鮮やかな憂鬱
「アイツ、中々やるぞ」ボルサリーノを深く被り直し、ぽつりとリボーンがそう呟いた。隣に居た沢田綱吉だけがその独り言にも近い言葉を拾い上げたが、聞き返すよりも早くもう一つの音が体育館に響いた。
ピシ、と体育館の窓ガラスに小さな亀裂が入る。静かに空を切り裂いて標的に向かって放たれた弾丸は、ターゲットを貫く事無く壁に減り込んで呆気なく役目を終えた。ヴァリアーに身を置き、常に命の危険に晒されている分常人よりもあらゆる感覚が研ぎ澄まされ、僅かな殺気にも身体は機敏に反応をする。
ちらりとリボーンに視線を向けても、帽子の鍔が陰になって彼が今どんな表情をしているのか見る事は出来ない。しかし素人目に見ても、突然現れた得体の知れない彼女が普通ではないのは明らかだった。
ごくりと生唾を飲み込む。まるで頭部に目でも付いているかのようだった。──否、例え頭部に目が付いていたとしても、こんなにも容易く弾丸を避ける事など出来るのだろうか。割れた窓の位置からしても、狙撃した人間は学校の屋上かそれよりも離れた場所から撃っている事は確かだった。反射的に避けるにも限界がある。そもそもどんなに運動神経が良くても、こんなにあっさりと躱せる訳がない。
「邪魔ですねえ」
今の狙撃ですっかりやる気を削がれてしまったのか、振り返った名前が気怠そうにそう零した。サバイバルナイフをホルスターにしまい、袖に仕込んでいた数本のダガーを指の間に挟む。キュ、と独特の音を鳴らしながらテンポ良く狙撃を躱して、名前は窓の枠ギリギリを狙ってダガーを投げた。
体育館の窓は当然防弾ガラスではないが、代わりに万一に備えて飛散防止フィルムが貼られている場合がある。絶妙な力加減で窓に刺さったダガーから罅が大きく広がり、同時に狙撃がぴたりと止んだ。
視界を見事潰されてしまった今、安易に撃つ事は出来ない。飽く迄も狙いは名前であり、当てずっぽうで撃った弾が守護者たちに当たってしまうのは彼女たちの本意ではないのだろう。
然程時間を要する事無く残り全ての窓を同じ状態にしてしまった彼女はやがて体育館の入り口を挑戦的な面持ちで見つめた。
「ウォーミングアップくらいにはなるといいのですが」
装いや体格、髪型で多少バラつきはあるが、これだけの“チェルベッロ”が集まるのは異常だ。「申し遅れましたが」彼女たちが銃口を向けるより早く、名前の足先がフローリングを軽く突いた。
「独立暗殺部隊ヴァリアーが幹部、苗字名前と申します。どうぞ良しなに」
彼女の足の先から大きな亀裂が走り、そこから伸びてきた鋭い枝の先がチェルベッロの腹を抉る。
生きるか死ぬかの駆け引きの中ではルールも卑怯という言葉も存在しない。死んだら終わり、それだけである。例え相手が自分より戦闘能力が劣っていても、トドメを刺す瞬間であろうとも、気を抜く事は許されない。
ずきりと頭の奥が悲鳴を上げる。反射的に頭を押さえ、沢田綱吉は背を丸めた。マーモン、六道骸、そして彼女──短時間にこれ程までの幻術を強制的に体感させられるのは心身ともにダメージが大きい。
顔には出さずともそれはヴァリアーも同じだった。
流れ弾の一つが名前の眉間を打ち抜いた。しかし彼女は倒れるどころかけろりとした様子で攻撃の手を緩める様子はない。一体どうなっているんだと思ったところですぐ近くで「よいしょっと」と声が聞こえた。
「え?…え?!」
「ああ沢田さん、こんばんは」
サークルのすぐ傍に立つ名前が沢田に向かってにこやかに微笑んでいた。その腕にはクローム髑髏が抱えられている。一体いつの間に、と言葉を発するよりも早く、今にも噛みつかんとする怒声が響いた。
「お前!そいつをどうするつもりだびょん!!」
「………」
文字通り今にも牙を剥きそうな勢いで名前を睨みつける城島犬と彼とは正反対に一切の言葉を発しないがピリピリとした殺気を隠そうともしない柿本千草がサークルギリギリのところまで詰め寄り敵意を剥き出しにする。そんな彼らの態度には気にも留めず、意識のないクローム髑髏をそっと横たえ、脱いだコートを彼女の身体を覆うように掛けた。
「流れ弾にでも当たったら危ないので」
