淋しい君が欲しい


引っ張られた腕が痛いだとか全体的に距離が近すぎるだとか、言いたい事は色々あったが、目の前の男はそれを口に出す事を許してくれる雰囲気ではなかった。はあ、と名前が小さく溜息を漏らすだけで、ぎろりと鋭い眼光が瞬時に黙れと圧をかけてくる。勢いよく壁に押し付けられた所為で背中が痛い。
ボンゴレアジトの廊下の一角。野暮用で訪れていた名前は突然腕を掴まれ廊下から完全に死角となる場所で緩やかに拘束されていた。見事なまでの貰い事故だが、「油断をした名前、君にも非はあるよ」ともし自分の主が傍に居たらそんな言葉を浴びせられるのは容易に想像できた。まさか身内の領地内でこんな事になるとは想像していなかったのだが、手厳しいマーモンにそんな言い訳は通用しない。
説明もないままこのような不本意な状況に置かれてしまったが、小さな攻防戦をしつつもきっちり気配を消しているのだから両者とも文句のつけようのないマフィアの一員だと認めざるを得ない。

「ハヤト?何処にいるの?」

何処からか耳馴染みのある声が聞こえてきて、嗚呼だからかと名前は一人納得する。ちらりと目線を上に向けると、捜索されている本人は明らかにその声に動揺していた。手首を掴む手に力が込められる。もう片方の手は名前の真横に置かれており、抜け出すのは難しそうだ。しかしされるがままも何だか悔しいので、名前は背伸びをして獄寺の耳元でそっと囁いた。

「呼ばれていますよ」

「…っ、うるせえ」

悪戯を思いついた子どものようにきらきらした瞳を見つけたのか、獄寺の眉間の皺が深くなる。
すん、と鼻を啜れば仄かに香る煙草の匂い。無造作に緩められたネクタイ、シャツから覗く首筋、壁に押し付けられ密着する身体も、第三者から見たら赤面モノに違いない。獄寺に余裕がない所為か、名前がその距離に動揺する素振りはない。
「おかしいわね」そんな独り言が聞き取れてしまうのだから、まだ彼女はこの近くをウロウロしているらしい。鴇浅葱の艶やかな髪を揺らし、ただ純粋に腹違いの最愛の弟を探しているだけだというのに可哀想な仕打ちだ。

「呼んで差し上げましょうか?」

「黙ってろ」

普段は見せない焦燥の滲んだ獄寺の表情は名前の悪戯心を見事に擽った。ビアンキを前にした獄寺を名前は一度だけ見た事がある。幼少期のトラウマが彼をそんな体質にさせてしまったようだが、当事者でない名前からしたら物珍しい以外の何物でもない。それをもう一度見れるチャンスが今ここに転がっている。これ程面白いものを見逃せというのは無理な話だ。
名前の真横に置かれていた手が不意に彼女の頬を滑る。ぴくりと驚きで肩が揺れ、見下ろす獄寺の瞳と目がかち合った瞬間、名前は口元を引き攣らせた。たまには翻弄する側に回ってみたいというほんの出来心からのものだったが、どうやら名前は引き際を誤ったようだ。
「苗字」ただ名前を呼ばれただけなのに、背筋に冷たいものが流れるのは何故だろう。殺気を向けられて畏れているのではない。今の名前には質の悪いもので、いっそ殺気を向けられた方がまだ冷静に対処が出来ただろう。
この手の展開は、彼女が最も不得手としている類のものである。

「ご、獄寺さん」

「……」

「お、落ち着いて、話し合いませんか」

立場が逆転したのは一瞬だった。頬を滑る手が名前の顎先を撫でる。ごくりと思わず生唾を呑み込むと色素の薄い瞳が細まる。そのまま下唇に宛がわれる指先の温度を感じて、彼が話し合いをしてくれる気がない事を悟った。
ゆっくりと撫でる指先の動きだけで、どうしようもなく心を乱される。平静を装う事で精一杯の名前は指先一つ満足に動かせないでいる。

