こちら最果てにて


「僕は先に部屋に行っているからね」と欠伸を一つして名前にそう言い残して姿を消したマーモンは、恐らくもう夢の中だ。
エレベーターの到着をひとり待ちながら、名前はずきずきと痛む米神を指先で押さえた。流石はボンゴレというべきか、きちんと個人個人にホテルの部屋まで手配しており、至れり尽くせりとはこの事である。外観やインテリア、敷かれているカーペットを見た限りそこそこのランクのホテルである事が伺える。名前としては眠れるのならどこでも良いという考えではあるが、主催者側としてはそうもいかないのが実情である。一体幾ら掛けたのだろう、と珍しく卑しい計算をざっとしてしまい浮かんだ予測最低金額には我ながら震えた。

乗り込んだエレベーターには階数を押すボタンがない。代わりに設置してあるセンサーにルームキーを翳すと自動でドアが閉まる。セキュリティ対策も万全だなあと妙な関心を寄せて、名前は欠伸を洩らした。
誰も居ない事をいいことに、背をつけて到着するまで目を瞑る。最近のエレベーターは大きく揺れる事も少なく、高層階に行くにもそれ程身体に不快感を与えない。けれど──到着を知らせる音と共に目を開けた名前は、揺れた視界に思わず頭を押さえた。一気に酔いが回ってしまったのだと、気付いた時にはもう遅い。幸い吐き気はないが、頭の奥がぼんやりとして身体が熱い。これはシャワーを浴びる前に眠ってしまいそうだ。早く煩わしいヒールを脱ぎ捨ててベッドに入りたいと部屋の前まで来た名前は思った。
ルームキーを翳しレバーハンドルを握る──しかし、押しても引いてもドアが開かない。センサーがズレていたのだろうかともう一度翳してみるも、動くのはレバーハンドルのみ。どうしたものかと困った名前はルームキーとドアに彫られている部屋番号を見てはたと気付いた。──9と0を見間違えている。酔いも冷める勢いでサッと顔を青褪めさせた名前は数歩後退した。
部屋の中に人がいたら、こんな夜更けにドアをガチャガチャと音を立てられてさぞ迷惑に違いない。一言謝罪をしておくべきかと迷っていると、ドアの向こうから人の気配がし、ロックが外れる音がした。思わず息を呑むが逃げ場は生憎どこにもない。
大人しく怒られて謝罪しよう、と腹を括った名前の前に現れたのは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた獄寺だった。ぱち、と視線が混じり合い、沈黙が訪れる。

「…何やってんだお前」

「や、夜分にすみません」

実は部屋を間違えまして、と言葉の途中にも関わらず獄寺が名前の腕を引っ張るので不自然に途切れる。
ゆっくりとドアが閉まり、閉まったドアを背にきょとんと目を丸くする名前に思わず獄寺は頭を掻いた。相手が獄寺だと分かった時の名前の気の抜けた瞬間が、彼には手に取るように分かった。まったく同じ状況で相手が獄寺ではなく面識のない人間だったなら、彼女はきっと大人しく部屋に引きずり込まれる事はなかっただろう。
何故もっと警戒心を持たないのか、ヴァリアーの名を背負う人間の所作にはとても見えない等と言いたい事は色々あった。しかし名前を前に下心があるのも事実、都合よくそれを全て飲み込んで、獄寺は名前が落としたルームキーを拾い上げた。部屋を間違えたと零した彼女の言葉通り、確かに自分の部屋番号と記載されている数字を照合すると間違える数字に心当たりはあった。

「獄寺さん…?」

「……ちょうどいい、付き合え」

降ってきたチャンスを自ら潰してしまう程、獄寺はお人よしではない。
え?と疑問符を浮かべる名前に構わず、掴んだままの腕を引き、奥に連れていく。2脚あるうちのひとつに彼女を強引に座らせ、新しいグラスを目の前に置いた。その隣には既に半分程の琥珀色の液体が入ったグラスが鎮座している。ボトルのラベルを見た名前がうっと言葉を詰まらせた。

「私、ウイスキーはちょっと…」

「まるでそれ以外だったら飲めるような口ぶりだな」

「すみませんお水をお願いします」

「はっ、下戸が強がるんじゃねえ」

初めからそう言えと言う割に、試すような真似をした獄寺を問い詰められる程、今の彼女の頭は正常に機能をしていない。全く飲めないという訳ではないと思わず反論しそうになるが、思い直して名前はきゅ、と口を結んだ。賢明な判断である。
備え付けの小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを1本取り出し、名前に放る。手のひらに伝わるひんやりとした感覚に目元を緩ませた。頬に付けると体の中に滞留する熱が逃げていくようで酷く心地が良い。
「熱いな」いつの間にか彼女の隣に腰を下ろした獄寺の手が名前の頬に触れる。びくりと肩を揺らした彼女に「別に取って食いやしねえよ」と獄寺は喉の奥を震わせて笑った。あの常に眉間に皺を刻んで、唯一気を抜くのは沢田の前くらいの獄寺が笑うなんて珍しい。そんな心の声を顔にありありと浮かべ獄寺を凝視した名前は今更ではあるがある事に気が付いた。

「…ああ、何か違うと思ったら、眼鏡を掛けていたんですね」

「はあ?今更か」

「似合っていますよ、とても」

酒を飲みながら事務作業でもしていたのだろう、開きっぱなしで放置されているノートPCを見て名前がにへらと気の抜けた笑みを浮かべる。
突拍子もないその言葉に獄寺は言葉を詰まらせた。頬に触れる手の体温が心地よいのか、まるで猫のように名前は目を細める。酒が入っている所為か口調がいつもよりのんびりとしていて、多少の距離の近さにも今だけは疎い。
グラスに注いだミネラルウォーターを飲む仕草がどことなく艶めいている。眼鏡を外した獄寺が軽く目頭を揉む。──知らぬうちにアルコールが回ったのか。酒に主導権を握られ振り回される情けない年齢はとうに過ぎた筈なのに。
こくりと上下する白い喉元に噛みつきたい衝動を獄寺は無理矢理抑え込んだ。

「…苗字」

「はい?」

「おまえは何でマフィアになったんだ」

いつになく真剣な眼差しの獄寺とは対照的に嗚呼なんだ、そんな事かと名前は拍子抜けしたように小さく笑う。
苗字名前の経歴はボンゴレの中では一部機密情報となっており、データの閲覧には制限がかかっている。それ故事実を知る者は極一部、元一般人でヴァリアーに入隊したという曖昧な情報しか出回っていない。けれど──「貴方なら、態々私から聞かずとも知っているでしょう」グラスを揺らす名前の表情からは何も読み取れない。
マフィア、ひいては裏社会とは無縁の一般人の名前がどうしてこの世界に足を踏み入れる事になったのか、彼女が指摘したように獄寺はその経緯を既に知ってはいた。だがそれは、飽く迄も第三者による報告書を見ただけに過ぎない。

「おまえは──」

「マフィアを恨んではいないのかと、そう聞きたいのですか?」

獄寺は無言でグラスを煽る。それを肯定と見做した名前は少しだけ考える素振りを見せた。

20.09.18
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