このコート、特殊な繊維が編み込んであるのでその辺の防弾チョッキより頑丈ですよ、なんて茶化す名前を柿本千草はじっと見つめる。解せないとでも言いたげに、その真意を探ろうとする無遠慮な視線を向けられても、名前は表情を崩す事はなかった。
「彼女と骸さんには、お世話になっていますから」
ぴくりと2人の肩が揺れた。それ以降、彼らが名前に対して口を開く素振りはなかった。
あれだけの数が居たチェルベッロも、幻術を前にすれば赤子も同然だった。面白いくらいに創り出されるモノに惑わされ、時には相打ち、幻の先に居るホンモノの彼女に辿り着ける者は一人としていない。
床から不自然に突き出す植物の根も、腹を貫通する木の枝も、なんてことはないただの子供騙しの幻である。──脳から全身に駆け巡る痛みですら。そうして無防備に晒された身体を時折飛んでくる実弾が蝕み、呆気なくその命を刈り取るのだ。
「まるで蟻を潰しているみたいですねえ」
何の面白みもない。──達成感も、快楽すら。一方的な蹂躙は飽きが来るのが早い。
「あーつまんねえ」それはきらきらと輝くティアラを頭に乗せてにんまりと笑みを湛える気分屋の彼が理不尽な虐殺をした末によく口にする言葉だった。今なら彼のその言葉の意味が解る気がする、とそんなどうでもいい事が彼女の脳裏を過った。
「ああそうだ、山本さん」
「…えっ、オレ?」
まさか話しかけられると思っていなかったのか、きょとんとした表情で山本は己を指さしながら名前を見た。かち合った目線がそれを静かに肯定し、「スクアーロさん」と彼女の口から飛び出したよく知る人物の名前に無意識に肩が強張った。
「ルッスーリアさんは兎も角、あのスクアーロさんが死んだのですか?」
正確には、貴方が殺したのですか?という問いかけなんですけど
ぐ、と唇を噛み締め、何かを思い出すかのように眉間に皺を寄せて視線を逸らした山本に名前はこれ以上追い打ちをかけるような事は言わなかった。
ただ純粋に興味があったのだ。──あれ程の実力者であるスクアーロが、こんな隙だらけの少年一人に殺られたなどとても信じ難かったから。
「…待てよ」突如何かに気が付いたかのように漏れた獄寺隼人の呟きは、誰かに対するものではなく自らの思考に抑制を掛けるそれだった。
「未来から来たテメェが消された筈のルッスーリアとスクアーロを知ってるなんて可笑しいじゃねえか」
この時代の“あの状態”の彼女とヴァリアーに繋がりがあるとは獄寺は見た限りでは到底思えなかった。現れた彼女に対するヴァリアー側の態度がそれを明確に裏付けた。
それを踏まえると可能性はふたつ。死んだ彼らが実は生きていた、または──このリング争奪戦が誰一人として犠牲者を出す事無く終結した。
「…あ!」獄寺によって示されたその2つの可能性は沢田に希望の光を見せた。誰も死なない未来がある。
「残念ですが」けれど、きらきらと輝くように見えた希望は名前の言葉にすぐに打ち砕かれた。
「未来はひとつではないんです。仮にこの世界の未来がそうであったとしても(私というイレギュラーな存在が無理やり介入した事で多少なりとも変化が生まれてしまっています。──それこそ未来を変えるには十分過ぎる程の」
「そんな…」
未来とは宛ら蜘蛛の糸。脆く弱い糸で作られた巣は沢山の可能性を秘めている半面、不確定要素の塊だ。なんてことない少しの衝撃で糸は呆気なく千切れ、伝染するように周囲の糸を巻き込んで潰える。新しく糸を張る事は出来ても元に戻す事は出来ない。
鼓膜を刺激する銃声、鼻を衝く硝煙。僅か先で吹き上がる血飛沫にくらくらと眩暈がする。
「──だから」
私は怒っているんです、とても
ぞくりと身体の奥底から震えが競り上がった。先程まで飄々とした態度を取っていた彼女と、今の彼女は本当に同一人物なのだろうか。明確な殺意と怒気を孕んだ瞳はそのあまりの気迫にとてもじゃないが直視する事は出来ない。指先が情けない程に震え、呼吸を自由にする事すら儘ならない。
「しっかりしろダメツナ」容赦なく後頭部を殴りつけるその小さな拳にこれ程感謝したのは今日が初めてだった。
いいかい、名前。金にならない殺しはするんじゃないよ
勝手に死ぬ事も許さない
君は僕の──
「…あなたとの先がない未来なんて、私には何の価値もない」
一切の未練も躊躇いもなく、名前は銃口を己の米神に押し当てた。
20.08.24