「獄寺さ、」

「黙ってろ」

先程と同じ言葉の筈なのに、そこに色めいた物が混じっているように感じるのは何故だろう。全く別の言葉に聞こえる。
ぐい、と顎を持ち上げられ、未だ眉間に皺を寄せ、けれどそれすらも美しいと思ってしまう顔がゆっくりと近づいてくる。息を呑むような色気を纏うそれに、名前は言葉を奪われる。
最初は互いの体温を確かめ合うような優しいくちづけだった。名前は目を閉じる事さえ忘れ、ぼんやりとする視界の中、自分以外のぬくもりに心臓が跳ね上がり、思考が停止する。こちらを見下ろしていた筈の鋭い眼光は鳴りを潜め、顎を掴んでいた筈の手はいつの間にか腰に回され、先程よりも随分と距離が近い。
ビアンキの声も気配もいつの間にか消えてしまっていたが、それを確認する余裕など名前にはなかった。
軽いリップ音がやけに耳に残り、カッと身体の奥が熱くなる。頬を朱に染める名前を満足げに見下ろす獄寺は、形勢逆転だと口の端を吊り上げた。びくりと身体が震える。それに合わせるように、意味深に手首を掴んでいた手が離れそのまま名前の指先に絡まる。
見た目はまるで密会をしている恋人同士の戯れのようだった。異性の煩い口を黙らせるには実に有効的な手段ではあるが、それ以上の情が含まれている事に名前は気付かない。

「し、静かにします、からっ」

「……苗字」

「悪ふざけはもう、」

言葉の途中で再び唇を塞がれてしまった名前は、呆気なく口内への侵入を許してしまった。唇なんて比ではない、ダイレクトに伝わるぬくもり。背筋を這いあがるゾクゾクとしたものが、名前は怖かった。「んん、っ」と鼻にかかるような甘い吐息が意図せずに獄寺を煽る。

「や、やめ…っ」

「今日は助けてくれる保護者は居ねえぞ」

腰を這う手に薄っすらと目に膜が張る。マモちゃん、と縋るように震える唇も、獄寺を煽る要因の一つにしかならない。
絡まる指先を外そうと力を入れた時だった。鈍痛が走り思わず息を呑む。その様子にいち早く気が付いた獄寺は拘束を解いて肩に触れた。一瞬の身体の強張りを見ただけで患部の大凡の検討をつけてしまう当たりが名前にはとても厄介だった。

「銃創か?」

「ええ、まあ。…数日前に過去にタイムトラベルをしまして」

あん時のやつか、と獄寺にしてみたらもう10年以上前の話なのに随分と記憶力が良いものだと感心もしたが、内容も内容なだけに早々忘れられるようなものでもない。
結局患部は応急処置としてルッスーリアのクジャクに傷口だけ塞いでもらい止血をし、貧血を防ぐ為に増血剤を打ってレヴィに小言を言われながらも無事に任務を完遂した。
傷口は塞がったから、と放置していたが、見かけだけで痛みが完全に取れるまではまだ掛かりそうだ。

「きちんと治せ」

まるで名前の考えを見透かしているような的確な物言いに、素直に虚をつかれた顔をしてしまった。故にそれを肯定と受け取られてしまい、名前は何も言えなくなる。こつりと力なく後頭部を壁に押し付け、肩の力を抜いた。完敗だ。

「おまえは──」

昔のオレに似ている

音にならなかったその続きは獄寺の胸の中でどろどろと渦巻く。自分には関係のない事だと、あの時の光景を見ても何も思わなかった。所詮は他人事、そう思っていたのに──。獄寺は名前があの時何の躊躇もなく自分に向けて引き金をひいた気持ちがよく解っていた。
嘗て自分が“そう”であったように、名前もまた、自分を顧みない、自己犠牲を当然と考えているひとりの人間だ。
今もし、敬愛して止まないボンゴレ10代目が人質に取られ、拳銃を自分に向けて撃てと言われたら獄寺はそれを躊躇するだろう。沢田の気持ちを考えたら、引き金なんてひけはしない。──それでいいと、自らに生き残る術を教えてくれた師は言い、沢田もまたそうだった。
あの争奪戦は獄寺の生き方を大きく変えた忘れられない戦いだった。

「獄寺さん?」

これが、名前だったらどうだろう。きっとあの時と同じように、人質に取られたマーモンの為に迷いなく引き金をひくだろう。
獄寺は聖人君子でも何でもない。一定数いるそういう生き方をしている人に、あれやこれやと自分の考えを押し付ける事は好まないし興味もない。けれど──名前がずっとそのまま変わらずに生きていく事をもどかしく思うのは事実だった。諭したところで曖昧に笑ってすり抜けられてしまうだろう。
それでも、あの人の為に生きているのだと、自分の生にすら一切の迷いなく天秤にかけられる彼女を、獄寺は放っておく事は出来ない。
「…何でもねえ」そのくせ伝えたい事は何一つ言えない臆病な自分にほとほと嫌気が差した。

