか。どちらにせよ今聞いたところでマーモンは教えてはくれそうにないと判断した名前は諦めをつけ、代わりにバッグから小さな包みを取り出した。

「凪さんに渡してください」

「クフフ。僕を配達員代わりにするのは名前、貴女くらいのものですよ」

そうは言いつつも名前から差し出されたそれを自然な動作で受け取るあたりが実に彼らしい。グローブ越しに指先に感じる筒状のそれ。
「リップクリームです」名前はマーモンの飲み終えたレモネードの入っていたグラスをテーブルに置きながら事も無げに言う。

「この前のハンカチのお詫びとお礼だと伝えて頂けたら」

「いいでしょう。面白いものも見れましたから、特別ですよ」

「はあ…」

「時に名前。貴女はどう思っているのですか?」

何を?と聞き返すよりも早く、伸びてきた骸の手が名前の手を掴む。いつの間にグローブを外したのか、大きな手が優しい力で彼女の手を包み込んでいる。時折指先が皮膚の感触を確かめるように滑る。

「骸さん…?」

「クフフ。今のがヒントですよ」

手を放して立ち上がった骸が名前を見下ろしながら笑う。
問題が何かも解らないのにヒントだけ出されても、と怪訝そうな顔をする名前にこれ以上何も言う気はないのか骸はそのまま伝票を片手に店内に消えてしまった。

「何だったのでしょう?」

「……さあね」

これは名前、君が自分で考えて答えを出すものだよ

今回ばかりは口を出す気がないらしいマーモンはそれを言葉に出さずにひとり胸の内に留めた。

20.12.27
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