「ああ〜?なんだなんだ、こんなトコでイチャつきやがって。オレへの当てつけか?」

突然降ってきたその声にいち早く反応を示したのは名前だった。ぱっと顔を明るくして獄寺の腕の間からその人を視界に入れるや否や、形ばかりの拘束を呆気なく解いてその身を投げ出した。

「先生!」

その人物を知る女性からしたらかなりの自殺行為を名前は迷いなくやった。勢いよく飛び込んだにも関わらず男はよろける事もなく、スマートに名前を受け止め、当然のようにその背に手を回している。
うげ、と獄寺は思い切り顔を歪めた。それなりに尊敬をしている人物ではあるが、それは飽く迄も殺しのスキル、人間性の部分は死んでも真似はしたくない。
嘗ては暗殺部隊ヴァリアーにスカウトされた事もあるフリーの殺し屋兼闇医者の「トライデント・シャマル」は鳴りを潜め、名前を目の前にだらしなく口元を緩めていた。

「名前〜!元気にしてたか〜?」

「いい加減にしやがれ!」

語尾にハートでも付ける勢いで、ぎゅう、と抱きしめるシャマルに我慢の限界が来た──元々気が長い訳でもない──獄寺は9割女の事しか考えていないそのおめでたい頭部目掛けて容赦なく拳を振り下ろした。

「なんだハヤト居たのか」

「なんだじゃねえ!」

「先生、どうしたんですか、ここ」

無理矢理シャマルから引き離された名前が獄寺に首根っこを掴まれた状態で彼の頬を見て首を傾げた。「これか?」見事に赤みを帯びた手形マークをひと撫でしてへらりとシャマルは笑った。

「さっき愛しのビアンキちゃんに会ってな」

相変わらず照れ屋さんでさーとデレデレとした態度を崩さない彼の横で獄寺は思わず腹を抱える。先程の件があった所為で名前を聞いただけで身体が拒絶反応を示してしまう。

「これ、この前の血液検査の結果だ」

不意に真面目な顔をしたシャマルが白衣のポケットから折り畳まれている一枚の紙を出した。受け取りながら名前はこの為に出向いてきたのだったと当初の目的を思い出した。
渡された紙を見ても細かい数値がずらりと並んでおり、隣に基準値が記載されていても読む気が一瞬にして失せる。じっとそれを見る獄寺に気付いていても特に何も言う素振りはない。見られたところで困る事など何もないからだ。
「おまえ、ちゃんと見ろよ」自分の事なのに早々に紙を折り畳んでしまった名前に獄寺が思わず苦言を呈する。それも想定の範囲内だったようで、補足するようにシャマルは口を開いた。

「内臓機能は問題なく正常、他の数値も同様、他CT、MRIオールクリアだ。お疲れさん」

「はあ、良かったです」

名前とシャマルの付き合いは長い。現在は定期的にこうして検査を受け、異常がないかを調べてもらうだけではあるが、あの抗争に巻き込まれて意識不明の重体になった時も含めれば相当の年月彼に診てもらっている。

「名前」

「はい?」

「命は大事にしろよ」

名前の頭を乱暴に撫で、シャマルはそう口にした。普段が普段なだけに、真面目な顔をしていう言葉には重みがある。
ぐ、と獄寺はその言葉に拳を握り締める。どうしても言えないその言葉をすらすらと言えてしまうシャマルがこの時ばかりは羨ましかった。

「ありがとうございます」

長い髪を結う赤いリボンを揺らしながら、名前はにこやかに笑ってそう答えた。
お前はいつだって「はい」とは頷かないんだなと、シャマルは口に出せても届かない言葉を悲しく思った。本来ならば自らの命を大事にしない人間は女であろうと診る価値はないと彼は思っている。けれど、名前に対してそう強く出られないのはその境遇故か。
2人の男のそれぞれの心境など露知らず、名前はそれじゃあと軽く手を振って霧の守護者らしくゆらりとその姿を消してしまうのだった。

20.09.03
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